道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

2004年09月13日 | 随想

桜の剪定をした。桜は伐った箇所から腐りやすく、「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」と言われ、本来は剪定しない。しかし、落葉樹というものは夏に枝葉が繁茂する。小さな庭では毎年剪定しなければ風通しが悪くなり必ず害虫の発生を招く。特に桜は毛虫が最も好む樹種のようで、これを小庭に植えたこと自体が間違いだった。

案の定、今年も毛虫が大発生した。殺虫剤は近所に迷惑を及ぼすので撒いたことがない。数日後、桜の樹は幹と枝ばかりの裸樹になっていた。

群生していた毛虫が地上に降りたところを見計らって、3本の主枝を残し他の枝を全て伐り取った。伐り取った枝を束ねると、直径2mにもなった。柴と粗朶の混じったような束なのだが、これは現在では単なる可燃ゴミでしかない。柴と呼ぼうが、粗朶と言おうが、燃やすことは許されない。

かつては、秋になると何処の家でも落ち葉や剪定した枝を集めて焚き火をした。生垣の内の、菊やコスモスの咲き乱れるあたりからうっすらと煙がたちのぼっているのを見ると、空気の温もりと焚いている人の寛いだ気分がこちらにも伝わってくるようで、思わず足が止まったものだ。

ダイオキシンの害が知られるようになり、個人の庭から焚き火が消えた。今は野外でも、原則として焚き火は禁止されている。

柴は古くから燃料としての需要があったから、近世までは山に入って柴を刈る「柴刈り」は自家用だけでなく販売をも目的とし、それを町で売り歩く「柴売り」もいたようだ。「お爺さんは柴刈り、お婆さんは洗濯」の時代は永かった。

柴を詠んだ和歌を探したら、後鳥羽院の「思ひ出ずる 折りたく柴の夕けぶり むせぶもうれし忘れ形見に」という一首があった。この歌から自叙伝の題名を採ったのが新井白石とか。教科書にあった「折り焚く柴の記」という書名だけを憶え、未だに口語訳すら読んでいないのは忸怩たる思いがする(※投稿後読みました)。

後鳥羽院の鎌倉時代以前から白石の江戸時代まで、柴はずっと人々の暮らしの中で燃料として活用されていた。しかし現代では柴を薪にすることが無い。柴は僅かに垣根その他の用にのみ生き永らえ、その名をとどめているに過ぎない。

柴を折り焚くことが無くなり、柴という名称も忘れ去られようとしている今、前の短歌を鑑賞して共感することは甚だ心許ない。

行為や言語の中には、技術の進歩や文明の発達にともなって閑却されてしまうものがある。昔の事柄や言葉を、その当時の人と同じ感覚で実感することは、変化の激しい現代では難しくなる一方なのだろう。

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