東山魁夷 その2
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/37/9e/e4c732d10fd22856f8fbd6f6529f267b.jpg)
『満ち来る潮』(山種美術館蔵、部分)
会場でひときわ眼を引いていたのが、波の立ち騒ぐ海景を描いた大きな絵だった。縦2メートル、横9メートルあまり。『満ち来る潮』(上図)と題されている。
東山魁夷はこれに先立って、皇居新宮殿のロビーに『朝明けの潮』という大壁画を完成させた。「日展」出品作以外の仕事をすべてことわって取り組んだという畢生の大作だが、場所が場所だけに一般の人の眼にふれることはほとんどなく、ぼくも写真すら観たことがない秘仏ならぬ秘画である。それではいかにも惜しいのというので、山種美術館の設立者である山崎種二が新たに依頼して描き下ろされたのが、この『満ち来る潮』なのであった。
彼は壁画の制作のために日本中の海岸を歩き、各地の海を見てまわったという。襟裳岬、犬吠崎、潮岬、丹後半島や白浜などあちこちをめぐり、取材を重ねた。ぼくの故郷である東尋坊も訪れたということだが、すでに俗化してしまった、とすげない感想を書いている。
***
彼が描こうとしていたのは、どこか有名な景勝地の風景などではない。特定の場所にしばられることなく、日本の海の普遍的な情景、いわば海そのものを描きたかったのだろう。この国が島国であることを思い出させる海。ときには凪ぎ、ときには荒れ狂い、人の命を翻弄してきた海・・・。
しかし名もない海の絵を描こうとすることが、はからずも東山魁夷の存在を、これまでの日本絵画の伝統から一歩押し上げることになったこともたしかだろう。日本の国の風景が絵画のモチーフとして自立したのは江戸時代のことだと思うが、そのときはもっぱら固有名詞のついた名所旧跡ばかりが競って描かれた。代表的なのが北斎の『富嶽三十六景』、そして広重の『東海道五十三次』である。この伝統は、おそらく昭和期の日本画にいたるまで脈々と継承されてきたように思う。
“日本のどこかの海”ではなく、あらゆる海の記憶が積み重なった象徴としての大海原を描いたのは、おそらく東山魁夷が最初だったのではあるまいか。彼の『道』という作品が、われわれすべてのための道になり得るのと同じように、彼の描いた海はすべての人にとっての海の原風景となるのである。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/27/d1/40d9ba064671c545b6ea68b0698c8847.jpg)
『濤声』(唐招提寺蔵、部分)
※この作品は出品作ではありません
さらにいえば、海のなかに点在する岩の配置に関して、京都で枯山水の庭を見たときの経験が役に立ったと本人が書いている。東山魁夷の海には、“日本の記憶”が深く沈殿しているのである。のちに手がけることになる唐招提寺の障壁画『濤声』(上図)が、この作品を踏まえて描かれているのは明らかだ。何年か前の蒸し暑い6月のある日、奈良まで足を運んで眺めた圧倒的な海の絵の記憶は、ぼくの脳裏から決して消え去ることはない。
***
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/32/93/b6ddab42f55a17b3757e4bf6a52a450f.jpg)
『森の幻想』(兵庫県立美術館蔵)
東山絵画について語りはじめると、とまらなくなる。最後にもう一点だけ取り上げて、ひとまずこの記事を終えることにしよう。
東山魁夷は日本の風景を深く見つめる一方で、ヨーロッパ的なるものへの憧憬をもちつづけていた人でもあった。東京美術学校を出てからはドイツに留学しているし、北欧への旅行も経験している。ただしイタリアやスペインなど、南国にはあまり足を向けていないようだ。自然の厳しさや、人間の思慮深さのほうへと引き寄せられがちな、彼の哲学的ともいえる志向性がはっきりとあらわれている。
『森の幻想』(上図)は、ドイツのどこかを思わせる深遠な森が舞台だ。そしてその奥に、かすかに浮かび上がる舞踏会の幻。ぼくの記憶ではたしか、モーツァルトのオペラのワンシーンだったように思う。東山魁夷は初期のころをのぞいて、絵のなかに人影を描こうとしなかった。その点でこの作品は、かなり異色でもある。
絵のなかに幻想を描くなど、現実逃避であるという人もいるかもしれない。東山の絵にしばしばあらわれる高貴な白馬も、同じような意味合いをもっていそうだ。『道』の構図から灯台を消し去ったように、彼は現実感のある建築物を描くことをできるだけ避けようとしたふしがある。京都の古い街並みや、西洋の風格ある教会などをのぞいて。
しかしそれは、急速な近代化が地球上を席巻していくなかで、一生の仕事として風景画を描きつづけていくために彼が選び取った手段であった。醜い現実を見すぎたわれわれの眼には、東山魁夷の描く世界はあまりにも純粋に映ったにちがいない。時代は21世紀に突入したが、彼の絵はますますその輝きを増しているように思われる。決して失われることのない昔の記憶のように、ぼくたちはいつでもそこへ帰ってゆくことができるのである。
(了)
参考図書:
東山魁夷『泉に聴く』(講談社文芸文庫)
