てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

「新制作展」で思うこと

2007年10月29日 | 美術随想


 この季節ともなると、怒涛の公募展ラッシュがはじまる。東京で幕を開けた展覧会が(今年から国立新美術館に会場を移したというところも多いようだ)、続々と関西に巡回してくる。芸術の秋たけなわである。

 京都展の会場となる京都市美術館でのスケジュールを見ると、主なものだけでも9月の「院展」にはじまり「主体展」、「新制作展」、「自由美術展」、「創画展」、「二紀展」、「行動展」、「独立展」、「二科展」、そして年をまたいで開催される「日展」と、枚挙にいとまがない。世の中には本当にたくさんの美術団体が活動しているものだと感心する。展示される作品数だけでも相当な数にのぼるはずだが、それよりさらに多い落選作というのがあるわけで、それも含めると日本の美術人口はかなりのものだろう。

 もちろんすべての公募展を観ようとは思わないし、美術評論家でもないかぎり不可能なことだと思うが、日程が合えば足を運ぶようにしている。といっても、なかには会期の短いものがあるので、気がついたときには終わっていたということも少なくない。

 今年はまず、「院展」を観た。これは、ここ数年間というもの一度も欠かしたことがなく、ぼくにとっては定番のイベントだ。いつもながら力作が多く、観ごたえがあった(ちなみに大阪へ巡回したときも観にいったが、心斎橋のデパートにある会場は京都に比べてはるかに狭く、春日三球ではないが「こんな大きい絵をどこから入れたんだろう」と首をかしげざるを得ない)。

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 次に「新制作展」に出かけてきた。昨年につづいて2度目の鑑賞である。「院展」が日本画に限定した展覧会なのに比べ、こちらは絵画(洋画)、彫刻、そしてスペースデザインという3つの部門をもつ。この3番目の部門が、他の公募展では類例のない独特のものだが、「スペースデザイン」という言葉がいまひとつなじまず、意味するところがはっきりわからない。立体造形といえばかなり近いかと思うが、なかにはやや工芸的な作品もあったりする(伝統工芸とはだいぶちがうけれど)。もともとは建築部といって、前川國男や丹下健三といったそうそうたるメンバーが顔をそろえていたということだ(そういえば京都市美術館のすぐ近くには、前川の代表作のひとつである京都会館があるが、ぼくは中に入ったことがない)。

 彫刻部は、何といってもぼくが敬愛するふたりの彫刻家、舟越保武と佐藤忠良(ちゅうりょう)がその設立にかかわっていたことを特記しておきたい。この随想録でも、かつて「舟越保武へのオマージュ」や「物言わぬ群像 ― 人体彫刻をめぐって(6)(7)」の記事で彼らについて触れてきた。舟越はもう死んでしまったが、佐藤は今なお出品をつづけている。しかし堅実なブロンズ彫刻の作家であった彼らとはちがい、現在は大胆な木彫の作品が多い。

 絵画部は、もともと新制作協会の母体となった部門で、この団体の核をなす(他の2部門はほとんど付け足しといいたくなるくらい、出品点数に差がある)。創立メンバーには穏健な画風をつらぬいた小磯良平と、作風をつぎつぎと変転させた猪熊弦一郎とが名を連ねていて、ちょっと奇妙な感じがする。そういえば神戸に保存されている小磯のアトリエには、「新制作展」のマーク(上図)の入ったポスターが貼られていたような記憶がある。ほかには荻須高徳や三岸節子も会員であった。

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 このように華やかな歴史に彩られてきた同展だが、今年の展示内容を観ていると、大変な混沌の渦中に投げ込まれてしまったという感が強い。特に絵画部門に、それがいちじるしい。他の美術団体でも同様なのか、ぼくはつぶさに観てきたわけではないから何ともいえないが、「院展」のような日本画の団体と比較すると、まるで半世紀ほどの時差があるような気さえする。

 ほとんどすべてが、抽象とも具象ともつかない、いわば“半抽象”とでも呼びたい作品で占められていた。一見抽象画を描いているようでも、よく観るとどこかに具象の影がさしている。これはかつてのキュビスムのように、具象から出発して抽象へ至ったという、明らかな道筋を示すものではない。いわば抽象になりきれず、具象への未練を残しているように思われる。

 しかし、なかには驚くほどの写実をきわめた作品も散見された。でも、並みの写実画というのとはやはりちがう。日常の一部分をことさらに誇張し、徹底した写実で描くことによって、かつて出会ったことのないような鮮烈なイメージを喚起する。というよりは“あばき出す”。われわれは驚きをもってその絵と対面するが、精神の内奥まで深くしみいってはこないように感じられる。つまり、心の底から感動することは少ないのだ。

 よく考えてみると、これは何も絵画の世界だけではなく、ぼくたちを取り巻く世界全体の傾向のようにも思われる。世の中、あまりにも視覚的なものにとらわれすぎてはいないか。外見さえ美しく整ってさえいれば、それでよし、といった風潮があるように思われてならない。実体から遠く離れて、色や形はひとりでに歩き出し、自己主張する。そしてそれが“実体の自己主張”だと勘違いされているのである。

 “半抽象”的な絵画は、いわば浮遊して自己主張する色なり形を、キャンバスですくい取ったようなものだ。その絵をとおして、作家像を透かして見ることは絶望的に難しい。彼らが一枚の絵を描くためにどれだけ深く考え、周到な準備をし、全身全霊で取り組んだのか ― あるいは、いないのか ― ということが、さっぱり伝わってこないのである。

 それにしても、ごく当たり前に風景を描いたような絵は、190点近い作品のなかで、ほんの数点しかない。絵を描くということがきわめて困難な時代に、今われわれはさしかかっているのかもしれない。

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 スペースデザイン部にも、似たようなことがいえる。建築部がスペースデザイン部に変化したいきさつは知らないが、すくなくとも現在では“建築的”な作品は皆無である。建築というものがそもそも、作品であると同時にパブリックなものでもなければならないという大原則を背負っていることを考えると、スペースデザインといういいかたはプライベートな、やや閉鎖的な響きがともなう。公的なものをささえる頑丈な土台が薄れ、個人的な趣味趣向の世界がはびこっている。彫刻においても、それはいえるだろう。

 佐藤忠良は一貫して人体を作りつづけているが、95歳を迎えて全身像を作るのは難しくなったのか、『島本氏』という頭部の彫刻を出品していた。老齢の男性と思われるこの島本氏が誰なのかは知らないが、小品にすぎないこの頭像が、周囲を取り巻く奔放な現代彫刻群を睥睨し、まるで頑固親父みたいに物いわず控えているさまは、「新制作展」のなかで流れた時間の長さを凝縮したかのようだった。


〔野外に展示されたスペースデザイン部の作品。前日の雨がたまっていた〕


DATA:「第71回 新制作展」
 2007年10月23日~11月1日
 京都市美術館

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