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道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

悪筆悪文

2019年04月21日 | 人文考察
若年の頃の私は、文章の価値というものは文意すなわち内容が全てで、文の巧拙などは大した問題でない、と甚だ不遜な考えをもっていました。学校では、人に読んでもらえる読みやすい文章を書くよう、教えられたように記憶していますが。

どんな名文よりも、文章が伝える内容にこそ、読む意義があるのではないか。内容が空疎な名文よりは、悪文であっても、読むに値する内容に勝るものはないと信じていました。

文芸に疎く、文章に対する審美眼がなかったといえばそれまでですが、形式を尊重する文化に辟易していた頃のことで、文章の技を磨くよりも発想とか着眼の方にはるかに価値を置いていたのです。まして、達筆を揮うなど、何の意義があろうかと・・・悪筆を直そうとせず、居直りを極め込みました。

習い事の中で書道ほど苦手なものはなかったのですから、救いようがありません。模倣が嫌いな気質は、書道の上達の妨げとしかなりません。絵を描くことが好きなことと対照的に、書には全く関心が向かいませんでした。

毛筆の運筆を知らなければ、硬筆も上手く書けるものではありません。成人後も臆面もなく金釘流で通していました。悪筆悪文を恬として愧じていなかったということです。

ところが人並みに恋などするようになってみると、放置していた悪筆と悪文に見事に祟られることになりました。想う女性(ひと)への手紙が書けないのです。罰が当たったようです。
真情を伝えようとすると、全然筆が進まないのです。真っ先に自分の文字の拙さが目につき、それが障害になって、思いを文章に綴ることが出来なくなってしまったのです。
文脈が乱れ文章がいっこうに纏まらない。何を伝えたいのか?言いたいのか?もうメチャクチャです。

字と文の拙さが、真情を伝える上で障りとなり、書いては破りを繰り返し四苦八苦。僅か数葉の手紙のために、便箋綴一冊分を消耗する有様です。漸くなんとか手紙を認めて投函し、金輪際恋文なんぞ書くまいと誓いました。

整った文字と流麗な文章でなければ、切実な思いを伝えられないことを、その時初めて悟ったのです。
当然その恋は進展を見ませんでした。顔を見て語れない想いを手紙で伝えようとして、危惧したとおり逆効果になったのかも知れません。
 
その後、就職した会社の新人研修で、全員に硬筆文字練習が課せられました。
幸運にもその時の講師が、私の悪筆の要因(ペンの持ち方)を見つけ、アドバイスしてくれました。僅か2週間足らずの練習でしたが、そのおかげで拙劣な文字はある程度矯正されました。恋文で懲りて、綺麗な文字を書きたい動機が生まれていたのでしょう。

悪筆はある程度矯正できましたし、世はタイプ・ワープロの時代に移り、悪筆に悩んだ過去は遠いものになりました。しかし悪文は相変わらず治りません。これは多分に文章に対するセンスの要素が大きいので、文字のようには矯正できません。今後もご迷惑をお掛け致します。
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