てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

京を歩けば(16)

2009年03月30日 | 写真記


 枝垂桜の前を離れ、木々が茂る東山のほうへ向かって歩いていくと、坂本龍馬と中岡慎太郎の像があらわれる。

 この像も、新聞少年と同じ昭和37年に建てられていた。片方は同時代を見据え、もう片方は歴史を記念するモニュメントである。これらが同時に作られたというのは奇縁だという気がするが、実は龍馬と慎太郎像は一度姿を消していて、これが2代目になる。

 坂本龍馬と中岡慎太郎は、慶応3年に河原町の近江屋で暗殺された。ともに30歳前後の若者だった。両者は円山公園から徒歩圏内の京都霊山(りょうぜん)護国神社に祀られ、墓碑もふたり仲よく並んで建っているらしいが、ぼくはまだ訪れたことがない。ただ、「坂本龍馬の墓」とのみ大きく書かれた看板がそのありかを告げているのは見たことがあった。龍馬人気は絶大なり、である。

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 初代の龍馬・慎太郎像が消滅したのはおそらく戦時下の金属供出令によるものと思われるが、碑文には次のように記されている。

 《両先生は単なる軍国主義者ではなく 始めてわが国議会政治の確立を唱え 外交の重要性を力説して 海運貿易の発達に伴う内外経済の平衡と文明開化を熱望し 以て国勢の興隆に卒先推進した大先覚者であった 殊に坂本先生は(略)わが国に於ける自由主義の先駆をなし その影響が 最も強く板垣退助に及んでいることは顕著な事実である しかるに 両先生の建軍の趣意は昭和軍閥にゆがめられ 銅像も戦時中に撤去の厄に遇った》(原文のまま)

 まことに重厚な、古めかしい文章だ。ここでいう「両先生の建軍」というのは、龍馬における海援隊と、慎太郎における陸援隊のことをさすのだろう。「昭和軍閥」がおこなった拡大解釈になぞらえていえば、近江屋事件は陸海軍の大将がいっぺんに殺されたというほどの大事件になってしまう。だが、「撤去の厄」を免れ得なかった銅像はほかにもたくさんあるはずで、この碑文のような物言いも、事実を多少はゆがめているのではないかと思いたくなる。

 台座だけになっていた像を再建させたのは、京都を拠点とする交通会社の創業者で、高知県人会の会長でもあった川本氏という人物だった。この人はよほど同郷の志士に強い思い入れがあったのか、『坂本龍馬』と題する著書も出版しているほどである。上の碑文も川本氏の手になるものだ。

 「坂本龍馬先生」「中岡慎太郎先生」と刻まれた題字は、達筆すぎて少し読みにくいが、あの吉田茂の筆跡である。吉田は龍馬と特に縁故があるわけではないようだし、高知県出身というわけでもない。しかし吉田の父は土佐の生まれで、自由民権運動に身を投じ、板垣退助とともにたたかった政治家であった。碑文のなかで龍馬と退助のつながりについて触れられているが、そこに揮毫者としてすでに80代なかば近い吉田茂が駆り出されたのは、お門ちがいとはいえない。少なくとも川本氏の頭のなかでは、栄えある高知人史の概略地図が堅固に組み上がっていたものと思わざるを得ない。

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 世の中には、歴史に残るものと残らないものがある。川本氏が興した京都交通グループは、この像が建てられたころをピークに経営が悪化の一途をたどりはじめ、事業は譲渡され、ついには倒産した。坂本龍馬と中岡慎太郎の姿を借りて、高知県人の気概を知らしめるためにひとりの事業家が建立した銅像は、明日の日本を展望しているようにも、過ぎ去りし昔を回顧しているようにも見える。

 ただ、おもしろい事実がある。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の連載がはじまったのは、この像が完成した翌月からだということである。こんにち世間に流布している坂本龍馬のイメージは司馬の小説に多くを負っているといわれるが、円山公園の龍馬像に関しては、そのような通俗的な人気に左右されることなくできあがっているのだ。ひょっとしたら司馬自身も京都におもむき、真新しい銅像に相対して、何か思うところがあったかもしれない。

 坂本龍馬が偉大だったのかどうか、ぼくにはよくわからない。だが、今も昔も彼の周りにあまたの人々が集い、何らかの確信を得ておのおのの道に帰っていくことは、どうやら事実のようだ。帰らなかったのは、龍馬とともに凶刃にたおれた中岡慎太郎だけであった。

(画像はすべて2008年9月27日撮影)

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