てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

難しいシャガール(5)

2012年11月14日 | 美術随想

マルク・シャガール『散歩』(1917-18年、ロシア美術館蔵)

 シャガールには、「愛の三部作」なるものがあるという。『街の上で』と『散歩』、そして今回は展示されていなかったが、結婚したその年に描かれた『誕生日』である(これは別の展覧会で以前観たことがある。)

 もちろんここでの愛というのは、男女の普遍的な恋愛というよりも、シャガールと新妻ベラとの親密な関係のことであろう。思えば同時代のピカソはさまざまな女と浮き名を流して、それを自作の糧にしていった。シャガールとは別の意味の恋愛巧者で、相手の女が変わると作風もたちまち変化するという正直な男だったが、社会的なモラルに欠けていたという点では糾弾を免れまい。

 その点、シャガールのように自分と妻との仲のよさを照れることもなく描き出したような画家は、ほとんど例を見ないのではなかろうか。妻をモデルに絵を描いた画家なら、いくらでも数え上げることができるだろう(いちばん身近にいる他者は、やはり妻であるから)。しかしシャガール夫妻の場合は、まるでふたりは一心同体だとでもいうように、いつも一緒にいるのである。


参考画像:マルク・シャガール『誕生日』(1915年、ニューヨーク近代美術館蔵)

 しかも、三部作のいずれの絵でも、人物が宙に浮いている。『街の上で』は前回に観たとおり、ふたりが一体となって空を飛んでいる。『誕生日』では、まるで無重力空間のように夫がふわりと浮かんで、妻に口づけをしている。ベラのびっくりした眼つきが印象に残る。

 『散歩』では逆に、夫は大地にしっかりと足を踏ん張り、妻はその手につかまって、まるでどこかに飛び去ってしまうのを辛うじてこらえているようだ。あるいは夫を上空へ引き上げようとしているかのようにも見える。彼女の片手はすでに画面からはみ出してしまって、その先はどこにつながっているのか、見当もつかない。

                    ***


参考画像:マルク・シャガール『二重肖像』(1924年、名古屋市美術館蔵)

 興味深いのは、三部作のいずれにおいても、シャガールが自分自身を“画家”として描いていないことだ。絵筆もキャンバスもどこにもなく、あくまで純粋な夫婦の喜びの日常といった雰囲気なのである。

 例外といえるのが、名古屋にある『二重肖像』だ。描かれている人物の顔を見れば、彼らがシャガールとベラであることは一目瞭然であろう。しかしこの画風は、ちょっとシャガールらしくない。誰も空を飛んでおらず、逆立ちもしておらず、屋根にものっておらず、ごく普通に床の上に立っているだけのように見える。

 しかもふたりは、仲よくじゃれあっているわけでもない。彼らの表情は、「愛の三部作」とは打って変わって、真剣そのものだ。ベラはまるで花嫁のようなかっこうをしていて、絵のモデルにでもなっているのだろうか。シャガールは絵を描くことの喜びに顔を上気させながら、キャンバスと向き合っている。

 この絵は、あのユダヤ劇場の壁画よりもあとに描かれた。ふたりが結婚してから9年の歳月が流れ、このときはすでにロシアを離れていたはずだ。彼らは新婚当時の浮かれた気分から抜け出し、ふたりして同じ方向へ歩み出していたのかもしれない。この絵は、シャガールの意外に真面目な一面を垣間見せてくれる。

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 ここまでいろいろ考えてきたが、やはりシャガールの“噛み切れなさ”は、固い肉のように口のなかに残ったままだ。

 いや、またシャガールの展覧会が近くで開かれることがあるだろう。問題を解くのは、そのときのお楽しみにとっておいたほうがいいかもしれない。というよりも、ぼくたちはシャガールの真意がよく理解できぬまま、結局はその絵を愛しつづけるのではないかという気もする。

 世の男というものが、女という存在の真実をついには理解できないけれど、それでも愛さずにはいられないように、である。

(了)


DATA:
 「シャガール展2012 ― 愛の物語 ―」
 2012年10月3日~11月25日
 京都文化博物館

参考図書:
 圀府寺司 編「ああ、誰がシャガールを理解したでしょうか?」(大阪大学出版会)

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