若い頃から、スキマ(隙間)時間すなわち拘束のない僅かな手空き時間を、自分に活かすことに腐心してきた。
公共交通機関の乗物の待ち時間と乗車中、医院の待ち時間、来訪客を待つ時間、最も多いのは、仕事で発生する連絡や回答待ちの時間等々。手空き時間は予定されていることもあれば、任意に発生することもある。従事していた仕事の性質上、手空き時間は比較的多く発生した。
これらの手空き時間をスキマ時間と呼んで、その時間の長短にかかわらず、活用することを心掛けた。スキマ時間の大半は読書に充てる。天邪鬼だから、家や図書館で真面目に読書することは出来ない。待つのが退屈で苦痛だから、その反作用でスキマ時間は読書に集中できた。常に読みたいジャンルの異なる文庫本を何冊か携行し、時に応じて読み進んだ。
スマートフォンが普及し始めた時期はすでに老境に入っていたが、スキマ時間の活用にはもってこいのツールを得たと大いに欣んだ。原始人が弓矢を手にしたような感覚だった。まだ幾らかは残っていたスキマ時間は、スマホでまったく消えた。
世の中のスマホ利用者の殆どが、そうしていると思っていたら、若い人たちの多くは、これをスキマ時間の有効活用具とは捉えず、友人たちとの交信、つまり交際のツールとして使う。SNSはスキマ時間の有効活用ではなく、それが今や生活の一部となっていた。通学時間や通勤時間は、彼らスマホの利用者にとってはもうスキマではなく生活そのものである。
私を含め仕事を罷めた老人たちは、病院をいくつか掛け持ちしたり、移動に公共交通を利用する機会が増え、スキマ時間が拡大する一方だ。中には生活時間の半分以上を待つことに費やしている人もいる。我々にとっての待ち時間も、もうスキマ時間ではなく、生活の一部になりつつある。
スキマ時間が無くなってみると、読書量も減った。そして、今やスマホは情報器具ではなく生活用具になっている。
好むと好まざるとに関わらず、スマホや同様の器具は、生活に必要不可欠なものになっている。
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