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「能 650年続いた仕掛けとは」

2018-04-16 22:16:46 | 読む
安田登「能 650年続いた仕掛けとは」新潮新書

著者の安田登はいまは能楽師。
普通の家の人で、社会人になってから能を初めて見てウワーッとなって、
何も知らないまま、専門家の門を叩き、弟子入りして、プロになったという人。
表題の650年は、能ができたのが室町時代でおよそ650年ほど。
その長い年月、能が途絶えることなく続いてきたわけは?という本。

世阿弥が、人は途絶えても家は途絶えさせるなと規定したから、
老舗企業のように能は続いたのだと解説されている。
「風姿花伝」は芸術論ではなく、いかに地位を保ち続けるかのマニュアル本だという。
おもしろいと思ったのは、「初心忘るべからず」という有名な言葉は、ちょっと意味が違っている。
世阿弥の言った初心とは、最初のころの純粋な気持ちに戻ろうという意味ではなく、
初はまっさらな生地に初めて刀を入れることを意味し、
古い生地を断ち切り、新たな自己として生まれ変わるという意味なのだ、と。

摺り足は、腰痛予防。
室町時代は上のほうの武将たちが能が好きでパトロンだったが、
江戸時代になると大名たちだけでなく、一般の武士にも広まっていく。
摺り足は、重い刀を2本差して歩く武士にとって、腰痛を予防する動きだった。
謡は、話し言葉はお国言葉で通じないので、彼らの「標準語」として候文が必要だった。
やがて、謡は庶民にも広まっていき、謡本は江戸時代のベストセラーになった。

能の構造の「序破急」
序で観客をこの世界に引き込み、いろんな要素を投げかけておく。
破は一番大事なところで、じっくりと展開する。
ここで安田さんはすごくオカシイことを言ってるの、
「ここが一番大事なところで、大切なことをじっくりと展開する。
ちょっと眠くなるくらいがちょうどいい。半分寝ているぐらいの感じで、観客の心の深いところに降りていく。
能で観客が寝るのはだいたいここですね」って。
すごくわかる。わかるけど、寝ていいの?
最後の急で、目が覚めることをする。う~む。

能は妄想力の芸能なんだって。
2次元の物語(古典)を立体化する、いまふうにいえば2.5次元ミュージカル?

能のお稽古は鏡を使わない。目で見て自分の動きを確認するのではなく、感覚で知る稽古。
これは体の中にあるプロプリオセプターを活性化する。
筋肉や関節にあるセンサーのことで、鏡を使わずに自分の体の動き、手や足の位置を知る稽古によって活性化する。
陸上の為末大さんが、最近はこの感覚がうまく機能していない人が増えていると言っていたそうだ。
能に限らず、日本の古典芸能はお稽古場に鏡がないのが普通だと思う。
でも、バレエとかの洋舞、スポーツジムなども、スタジオには必ず鏡があるよね、いま気づいたけど。

驚いたのは、能の動き、つまり振付には「意味がない」
何かを表現しているのではない、というのですが。
表現じゃない動きなの?どーゆーこと?
歌舞伎舞踊(日本舞踊)はすべて、何かを表現している、歌詞の当て振りであるが、
能は詞章を表す動きではない、と。
ええっ!そうなの!?

安田さんは、どうも能は入りにくい、しかし入りにくいのもいいのではないかと言ってる。
能は消費財ではない、消費されるものは飽きられる、
能は普及させるより、真に必要としている人に届ければよい、と。
コメント
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