てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

秋深まる京都へ(5)

2012年12月04日 | 写真記


 平等院には、他の有名寺院にありがちなスケールの大きさがあまり感じられないように思える。

 などというと誤解を生むかもしれないけれど、要するに五重塔のような桁外れに巨大な建造物がひとつもない、という意味だ(遠い昔にはあったかもしれないが)。鳳凰堂にしても横幅は広いけれど、天を仰いで見上げるほどの高さがあるわけではない。

 境内の全体がおおむね平坦な場所に位置しているから、散策するのも楽である。寺院の建物のすべてはほぼ同じ高さに建てられているといってもいいほどだ。そのせいか、ここにいると空がとても広く見える。

 調べてみると、平等院の「平等」とは、仏の救いがすべての人にあまねく行き渡るという意味があるようだ。そのためには、敷地の高低差が極めて少ないこの寺の構造は、まことに象徴的でもある。

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 けれども、ほとんど唯一の例外があった。巨大な鐘がぶら下がった鐘楼は、狭い石段をのぼった上に建っている。境内の一画が小高い丘になっていて、そのてっぺんに鐘が鎮座しているのである。

 実は現在の鐘楼に下がっているのは精巧な複製で、本物は鳳翔館というミュージアムに置かれ、間近でじっくりながめることができる。かつての60円切手を飾っていた、日本でいちばん知られた梵鐘であるだろう。重量は実に、2トンもあるらしい。

 それにしても、まだクレーンなどない時代に、この重たい鐘をどうやって丘の上にまで持ち上げたのだろうか。まさか弁慶が引きずったわけでもあるまいに・・・。

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 うっかり、紅葉のことを書くのを忘れていた。正直にいえば、平等院は紅葉の名所と呼びたくなるほどの寺ではないかもしれない。ところどころに見事に色づいた木々があるものの、境内のあちこちに点在していて、華麗な脇役に徹している。

 これはこれで、奥床しいものだ。紅葉狩りの起源についてはよく知らないが、見ごろになると限られた数か所にばかり人々が殺到するというありさまは、現代のコマーシャリズムがもたらした歪んだ姿ではないかという気がしてならない。ぼくがかつて京都に住んでいたころから考えても、観光客の数は年々ふくれ上がっているような気さえする。きれいな紅葉を眺めるために肉体をこき使い、ラッシュアワー並みの人いきれに耐えざるを得ないというのは矛盾しているし、異常である。

 そういった風潮にまんまとのせられるのをよしとしない人は、平等院のような品のいい寺院に何回も足を運んで、四季とともに移り変わる様相を愛でるのもいいだろう。しばらくは鳳凰堂を見ることはできないが、季節によってさまざまな植物が花咲き、葉を繁らせ、実をつけて、われわれを楽しませてくれるにちがいない。平等院の藤棚は特に有名だが、ぼくはまだ咲いているのを見たことがないので、今度はぜひ藤の花の季節を見はからって訪れてみようと思った。

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 最後に、このたびぼくの印象に強く残った紅葉の穴場スポットを、ひとつだけあげておきたい。それは、先ほどの鐘楼へとのぼる階段の横にひっそりと立つ、トイレである。正確にいえば、その屋根だ。

 普段のトイレは、用を済ませてしまったら誰も顧みない。けれどもぼくは、鐘楼へ向かう途中でふと ― あえていえば“分不相応”なほどにトイレの屋根が美しく彩られているのに気づいて、愕然としてしまった。

 整然と瓦が並べられた上に紅葉の枝が張り出して、そこから舞い落ちた真っ赤な落葉が、瓦のくぼみに沿ってきれいに振り分けられ、何列かにわかれて行儀よく積もっている。重力の法則に従って、下にいくほど葉の数は多くなり、幾本もの鮮やかなグラデーションの帯が描かれているようにも見えた。

 二日間に渡る京都巡りで、深まりゆく秋のイメージを強烈に眼に焼き付けてくれたのは、おそらくどのガイドブックにも載っていない、この地点だった。屋根の下からハンカチで手を拭きながら出てきたおじさんが、階段の上に突っ立っているぼくを不思議そうに見上げ、歩き去っていった。

 今年の紅葉はこれでよし、もう帰ろう、とぼくは思った。

(了)

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