てつりう美術随想録

美術に寄せる思いを随想で綴ります。「てつりう」は「テツ流」、ぼく自身の感受性に忠実に。

『ペトルーシュカ』試論(3)

2007年07月23日 | その他の随想


 群集の騒ぎが静まると、あやしげな人形遣いがあらわれ、音楽はたちまちデリケートな、室内楽的な様相を帯びる。ぼくはこの部分で、コントラファゴットという楽器が単独で鳴り響くのをはじめて耳にした(他の曲でも、こんな扱いをされることはめったにないだろう)。人形遣いが吹き鳴らすフルートの長いソロもある。

 繊細きわまりない弱音で演奏されるこのシーンは、だだっ広い市場の全景から、人形遣いの謎めいた指先へと、観る者の視線を一気に引き寄せる効果を果たす。映画であればカメラをズームアップさせればいいのだろうが、それができない舞台芸術では、音楽がその役割を担うのである。このとき、ステージの上で人形遣いを遠巻きに見つめている踊り手たちと、客席でそれを眺めているわれわれの視線とは、ほぼ等しいといっていいだろう。いつの間にかぼくたちも人形遣いの魔法にかけられ、何かがはじまるのを今か今かと待っている群集のひとりになってしまっているのだ。

 そしてそのとき、満を持して鳴らされるのが、有名な「ロシアの踊り」である(譜例下)。



 先ほどまでの音楽とは一変し、シンプルで明快なこのメロディーは、さまざまな楽器に受け継がれながら繰り返し奏でられ、脳裏にこびりつく。一度聴いたら、決して忘れることができない音楽だろう。ふと気がついたときには、ぼくたちはバレエの観客であると同時に、劇中劇として演じられる人形芝居の観客ともなっているというわけだ。このへんのからくりは、まことにお見事であるとしかいいようがない。

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 愛らしく可憐なバレリーナ、たくましく無作法なムーア人、そして風采の上がらないペトルーシュカ ― その映像の中では、唇のメイクがひん曲がって塗られていた ― の3つの人形がひとしきり踊ったあと、場面は例の太鼓の音とともに転換し、人形たちの楽屋へと導かれる。そこでは驚いたことに、彼らは人形遣いに操られることなく、みずからの意志で考え、行動している。そしてそこで繰り広げられるのは、人間世界においてはごくありふれた、ひとりの女(バレリーナ)をめぐる色恋沙汰の物語だ。ひとことでいえば、三角関係である。

 古典劇から現代のメロドラマにいたるまで、このテーマをめぐってはさまざまなバリエーションに事欠かない。むしろ単調さを避けるため、話は徐々にややこしくなり、場合によっては現実離れした設定が用いられたり、必要以上にオーバーな展開をたどったりすることもあるだろう。だが『ペトルーシュカ』の中では、主人公が人形に置き換えられることによって、いろいろな付け足しがきれいさっぱり洗い流され、まことに原初的な姿に戻っている。バレエの序盤と終盤に配された市場のシーンに比べ、3人(3体)の人形が恋のさや当てをする部分は時間的にも短く、あっけないといってもいいほどだ。

 だがストラヴィンスキーの音楽は、彼らの心理状態を詳細に跡付ける。ピアノや木管楽器がヒステリックに音を上下させ、恋に敗れたペトルーシュカの嘆きを巧みに表現するところがあるが、その音楽はすでに舞曲ではないばかりか、舞踊という要素をも拒絶しかねないほどのものだ。むしろ、無声映画に弁士がつける語り口に似て、散文的なのである。物語の流れをせき止めることなく、次へ次へと観る者を駆り立ててやまない。

 さてペトルーシュカを見捨てたバレリーナは、こともあろうにムーア人とねんごろになるが、この場面では ― まるでこれがバレエであるということを急に思い出したように ― ゆっくりしたワルツが奏でられ、ふたりは手を取り合って踊る。しかしそのワルツたるや、3つの管楽器だけによるまことに平凡な、密度の薄いものとなっている(譜例下)。



 もちろん、ここにもストラヴィンスキーの狙いがあるのであろう。このワルツのメロディーは、19世紀に活躍したヨーゼフ・ランナーという作曲家が書いたものの引用である。このランナーという人物は、現在ではヨハン・シュトラウス1世と並ぶウインナ・ワルツの創始者として知られているが、ストラヴィンスキーが彼の音楽を通俗的なものの代表として持ち出してきたことは明らかだ。

 男女が仲よく腕を組み、ステップを合わせて踊るような古くさい音楽を、ストラヴィンスキーは自分の手で書こうとはせず、他人の曲で間に合わせたのである。だがこれは手抜きではなく、むしろ挑発というべきだろう。ランナーという旧時代の舞曲の引用は、ストラヴィンスキーの音楽の斬新さ、複雑さを否が応でも際立たせるのだ。その点、往年の巨匠の絵を自作に取り込み、自己流に変形してみせたピカソの荒わざを想起せざるを得ない。

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 さてここで、話は急展開する。ムーア人とバレリーナの恋も、決して安泰ではない。嫉妬に駆られ、自分を見失ったペトルーシュカが、ムーア人の部屋に飛び込んでくるのである。ふたりは揉み合うが、決着がつかないうちにまた例の太鼓が打ち鳴らされ、あれよあれよと思ううちに、ぼくたちは再び市場の喧騒の中へと連れ戻される。この部分の転換の早さは、現代のテレビや映画と比べても引けをとらないほどスリリングだ。

 そして本当の悲劇は、この後に待ち受けているのである。

(画像はジョルジュ・バルビエが描いたペトルーシュカとバレリーナ)

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