須田国太郎『発掘』(1930年、京都大学人文科学研究所蔵)
人物を描いた作品といえば、もうひとつ、とても奇妙な絵がある。『発掘』がそれである。
ご覧のとおり、ここには3人の人物と2頭の馬が描かれているが、まるで焼け焦げたように黒塗りで、いわゆるシルエットのように表現されている。その黒さは、背景の荒地を隈取る影よりも濃いようだ。他の画家がこんな絵を描いているのを、ぼくは観たことがない。
ところで、この絵に登場するモチーフを眺めていると、『発掘』はスペインで描かれたもののような気がしてくるが、実は京都で描かれている。年譜によると、須田はこの絵を「帝展」(現在の「日展」)に出品しようとした。生まれてはじめて公募展に挑んだわけだが、あえなく落選してしまう。
のちに須田自身、あんな絵が審査を通るわけがないと述懐しているが、その言葉は彼が画家として追究しようとしている世界と、当時の日本洋画壇の実情とのあいだに大きな隔たりがあったことを示しているだろう。スペイン帰りの須田は、日本では異色の存在だったのだ。
なお須田に「帝展」出品を促したのは、やはり京都生まれの太田喜二郎であったという。太田は黒田清輝に絵を学んだ、いわば外光派のエリートであって、明晰な点描風の技法を日本に持ち帰ったひとりである(「京都市美術館の名品たち(3)」参照)。そんな彼が、まったく作風の異なる須田の絵に眼をつけていたとは驚きだが、西洋から移植されるべき油彩画の姿はいかにあるべきか、誰もが迷い、悩んでいた時代でもあったということだろうか。
杉本秀太郎は、「須田国太郎もマリーニ(引用者注・騎馬像を得意とした20世紀の彫刻家)も、期せずして古代ギリシアの騎馬の彫刻をお手本にしていた。」(前掲同書)と書いているが、ぼくは古代の陶器などに多く描かれた黒絵と呼ばれる装飾を思い出していた。
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須田国太郎『城南の春』(1933年、京都国立近代美術館蔵)
スペインから帰国して9年を経たころ、東京の銀座において、須田はようやく最初の個展を開催する。大学講師などをつづけながら、画家としての活動も本格的に始動させたこの時期、おそらく須田の身辺は多忙だったはずだし、学者と創作家とのあいだで思考が絡み合ったり、捩じれてしまったりしたこともあったのではないだろうか。
そういうとき、須田はやはり、京都の風景と向き合ったにちがいない。おこがましい話だが、ぼく自身もときどき、世間のしがらみから抜け出て ― まあそんなものはあまりないようなものだけれど ― 京都に出かけ、ぽつんとひとりで佇みたくなるのである。それは、観光とは根本的に異なるものだ。
個展の翌年に描かれた『城南の春』は、ひとりの日本人として、さらには京都人としての須田の感情が素直にあらわれた一枚であるように思う。画面の中央付近に描かれているのは、スペインではおそらく眼にすることがなかった、日本の桜である。背景の山も、かなり赤茶けてはいるものの、やはりこの国らしい瑞々しさを取り戻している。
だが、この風景には、あの『発掘』が微妙に影を落としているのである。絵の中景を横切る人工的な白い帯、垂直に立つ棒状のもの、そして下のほうに小さく頭をのぞかせるシルエット・・・。
当時の須田の内面は、この絵のように、ふたつに分断されてしまっていたのかもしれない。
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