てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「美術館」って何?(2)

2013年04月12日 | その他の随想

〔兵庫県立美術館の屋上で来館者を出迎えるオブジェ。その名も「美(み)かえる」〕

 さて、今回の稿を起こす気になったのは、金沢21世紀美術館の館長が著した本を読んだからだ。

 今さらいうまでもないが、美術館には基本的に、館長がいる。学校にはそれぞれ校長がいるようなもので、ごく当たり前の話である。ただ、国立西洋美術館と大原美術館の館長を歴任した高階秀爾氏や、三菱一号館美術館の館長である高橋明也氏、MIHO MUSEUM館長の辻惟雄(のぶお)氏のようなごく一部の人をのぞいて、世間にその存在が知られているケースは非常に少ないといっていいのではなかろうか。人事異動があった場合でも、一般向けに報道されることはほとんどない。

 日ごろから行きつけの美術館があるという人でも、そこの館長が何という人でどんな顔をしているか、知らない場合が大半を占めるであろう。ただ、別の理由から、一度覚えたら決して忘れられない人もいるけれど・・・。大阪の中之島にある東洋陶磁美術館の館長は、驚くなかれ、出川哲朗という名前なのだ。もちろん、芸人とは同姓同名の別人で、かのドナルド・キーン氏の教え子だという、まっとうな人である(ちなみにぼくは以前、美術講座か何かのポスターで「講師・出川哲朗氏」と書かれてあるのを見て、あのウルサイ人がいったいどんな講義をするのだろう、と本気で訝ったことがあった)。

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 ところで、本来ぼくは一介の美術愛好家にすぎず、しかも自分で作品をコレクションしたりすることはないので、あくまで“心の肥やし”として美術館にかよいつめているだけである。これまでにも何度か書いてきたように、美術品と“対話する”ことがもっとも重要で、かけがえのないことではないかと思っている。

 ただ、美術はそういう心の問題ばかりではなく、しばしばカネにまつわる下世話なニュースが世間を賑わせることもたしかだ。特に、誰それの何という絵がいくらで落札された、などという報道は毎年のように耳にするのだが、高額で売買でもされなければ美術の話題が人の口にのぼることもないのか、と苦々しく思う。

 もうひとつは、美術館の入場者数にまつわるニュースである。運よく展覧会の何万人目かに入場すると、新聞に顔写真と名前、年齢までが掲載されることがある。もちろんそれは偶然であって、その人の手柄でも何でもないわけだが、記念品として図録がプレゼントされたりする。そういう僥倖に一度も巡り合ったことのないぼくとしては、少々腹立たしい思いも禁じ得ない。

 だいたい、こういった話題は、美術の本質とは何の関係もないではないか? 美術の価値とは、それをいくらで購入したとか、何万人の人が訪れたとかいう話ではなく、その絵の前でどれほどの人が心を動かされたか、ということに尽きる。もし、誰も感動しないような美術品を後生大事に所蔵していたって、それは宝の持ち腐れにほかならない。だからこそ美術館を整備して、できるだけ快適に、安価に、多くの人が観られる環境を作るべきだ、とぼくは考えている。

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 けれども、多くの人を呼び込むことを前提として美術館を作るというのは、順序が逆ではないか、という気もするのだ。というのは、金沢21世紀美術館という施設が、まさにそうやって作り上げられた美術館だからである。

 日本人の好きな印象派の絵を見せるというわけではなく、取っ付きにくい現代美術の展示に特化したところが斬新といえば斬新だが、結果的に初年度の入場者が157万人を超えるという、驚異的な大成功を収めるに至った。兼六園が江戸時代の大名庭園として作られ、一般公開されてからでも140年近い歴史を誇っているのに比べて、この美術館は竣工してから10年もたたないうちに、金沢を代表する観光名所として揺るぎない地位を獲得したのである。

 この事実は他の美術館関係者を驚かせ、また震え上がらせもする、まさしく大事件といってもいいものだったろう。

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