硝子戸の外へ。

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あいちトリエンナーレに行く。

2019-10-08 20:41:22 | 日記
あいちトリエンナーレに行く。朝刊を広げるとあいちトリエンナーレの「表現の不自由展」が再開されるという記事を観て、休みという事も相まって、問題となる作品の本質を見極めようと家を出た。

愛知県美術館に行くと、警察の方や報道の方がいて、異質な感じがしたけれども、会場のフロアは混乱していなかった。抽選となった「表現の不自由展」は事前準備がしっかりなされていて、スムーズに行われていたように感じた。

抽選には残念ながら漏れてしまったが、トリエンナーレはとても素晴らしいものであった。
アートを通しての、問題提起や気づきへのアプローチは、僕らの無知さを教えてくれる。

そして、菅俊一さんの「その先を、想像する」アートのように、僕たちは、このアート群の示した、その先を想像せねばならないのではないかと思った。

「表現の不自由展」については、以前にも述べたが、想像力を膨らませて、もう少しだけ述べておこうと思う。

問題の作品の本質は、「好きな人の写真を目の前で燃やされたらどんな気分になるか」という人たちの意見と、「その人の言葉一つで、誰かが傷ついたり、命を落としたりせずに済んだ」「その苦しみ」を忘れてはならないという意見が衝突した形となったのだろうけれども、見落としている事は「そこに当事者はいない」という事である。

単に、部外者がもめていているに過ぎないのである。

例えるなら、大友皇子に就いた兵の末裔の現代人が大海人皇子に就いた兵の末裔の現代人に対し、「壬申の乱での不届き、ゆるさないぞ」と言っているようなものではないだろうか。

そう考えると、その作品を実際に観た人たちは、批判する前に、作品が提起した問題の「その先を想像」せねばならなかったのではないかと思う。

家に帰ってきて、テレビをつける。ついさっきまでいた空間が映っていた。そこに、僕の姿もあって、思わず笑ってしまった。


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