てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

秋深まる京都へ(4)

2012年12月03日 | 写真記


 参道をのんびり歩いて、平等院の表門にたどり着く。チケットを買おうとして自分の番を待っていると、受付のおばさんが「鳳凰堂は修復工事中で見ることができません。阿弥陀様の参拝もできません」と説明しているのが聞こえてきた。そんなこと、こちらは先刻承知のうえだ。

 けれども、皆がそういうわけでもなかったらしい。その話を聞きつけた若い女性が「え? 鳳凰堂見られないんだって」と大声を上げると、「そうなのか、じゃあどうしようかなあ」と戸惑ったように隣の男がこたえる。

 修理の件は全国のニュースでもけっこう大きく報じられたし、平等院のホームページにもはっきりと目立つフォントを使って明記してあるし(しかも英語でも中国語でもハングルでも書いてある)、これ以上は告知のしようがあるまいに。こうなったら、宇治線の電車の車体にデカデカと「鳳凰堂は見られません」と書くしかないか。

 参拝客にいちいち説明するのが面倒になったのだろう、受付のおばさんは声を張り上げて、門前にいる20人ほどの人たちに向かって叫んだ。

 「今、鳳凰堂は工事中で、再来年まで見られませんから!」

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 古い日本建築は、どうしても大規模な修復が必要になるのはわかる。けれども、今年はとりわけ工事が集中しているような感じがなくもない。ちょっと思いつくだけでも、東本願寺の阿弥陀堂、姫路城の大天守、薬師寺の東塔、東大寺の正倉院など・・・。

 関西以外では、まだまだあるだろう。たしか日光東照宮も修復をしているはずだ。こう考えてみると、わが国の文化財建築はいつもどこかしらが工事中で、ひとつが終わると次のがはじまり、永遠に途絶えることがないということにほかなるまい。これも輪廻というか、命のリレーといえば、まあそうであろう。

 けれども見方を変えれば、工事中の寺院を見ることができるというのは百年に一度あるかないかの絶好の機会だ。今これを逃すと、二度と見ることはできない。毎年必ずやってくる紅葉よりも、はるかに貴重な体験だともいえるのである。

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 境内に足を踏み入れると、あった。それはここにあるのが不思議なほどの、異様な建造物だった。灰色のカバーにすっぽりと覆い尽くされたような鳳凰堂!

 といっても、その細部は見ることができない。けれども、たしかにこれは鳳凰堂だと感じさせるものがある。美しいシンメトリーのシルエット、そして普段は伽藍の影を映している阿字池のおもてには、斜めに突き出た数本の丸太が刺さっているように見える。こういう光景と鉢合わせしたことを、運がいいと取るか、不運と取るかだ。

 ぼくはたちまち、梱包芸術家と呼ばれるクリストのことを思い浮かべた。彼は建築物や橋など、地図に載るような巨大な物体を布でまるごと包み、アートとして発表するプロジェクトを長年つづけている。それには地元自治体との気の遠くなるような地道な交渉と、ドローイングなどを売って巨額の経費を稼ぐというビジネス的な要素とが絡み、数年かかってようやく日の目を見るという、途方もないプロセスが待っている。

 けれども平等院は、クリストが頼みもしないのに世界遺産の建築物の“梱包”を決め、しかもそれはごく短い期間のうちに実現された。彼にいわせれば、あまりにあっけなくてつまらないかもしれない。けれどもせいぜい数日から一か月程度で撤去されてしまうクリストの作品とちがって、こちらはあと一年以上は確実に存在するわけだ。

 宇治の一画に、ちょっとした現代アートスポットの誕生である。



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