歪んだ男ベーコン その3
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/05/33/e32fe9b31594f136607becd10bf3f060.jpg)
『走る犬のための習作』(1954年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
ベーコンは、写真というメディアに深い関心を抱いていたようだ。
20世紀の画家と写真との関係は複雑で、なかなか興味が尽きない。カメラという文明の利器が登場して以降、絵画は対象を写実的に描く責務から解放された。超現実主義や抽象画など、写真では撮影しようのない画風の絵がはびこったのは、いわば絵画が次世代に生き残るための模索を重ねていたようなものだった(リアリズム絵画が流行している今、それは新たな局面を迎えているといえる)。
ただ、ベーコンが興味を示したのは、やや古い写真だった。エドワード・マイブリッジという写真家が、疾走する馬の姿を連続写真にとらえたのは、まだ印象派絵画が全盛を誇っていた1878年にさかのぼる。彼のおかげではじめて、馬が足をどのように動かして前へ進んでいるのかが明らかになった。
(なお『頭山』で知られるアニメーション作家山村浩二は、彼をモチーフにした短篇映画『マイブリッジの糸』を発表している。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/85/d9c626acb0a5d3b0eb916c10c1e0cc64.jpg)
参考画像:テオドール・ジェリコー『エプソムの競馬』(1821年、ルーヴル美術館蔵)
それまで、眼にもとまらぬほど素早い馬の足さばきは、人々に長いこと誤解されていたようだ。たとえばジェリコーの『エプソムの競馬』には、馬が前足と後足をいっぱいに広げて、まるで空中を滑走するように走ってくるところが描かれている。実際、地面を蹴らないことには推進力が生み出されるはずもないのだが、当時の人々にはこのように見えていたらしいのである。
マイブリッジは、そういった幻想に、いわば科学のメスを入れた。競馬場を好んで描いたドガは、マイブリッジの写真を参考にしたというし、『階段を降りる裸体』で知られるデュシャンも、マイブリッジから影響を受けたといわれている。
***
しかし、ベーコンがそれらを踏まえて描いたはずの『走る犬のための習作』は、まるで近代以前のような、一種の混沌とした肉塊として表現されているように見える。
それはおそらく、マイブリッジに感化されながらも、また別の方法で対象をつかみ直そうとした結果ではないかと思われる。動きをコマ送りにすることで知的に分析してみせたマイブリッジとは逆に、それらをひとつにとけ込ませ、あくまで一枚のタブローのなかに無理やり押し込んだようだった。それが画家の使命だとでもいわんばかりに・・・。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7a/9f/30ad2a1def6ccb8d501d6c09ef10fdfb.jpg)
参考画像:ジャコモ・バッラ『鎖に繋がれた犬のダイナミズム』(1912年、オルブライト=ノックス・アート・ギャラリー蔵)
走る犬ということで思い出される絵がもうひとつある。未来派の画家バッラの『鎖に繋がれた犬のダイナミズム』であるが、これもマイブリッジによって解析された動物の動きをふたたび絵画に収斂させようとした試みかもしれない。ただしその結果は、まるで幼稚な、子供だましのようなものとなった。走るときに足を何本も描く手法は、マンガによくみられるものである。
しかしベーコンは、一匹の犬の姿のなかに、動きの残像を何重にも重ねたように思える。そのために、もとはごくありふれた白い犬だったものは、奇妙に歪み、ふくれ上がり、細部はかすれ、得体の知れぬ物体となった。ただ、先ほどのジェリコーの絵と比べてみただけでも、そこには一種の空気感というか、不気味な手触りのようなものが内包されているようにも感じられる。
われわれの体もまた、マイブリッジの写真のように整然と区分けされるものではなく、ある混沌としたもので成り立っているのであろう。その肉体の深い部分と、ベーコンの朦朧とした絵画とは、理屈を超えて共振するところがある。彼の絵は怖いけれども、どことなく引き寄せられてしまうのは、そのせいかもしれない。
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『走る犬のための習作』(1954年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)
