ニュース速報が流れ「あさイチ」が中断した。楽しみにしていたでがっかりしたが、速報の内容は重たい頭をさらにもたげた。
つい先日、職場でたまたま宗教の話になり、僕は神の存在を肯定した。それを聞いた女性は「神様はいない」と言って否定したが、無神論者の哲学者を知っているのでその言葉に驚きはしなかった。しかし、不思議と違和感は残ったので僕は会話の続きとして、信じていた方が科学的に説明できない事も納得できるからと答えたのであるが、彼女は「神様がいると信じている人は心の弱い人」と言い切った。その意見も確かに間違いはないので肯定した。その後もいろいろなケースを話して、一概に否定できない存在であることを説明してみたが、頑なに神の存在を否定。
僕は彼女がそこまで自信をもって否定できたのは、持って生まれた容姿と動作から、実質的に甘えられる人が常にそばにいることが出来たからではないかと推測したが、それはあえて口にせず朗らかに会話を進めた。
神の存在を肯定する者が、彼女の言う通り「心の弱い人」であるのは、社会の息苦しさを痛感し絶望したからではないでしょうか。他の人よりも敏感であったがために、神秘的な働きをする場所を求めたのではないでしょうか。
しかし、その神秘性を持つものが度々暴走し、隣人を苦しめることになるのはなぜなのでしょう。
安寧な人生を望んでいたはずであるのに、それを良しとしない人がそこにいるのはなぜなのでしょう。
「悟り」とは「迷い」なのでしょうか。自身の正しさが常に不確定であることに気づかねば、悟りへの道は遠ざかるばかりであるように思うのですが、なぜ、正しい、これが悟りの境地だと言い切れるのでしょう。
教理に生きてゆく上での正しさがあったのかもしれません。その中に心を揺さぶられた言葉があったのかもしれません。しかし、同じように苦しみながら「他宗教に頼りながら」も実社会での日々を踏ん張って生きている人々のささやかな幸せを奪う行為が、どうして是であると、信じることが出来たのでしょう。
貧困や差別があるからでしょうか。社会的格差があるからでしょうか。人は簡単に欺く存在だからでしょうか。それとも、執着や嫉妬がそうさせてしまったのでしょうか。
刑が執行されたからと言ってすべてが解決したとは言い難い。私達はこの事件を当事者として忘れずに考え続けなければ、また同じ過ちを繰り返すのではないかと思ったのです。
つい先日、職場でたまたま宗教の話になり、僕は神の存在を肯定した。それを聞いた女性は「神様はいない」と言って否定したが、無神論者の哲学者を知っているのでその言葉に驚きはしなかった。しかし、不思議と違和感は残ったので僕は会話の続きとして、信じていた方が科学的に説明できない事も納得できるからと答えたのであるが、彼女は「神様がいると信じている人は心の弱い人」と言い切った。その意見も確かに間違いはないので肯定した。その後もいろいろなケースを話して、一概に否定できない存在であることを説明してみたが、頑なに神の存在を否定。
僕は彼女がそこまで自信をもって否定できたのは、持って生まれた容姿と動作から、実質的に甘えられる人が常にそばにいることが出来たからではないかと推測したが、それはあえて口にせず朗らかに会話を進めた。
神の存在を肯定する者が、彼女の言う通り「心の弱い人」であるのは、社会の息苦しさを痛感し絶望したからではないでしょうか。他の人よりも敏感であったがために、神秘的な働きをする場所を求めたのではないでしょうか。
しかし、その神秘性を持つものが度々暴走し、隣人を苦しめることになるのはなぜなのでしょう。
安寧な人生を望んでいたはずであるのに、それを良しとしない人がそこにいるのはなぜなのでしょう。
「悟り」とは「迷い」なのでしょうか。自身の正しさが常に不確定であることに気づかねば、悟りへの道は遠ざかるばかりであるように思うのですが、なぜ、正しい、これが悟りの境地だと言い切れるのでしょう。
教理に生きてゆく上での正しさがあったのかもしれません。その中に心を揺さぶられた言葉があったのかもしれません。しかし、同じように苦しみながら「他宗教に頼りながら」も実社会での日々を踏ん張って生きている人々のささやかな幸せを奪う行為が、どうして是であると、信じることが出来たのでしょう。
貧困や差別があるからでしょうか。社会的格差があるからでしょうか。人は簡単に欺く存在だからでしょうか。それとも、執着や嫉妬がそうさせてしまったのでしょうか。
刑が執行されたからと言ってすべてが解決したとは言い難い。私達はこの事件を当事者として忘れずに考え続けなければ、また同じ過ちを繰り返すのではないかと思ったのです。
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