硝子戸の外へ。

優しい世界になるようにと、のんびり書き綴っています。

贖罪の告白と信じたい。

2014-02-09 10:08:51 | 日記
音楽家にもゴーストライターが存在していた事に驚いたが、もしかするとゴーストライターと言う存在は私達があまり知らないだけでごく普通に潜んでいるのかもと思った。

しかし、ゴーストライターと言う立場を放棄し、公の場に姿を現し、胸に仕えた思いを吐露することは、自己の存在を知らしめると共に、何かを失うという事でもある。作品自体に魅力があれば新垣氏の才能は受け入れられると思うが、佐村河内氏のセルフプロデュースにより作品に神秘性を含ませている作品から「神秘性」を引いてしまった時、その作品は芸術して受け入れられるだろうか。

いや、そもそも耳の肥えた人々を唸らす音楽は、誰をも魅了する音楽と言えるだろうか。ちがう。芸術とは万人受けしないものだから芸術で在り続ける事が出来るのではないか。マイノリティーな中で鍛錬され鮮麗され絶賛されることが芸術なのだろうと思う。ちがう。芸術とは凡人の僕のようなものが取り扱えるものでなない。そういうものでなくてはならない。

しかし、新垣氏はどうしてこのタイミングで吐露したのだろうか。そこがとても気になって色々考えてみた。

もし、芸術に対して謙虚な人であったなら、西洋の音楽を日本に紹介し育んできた先人に対して畏敬の念を抱いたのではないかと思う。そして、その思いを強く抱いたきっかけがオリンピックでの使用だったのではなかろうか。
今までは国内での発信が主であったものが、公の場で世界に向けて発信される。その音楽を聴いた人々は、作曲者の神秘性を含んだ曲に様々な想いを馳せるであろうから、商業的には成功するのではと予見する。しかし、それは先人に対して冒涜になるであろうし、音楽を愛し、譜線上の音符に神の存在を見るものであるなら、欺瞞は退けるべきだと思ったのではないだろうか。

そう思って決断したのだと信じたい。そして、もうこのニュースは観たくないと思った。