道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

犬のしつけの様変わり

2010年06月13日 | 人文考察

近頃では犬連れで散歩する人達が、愛犬をよくコントロールして歩くようになった。飼い主と犬とが、いわば人犬一体となって歩いている姿を見る。見ていて爽かである。

数年前までは、先を急ぐ犬を曳き綱で懸命に制動しながら引きづられて歩いている飼い主の姿をよく見かけた。どちらが飼い主なのか理解に苦しむことも屡々あった。

今では、犬を自分の脇にぴったりと添わせ、曳き綱を程良く弛ませて歩調を保って歩く飼い主を多く見かける。インターネットなどで、犬そのものの性質とその正しい飼育法への認識が深まり、前の世代の愛犬家とは違った散歩の形になったのだろう。

可愛い仔犬のときに、家中の者が盲愛してわがままのし放題を許すと、成犬になって手を焼く。幼い時に飼い主の命令をよく聞き分けるようしっかり訓練をして、本来の犬の稟性を十分に発揮させる飼育を重視するようになったのは、犬にも人間にも望ましいことだ。この面で一日の長がある欧米の犬の飼い方が、日本でも普及しだしたのだろう。

しかしながら、真似というものは形こそ模範に似せることはできても、事の中身、すなわち本質を学び取ることを等閑にしがちだ。犬の飼い方でも、しつけは何とか出来ても、犬の気持ちを理解することは容易なことでない。

昔からみれば、随分スマートになった犬連れ散歩も、中には首をひねりたくなる例もある。ピンと背筋を伸ばして前を見据え、颯爽と自分のペースで歩く飼い主(大抵は婦人だが)の後に、首うなだれてスゴスゴと付き従う犬がいる。脇目もふらず前を行く飼い主は、犬の方を一顧だにしない。その姿からは、犬を愛おしむ気持ちが伝わってこない。犬よりも自身に意識が集中しているように見える。飼い主と犬との間に、共に散歩を楽しむ雰囲気が醸成されていない。マニュアルどおりのしつけがやたらと厳しく、犬の本性が無視されているのではあるまいかと、余計な心配をしてしまう。飼い主の引き立て役を担うばかりでは、犬も欲求不満に陥るのではあるまいか。

犬は飼い主とのコミュニケーションを何よりも悦ぶ動物だ。散歩の間といえども、いや大好きな飼い主との散歩の時だからこそ、主人に声をかけられたり、頭を撫でられたり、目を合わせてもらいたいはずなのだが・・・。愛情に裏打ちされないしつけは有害で、好い結果は期待できないだろう。

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