DATA:
「小磯良平・東山魁夷展」
2008年5月14日~5月26日
大丸ミュージアムKOBE
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『満ち来る潮』(山種美術館蔵、部分)
会場でひときわ眼を引いていたのが、波の立ち騒ぐ海景を描いた大きな絵だった。縦2メートル、横9メートルあまり。『満ち来る潮』(上図)と題されている。
東山魁夷はこれに先立って、皇居新宮殿のロビーに『朝明けの潮』という大壁画を完成させた。「日展」出品作以外の仕事をすべてことわって取り組んだという畢生の大作だが、場所が場所だけに一般の人の眼にふれることはほとんどなく、ぼくも写真すら観たことがない秘仏ならぬ秘画である。それではいかにも惜しいのというので、山種美術館の設立者である山崎種二が新たに依頼して描き下ろされたのが、この『満ち来る潮』なのであった。
彼は壁画の制作のために日本中の海岸を歩き、各地の海を見てまわったという。襟裳岬、犬吠崎、潮岬、丹後半島や白浜などあちこちをめぐり、取材を重ねた。ぼくの故郷である東尋坊も訪れたということだが、すでに俗化してしまった、とすげない感想を書いている。
***
彼が描こうとしていたのは、どこか有名な景勝地の風景などではない。特定の場所にしばられることなく、日本の海の普遍的な情景、いわば海そのものを描きたかったのだろう。この国が島国であることを思い出させる海。ときには凪ぎ、ときには荒れ狂い、人の命を翻弄してきた海・・・。
しかし名もない海の絵を描こうとすることが、はからずも東山魁夷の存在を、これまでの日本絵画の伝統から一歩押し上げることになったこともたしかだろう。日本の国の風景が絵画のモチーフとして自立したのは江戸時代のことだと思うが、そのときはもっぱら固有名詞のついた名所旧跡ばかりが競って描かれた。代表的なのが北斎の『富嶽三十六景』、そして広重の『東海道五十三次』である。この伝統は、おそらく昭和期の日本画にいたるまで脈々と継承されてきたように思う。
“日本のどこかの海”ではなく、あらゆる海の記憶が積み重なった象徴としての大海原を描いたのは、おそらく東山魁夷が最初だったのではあるまいか。彼の『道』という作品が、われわれすべてのための道になり得るのと同じように、彼の描いた海はすべての人にとっての海の原風景となるのである。
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『濤声』(唐招提寺蔵、部分)
※この作品は出品作ではありません
さらにいえば、海のなかに点在する岩の配置に関して、京都で枯山水の庭を見たときの経験が役に立ったと本人が書いている。東山魁夷の海には、“日本の記憶”が深く沈殿しているのである。のちに手がけることになる唐招提寺の障壁画『濤声』(上図)が、この作品を踏まえて描かれているのは明らかだ。何年か前の蒸し暑い6月のある日、奈良まで足を運んで眺めた圧倒的な海の絵の記憶は、ぼくの脳裏から決して消え去ることはない。
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『森の幻想』(兵庫県立美術館蔵)
東山絵画について語りはじめると、とまらなくなる。最後にもう一点だけ取り上げて、ひとまずこの記事を終えることにしよう。
東山魁夷は日本の風景を深く見つめる一方で、ヨーロッパ的なるものへの憧憬をもちつづけていた人でもあった。東京美術学校を出てからはドイツに留学しているし、北欧への旅行も経験している。ただしイタリアやスペインなど、南国にはあまり足を向けていないようだ。自然の厳しさや、人間の思慮深さのほうへと引き寄せられがちな、彼の哲学的ともいえる志向性がはっきりとあらわれている。
『森の幻想』(上図)は、ドイツのどこかを思わせる深遠な森が舞台だ。そしてその奥に、かすかに浮かび上がる舞踏会の幻。ぼくの記憶ではたしか、モーツァルトのオペラのワンシーンだったように思う。東山魁夷は初期のころをのぞいて、絵のなかに人影を描こうとしなかった。その点でこの作品は、かなり異色でもある。
絵のなかに幻想を描くなど、現実逃避であるという人もいるかもしれない。東山の絵にしばしばあらわれる高貴な白馬も、同じような意味合いをもっていそうだ。『道』の構図から灯台を消し去ったように、彼は現実感のある建築物を描くことをできるだけ避けようとしたふしがある。京都の古い街並みや、西洋の風格ある教会などをのぞいて。
しかしそれは、急速な近代化が地球上を席巻していくなかで、一生の仕事として風景画を描きつづけていくために彼が選び取った手段であった。醜い現実を見すぎたわれわれの眼には、東山魁夷の描く世界はあまりにも純粋に映ったにちがいない。時代は21世紀に突入したが、彼の絵はますますその輝きを増しているように思われる。決して失われることのない昔の記憶のように、ぼくたちはいつでもそこへ帰ってゆくことができるのである。
(了)
参考図書:
東山魁夷『泉に聴く』(講談社文芸文庫)
DATA:
「小磯良平・東山魁夷展」
2008年5月14日~5月26日
大丸ミュージアムKOBE
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