ベーコンは、写真というメディアに深い関心を抱いていたようだ。
20世紀の画家と写真との関係は複雑で、なかなか興味が尽きない。カメラという文明の利器が登場して以降、絵画は対象を写実的に描く責務から解放された。超現実主義や抽象画など、写真では撮影しようのない画風の絵がはびこったのは、いわば絵画が次世代に生き残るための模索を重ねていたようなものだった(リアリズム絵画が流行している今、それは新たな局面を迎えているといえる)。
ただ、ベーコンが興味を示したのは、やや古い写真だった。エドワード・マイブリッジという写真家が、疾走する馬の姿を連続写真にとらえたのは、まだ印象派絵画が全盛を誇っていた1878年にさかのぼる。彼のおかげではじめて、馬が足をどのように動かして前へ進んでいるのかが明らかになった。
(なお『頭山』で知られるアニメーション作家山村浩二は、彼をモチーフにした短篇映画『マイブリッジの糸』を発表している。)
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参考画像:テオドール・ジェリコー『エプソムの競馬』(1821年、ルーヴル美術館蔵)
それまで、眼にもとまらぬほど素早い馬の足さばきは、人々に長いこと誤解されていたようだ。たとえばジェリコーの『エプソムの競馬』には、馬が前足と後足をいっぱいに広げて、まるで空中を滑走するように走ってくるところが描かれている。実際、地面を蹴らないことには推進力が生み出されるはずもないのだが、当時の人々にはこのように見えていたらしいのである。
マイブリッジは、そういった幻想に、いわば科学のメスを入れた。競馬場を好んで描いたドガは、マイブリッジの写真を参考にしたというし、『階段を降りる裸体』で知られるデュシャンも、マイブリッジから影響を受けたといわれている。
***
しかし、ベーコンがそれらを踏まえて描いたはずの『走る犬のための習作』は、まるで近代以前のような、一種の混沌とした肉塊として表現されているように見える。
それはおそらく、マイブリッジに感化されながらも、また別の方法で対象をつかみ直そうとした結果ではないかと思われる。動きをコマ送りにすることで知的に分析してみせたマイブリッジとは逆に、それらをひとつにとけ込ませ、あくまで一枚のタブローのなかに無理やり押し込んだようだった。それが画家の使命だとでもいわんばかりに・・・。
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参考画像:ジャコモ・バッラ『鎖に繋がれた犬のダイナミズム』(1912年、オルブライト=ノックス・アート・ギャラリー蔵)
走る犬ということで思い出される絵がもうひとつある。未来派の画家バッラの『鎖に繋がれた犬のダイナミズム』であるが、これもマイブリッジによって解析された動物の動きをふたたび絵画に収斂させようとした試みかもしれない。ただしその結果は、まるで幼稚な、子供だましのようなものとなった。走るときに足を何本も描く手法は、マンガによくみられるものである。
しかしベーコンは、一匹の犬の姿のなかに、動きの残像を何重にも重ねたように思える。そのために、もとはごくありふれた白い犬だったものは、奇妙に歪み、ふくれ上がり、細部はかすれ、得体の知れぬ物体となった。ただ、先ほどのジェリコーの絵と比べてみただけでも、そこには一種の空気感というか、不気味な手触りのようなものが内包されているようにも感じられる。
われわれの体もまた、マイブリッジの写真のように整然と区分けされるものではなく、ある混沌としたもので成り立っているのであろう。その肉体の深い部分と、ベーコンの朦朧とした絵画とは、理屈を超えて共振するところがある。彼の絵は怖いけれども、どことなく引き寄せられてしまうのは、そのせいかもしれない。
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ベーコンは私も見てきました。
正直な感想は”はだかの王様に登場する大人達”
に自分もなった気分・・・といった所でしょうかw
しかし、ベーコンは決して裸ではない!
と言うのを、テツさんのブログにて確認して行きたい
と思っておりますので、宜しくお願いします。w
でも、展覧会のインパクトが薄れないうちに、何とかしてしまいたいという気もします。少しずつ探りながら、地道に書いていけたらと思いますので、お付き合いのほどよろしくお願いします。