硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

こういう人が多くないか?

2013-02-01 20:37:28 | 日記
資産家死体遺棄事件の容疑者がその動機として「投資で損失を出したからその恨みで。」という情報が流れている。

投資家に資産の運用を任せる。投資する側としては「この人なら必ず資産を増やしてくれるだろう。」と思って投資するのだろう。

でも、投資はギャンブルと同じで損失も必ずある。したがって、損失する事を踏まえたうえで資産運用を任せるはずである。

資産家と容疑者の間にどんな会話がありどんな契約がなされたのかは分からないけれども、投資の本質は上記のようなものであったとしたら、容疑者自身も実業家で年商ウン億円を計上していたころの大変金周りのいい時に投資すればよかったのではないかと思う。

金周りが悪くなった状態で、投資する事により損失を補てんするという考えはとてもリスクが高い。これはもうギャンブルであり、負ければ取り返しがつかなくなるのは明白である。

しかし、僕が気になる問題はそこではない。問題は容疑者の行動である。

逆恨みする気持ちもわからないでもないけれど、命を奪って損失を少しでも回収しようという考え方はどうも合点がいかない。

貨幣を億単位で動かしていた人なら、それなりにビジネスのルールというものが分かっていたはずであると思う。

それなのに、その事だけで命を奪いに行くのはあまりにも子供じみているのではないかと思う。

その考えると資産運用の失敗のみが殺害の動機であるとは考えにくい。と、深読みできるけれど、今回の事件は深読みはいらないように思う。

容疑者は43歳である。なぜだか最近40~50代の人が関わる事件が少し目立つのではないかと思うのです。バブルを経験した世代である。自己の欲望に対して素直であるこの世代はなにかが歪んでいるように思う。

もちろん、そんな人ばかりではないけれど、なぜかその年代の人とお話しするとほんの少し違和感を感じるのですね。

そして、この世代の人たちが時代の中心になりつつある事はたしかであるから、その傾向が強く押し出されているのではないかと感じるのです。

たしかに世の中は豊かになったけれど、時代の中心の人々が道徳に希薄であることの代償が治安の悪化に拍車をかけているのだとしたら、これを幸福と言えるだろうか。

他を摂取することで生き延びる法則は自然界では普通であるけれど、それが人間にも適用されるのだとしたら、人は人として生きてゆく価値がないんじゃないかとも思うのです。それこそ時代を逆行しているようにも感じるのです。

しかし、よく考えてみると人が人である事を放棄するのは、人がより自然に近付いて行っているとも考えられなくはない。

法も道徳感も倫理感も宗教感も放棄するのです。拘束のない自由なのです。でも、きっとそうなったとき、人間自体が滅んでしまっているのでしょうね。

自己益を最大化する事だけに血眼になっている人達が後世に残せるものは、暴君としての不名誉な歴史だけなのだと思う。


コメントを投稿