藤森照幸的「心」(アスベスト被害者石州街道わび住い)

アスベスト被害者の日々を記録。石綿健康管理手帳の取得協力の為のブログ。

萬国製針におもう(2)

2018-08-22 10:50:43 | 日記・エッセイ・コラム

戦後の広島は、広島駅、横川駅、己斐駅の三つの駅の闇市から始まったと言ってよい。 それは又、皆さんが良くご存じの「仁義なき戦い」の場でもあった。 しかしその場は、人情厚い助け合いの場でもあったのです。 

 子供の頃使っていたマッチ、これもまた戦後社会の中で、原爆スラムと共にその中で生産されました。 これらは、内職と呼ばれて、「針の包装」と共に、最低生活を支えていました。 内職に持ち込まれる材料は目分量で、材料の中の不良品を見込んで大目に持ち込まれます。 「マッチ」の製造は、「外箱の材料」、「うち箱の材料」、そして、「マッチ」がバラバラで作業者の家に持ち込まれます。 其の数は大まかで必ず多めに来るのです。 ですから出来上がりの品物は丁寧な作業をすれば多く出来るのです。 多くできたからと言って、余分に工賃は払われません。 ではどうなるのか・・・・・。 それは・・・・・

 これも一諸。 この物が闇市に出てくるのです。 売り手が問題なのです。 大人が売ると、「ヤクザ」からショバ代が請求されますが、子供が売るとそれはあり得ません。 こうして戦後のやみ市での、子供の商売が成立していました。 その理由の一つが、原爆孤児の多さです。 疎開していた子供を残して、親が原爆で亡くなった・・・・広島では珍しくなかったのでした。 土曜日や日曜日には、 本道通り商店街や、原爆ドームの周辺、宮島の桟橋周辺では、原爆によるケロイドのある子供たちが、こんな商品を売っていたのでした。 白衣を着た「傷痍軍人」もまた同じ場所で、「アコーデオン」を弾きながら物乞いをするのでした。 商品が軽いため、子供向きだったのです。 それぞれのメーカーも黙認していました。 ただ、「原爆を売り物にしている」という、批判もあったのも事実でした。 そうした時、必ずや「同情するなら金をくれ」とは言いませんでしたが、それに近い反論が上がり、誰も批判できなかったのです。