てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京を歩けば(18)

2009年04月07日 | 写真記


 翌週は3連休であった。その初日に、ぼくはまたしても夜の東山にあらわれた。この休みを利用して1泊の予定で福井に帰省するつもりでいたので、残された1日だけでも京都に首まで浸かりたかった。

 といっても、普段から夜の京都をそぞろ歩くことは少ない。あるとすれば大晦日の晩か、祇園祭の宵山か、五山の送り火のときぐらいである。同じ都会であっても、大阪と比べれば京都の夜は驚くほど早く更けていく。そんな“時間外の京都”を開拓し、高く聳える伽藍を照らす煌々たるライトと、地を這うように並べられた行灯で陰翳豊かに盛り上げようというのが、花灯路という催しの主眼であろう。いってみれば、京都を光でふちどる試みである。

 大阪にも、御堂筋をライトアップしようという話がある。知事が公約に掲げていたものという。しかしわざわざそんなことをしなくても、大阪の夜はじゅうぶんに明るい。ぼくも何度かクリスマスのライトアップなどに出かけたことがあったが(「メリー・クリスマス・アフター」参照)、目立たせるために光を点滅させたり色を変えてみたり、音楽に合わせたショーをやってみたり、手の込んだ演出に頼らざるを得ないようである。

 光そのものがもつあたたかみというか、輝きがもたらすありがたみのようなものが、不夜城のごとき大阪では絶望的に薄らいでしまった。それを現代人の感性のなかに取り戻すのは、なかなか難しいことだ。「マッチ売りの少女」は今の大阪には存在し得ず、誰にも気づかれないまま路頭でのたれ死ぬしかない。

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 あれから1週間も経つと、円山公園の枝垂桜にはすでにピンク色のものがまじっていた。老婆のようなたたずまいに、うぶな小娘のような赤みがさし、何ともいえぬ色香をただよわせる。けれども考えてみれば、樹木は何百年も、ときに何千年もの寿命を生きながらえる一方で、毎年花が咲いては散り、死と再生を間断なく繰り返してもいるのである。媼(おうな)と娘とが重なって見える瞬間があっても不思議ではない。

 この日の花灯路は、先週以上にたくさんの人出で賑わっていた。公園の一画にある「長楽館」という名の洋館の前では、紙コップに入ったあたたかい飲み物がふるまわれていた。黒っぽい液体だったのでコーヒーかと思ったら、ホットワインの香りがぷんと鼻をくすぐった。



 長楽館はもともと村井吉兵衛という実業家の別邸だったところである。今からちょうど100年前の1909年に建てられている。現在ではカフェやレストランとして利用されているらしいが、ぼくは入ったことがない。ロココ調の内装を写真で見たことがあるが、豪華な装飾があふれていて、高級感にみちている。ちょっと敷居が高い感じがしないといったら、やっぱり嘘になる。

 館内では分煙が実施されているということだが、これはなかなか興味深い事実だ。というのも村井吉兵衛は、煙草の製造販売で巨万の富を得た人物だからである。かつて五条坂の河井寛次郎記念館に出かけたとき、あてもなく近所をうろついていたら、古びた煉瓦で作られた巨大な建物に出くわして驚いたことがあった。村井ブランドの煙草が1日1000万本ものペースで生産されていたという工場跡が、まさにそこだった。近代の京都は、煙草産業のメッカでもあったのだ。

 大富豪となり「煙草王」とも呼ばれた村井吉兵衛は、煙草が専売化されると、他の事業に手を出しはじめた。銀行経営もそのひとつで、大銀行に引けをとらない重厚な建築をあちこちに建てた。しかし大正の終わりに村井は没し、昭和に入ると恐慌のあおりを受けて村井銀行は破綻した。彼が一代で築き上げた財力と名声は、はかなく立ちのぼる紫煙のように消えてなくなってしまった。

 ただ、いくつかの支店の建物が今でも残されている。祇園支店はアーケードに上下を分断されるようなかっこうで祇園商店街のなかほどに聳える。七条支店もJR京都駅近くに現存している(どちらもイタリア料理店になっていて、ぼくは何も知らずに後者の店に入って食事をしたことがあった)。五条にも支店が残っているが、こちらは信用金庫の店舗として利用されているそうである。

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 枝垂桜に背を向けて、長楽館の前を行き過ぎると、強烈な光を照射された「祇園閣」が夜空にくっきりと浮かび上がって見えた。一見してわかるとおり、祇園祭の鉾のかたちをしている。昭和のはじめ、村井財閥の消滅と入れ替わるように出現した3階建ての建物で、大倉財閥を創業した大倉喜八郎が金閣・銀閣に次ぐ3番目の楼閣としておっ建てた展望台であったそうだ。今では一族の手を離れ、寺院の所有になっている。いってみれば、三重塔の代わりのようなものである。

 まったく、金持ちというものはいつの世にも人をあっといわせるようなことをやりたがる。だが、平成の大富豪はなぜか海外のほうにばかり眼が向いていて、京都には何の関心も示していないようにも見える。以前は競うように別荘が作られた京都の地も、やがて観光都市として成熟し、大勢の人々が群れをなして賑やかに歩き回るようになって、急速にその候補地から外されていったのだろう。

 かつて実業家たちの夢をかたちにすべく出現した別荘が、時代のうねりをくぐり抜けたあげくに第二の人生を迎えつつ、燦然たる人工の光を全身に浴びて、なおのこと観光客を集めている。考えてみれば因果なことである。

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