てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

クリスマスなのに「第九」の話(3)

2007年12月26日 | 雑想


 「第九」ほどの曲ともなると、モノラルの時代から現代まで、数え切れないほどの録音が残されてきたことだろう。なかでも屈指の名演といわれているのが、フルトヴェングラーの振ったものである。ぼくはフルヴェン・マニアではないので詳しいことを書くのは控えるが、彼の「第九」演奏の特徴として、第1楽章冒頭の6連符の扱いが取り沙汰されることがある(上図)。

 ぼくもこの曲のスコアをはじめて見たとき、曲の開始から16小節にもわたって、弦楽器が執拗に6連符のトレモロをつづけているのを知って驚いたものだ。フルトヴェングラーは、6つの音の刻みを霧がかかったようにぼかして(きっちりと揃えないで)弾かせていたという。反対にトスカニーニは、はっきり6連符とわかるように粒を揃えて弾かせていたので、それを聴いたフルヴェン先生は、口汚く悪態をついたとかつかないとか・・・。

 ぼく自身の正直な考えをいえば、1時間を超えるような大交響曲のほんの一部分に着目して、ああだこうだいってもしょうがないと思う。こっちがぐずぐずと立ちどまっているうちに、音楽はどんどん先へ進んでいってしまうわけだし、音の流れにすっかり身をまかせてしまうことなしに音楽の悦楽などあり得ようか、とすらいいたい。だが、上に書いたような議論を何かの本で読んだばかりだったので、延原武春の「第九」ではいったいどんな6連符を聴かせてくれるのか、ちょっと興味があった。

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 でも、指揮者が登場してさりげなく腕を振り下ろしたときには、6つの音を数えるいとまもなく、音楽はすらすらと流れ出していた。それはあっけないほどであった。

 「第九」にかぎらず、深遠で重厚な内容をもつ音楽を演奏する前には、指揮者にしてもピアニストにしても、じっと瞑目して精神を集中させたりするのをよく見かけるし、それは会場を埋め尽くした聴衆にも伝染する。最初の一音が鳴らされるまでの息づまるような沈黙は、これから生きた音楽が眼の前で紡ぎ出されるのだ、という自覚をいやでも高めてくれる。そして、長編小説の最初の1ページを開くときのような快い緊張感とともに、音楽が開始されるのである。

 だがこの日の「第九」は、いかなる“ため”も“力み”もなく、まるでラジオのスイッチをつけたような勢いのよさで、快調に流れはじめた。ぼくがこれまで聴いたなかでも、もっとも速かった。おそらく、ベートーヴェンみずからが楽譜に書き入れたメトロノーム記号を参考にしているのだろうが、この速度表記の真偽については今でもいろいろいわれていて、結局のところ指揮者の裁量にまかされている。延原氏は、まるでブルックナーを思わせるようなトレモロの深い霧を避けて、飛び跳ねるがごとき付点リズムで第1主題に突入した。こっちがあれこれ考えているひまはなかった。

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 第3楽章もまた、よどみなく速く流れた。細かい装飾が凝らされたメロディーを弾かなければならないヴァイオリンのパートは、さぞや苦労したのではなかろうか。

 ピアノ協奏曲「皇帝」の第2楽章のごとく徐々に音が細分化されてゆく変奏曲のうえに、ロンド形式の要素も加わった複雑な構造をもつこの楽章は、美しさの奥にかなりの難解さを秘めた曲ではないかと思う。拍子がよく変わるし、転調も多い。だがこの日のようにイン・テンポ(一定のテンポを維持すること)で演奏されると、華美な飾りつけを通り越して、音楽のもつがっしりした骨組みが見えてくる。さすがはベートーヴェン、“きれいなだけ”の曲を書いたわけではない。

 第3楽章が終わると、合唱団とソリストが入ってきた。普通は第2楽章が終わったときに入場してくることが多いのだが。ましてや、このタイミングでオーケストラがチューニングをやりはじめたのには度肝を抜かれてしまった。

 「第九」の演奏では、何のためにか、3楽章から4楽章のあいだにインターバルをおかないことがほとんどだ(ちなみに楽譜にはそんな指示はない)。それに慣れているせいか、いつの間にか1・2楽章が前半、3・4楽章が後半、といった認識をしてしまっていたが、それは明らかに誤りであった。この日の演奏を聴いて改めて思い知らされたのだが、「第九」は1~3楽章と4楽章のあいだに、大きな断絶があるのである。

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 第4楽章は、すさまじい不協和音ではじまる。それまでの音楽の余韻を、一気に断ち切ってしまうかのように。そのあと、チェロとコントラバスが重々しいモノローグを繰り広げるが、この日の演奏ではそれすらもあっさりと、テンポどおりに進む。先立つ3つの楽章の断片が回想されるが、バリトン歌手がやおら立ち上がると、次のような宣告を下す。

 O Freunde, nicht diese Toene!
 (おお友よ、このような音ではない!)

 1楽章から3楽章は、非常に充実した音楽だったにもかかわらず、ここにきてあっさりと否定されるのである。そして、シラーの詩による歓喜の主題が歌われるのだ。合唱団員たちは、器楽だけによる退屈な音楽はもうたくさんだとでもいいたげに、不意の闖入者のようにして、交響曲の主役の座を奪い取ってしまう。

 このような特異な構造を持つ曲だからこそ、第1楽章の出だしから最後まで、耳をそばだてながら聴く必要があるのではなかろうか。ベートーヴェンは何を否定し、何を肯定したかったのかを、よく考えてみなければならないと思うのだ。そこにはおそらく、単なる職業作曲家からひとりの近代的芸術家へと脱皮するベートーヴェンの姿が重ねられている。彼は音だけではなく、“言葉”を必要としたのである。

 だが、毎年聴きつづけていても、そのへんの謎は容易に解けそうにない。少なくとも「第九」は、「運命」や「田園」のようにわかりやすい音楽ではないのだ。そんな曲が、この時季になると日本のどこかで毎日のように演奏されている。不思議である。

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 コンサートの後半、バロックの小編成の音楽がつづくと、寝不足のぼくはさすがに集中できなくなってきた。プログラムが終わって、アンコールの「きよしこの夜」の大合唱がはじまっても、ぼくは椅子の肘掛けに頬杖をついて、「第九」のことをぼんやり考えていた。


DATA:
 「第九deクリスマス」
 指揮:延原武春
 管弦楽:テレマン室内管弦楽団
 合唱:テレマン室内合唱団 他
 2007年12月22日、ザ・シンフォニーホール

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