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流求と覚醒の街角(58)結露

2013年10月10日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(58)結露

「結露って、どうしてできるんだろうね?」と奈美は寝そべったままの姿で指を伸ばし、窓ガラスを触った。そこはぼくの部屋だった。冬の朝。暖房器具の働いていない部屋は思いのほか寒かった。

「どうしてだろうね。奈美の部屋はできない?」
「うん」その濡れた指をぼくの顔に寄せる。「気密なのかね」
「ここより、高級な部屋なんだろうね」

 ぼくは閉じ込められた空気のことを考えている。外気との温度差によって見えなかったはずの水が浮かび上がる。ぼくらはこのベッドのなかでも呼吸をしている。ぼくは奈美のことを好きだという気持ちを自分の体内に閉じ込め、その対象として奈美を拘束しようとする。自由な人間も、象徴としての壁面に水を浮き立たせる。何らかの証拠を残すようにできているのだ。ある面では嬉しさの表出であり、別の面では無粋の極みの証拠だった。

 ぼくは立ち上がり暖房をつける。それから冷蔵庫の前まで歩き、飲み物を取り出した。乾燥した空気がのどから必要以上に潤いを奪っていた。だが、窓ガラスには水滴があった。

 蒸発していたものが結集して自分たちの存在を伝えた。ぼくはベッドに戻る途中でカーテンを薄く開け、外を眺めた。やはり、湿ったガラスは透き通るという自分の役目を放棄していた。ぼくは手の側面で窓を拭いた。葉っぱのなくなった樹木が寒そうに立っている。だが、あと数ヶ月もすればふたたび青々と繁るのだろう。

「ちょうだい、それ」奈美も水を含んだ。のどがかすかに動いている。「わたしの足、冷たかった?」
「もう、そうでもないよ」

 となりの家のポストから新聞を引き抜く音がする。バイクで配達する音もする。休日はゆるやかにだが動き出そうとしていた。
「お腹、空いた」と奈美が言った。いまは真っ白な顔をしている。
「昨日、買ったパンならあるよ」
「食べる」と言って彼女も立ち上がった。

 ぼくは音楽を探す。世界には歌えるひとと歌えないひとがいて、聴くひとと聴かないひとがいた。笑わすひとと笑わすことができないひとがいて、笑うひとと、笑わないひともいた。休日の朝を優しげな音楽が充たす。

「暖かい飲み物、作るね」ガスのコンロを点火する音がする。ぼくの家まで管が敷設され、それを当然のことと思っていた。電話にはもう段々と線が必要ではなくなってくる。テレビも電波を飛ばした。柔らかな音楽もスピーカーから見えない波動を出して、この耳に達した。ぼくに達するものたち。

 奈美はふたつのカップを両手にもっている。そのどちらを自分用にするのか当てようとした。彼女の左手はぼくの近くに。彼女の右手は自分のそばに置かれた。目の前には湯気がたっている。これも水の変化した形なのだろう。ぼくらはふたつのパンをちぎって食べた。思ったより堅かったが、それでもおいしさが奪われているわけでもなかった。ただ、水分はある程度は必要だった。

「こう寒いと、出掛けたくないね。もう一回、ベッドに入っていい?」
「いいよ、好きなだけ」そう言って、ぼくは読みかけの本を開いた。ひとりでするべき最たるものは本を読むことだった。だから、ぼくはここでひとりだった。だが、近くに、手を伸ばせば近くにひとがいるというのを意識している部分がぼくには数パーセントあった。その数パーセントは比重としても重いものだった。

 ふたりでする最たるものもある。免許も資格もいらない。自分が大人になったと判断しているだけでいいのだ。相手もぼくのことを気にしており、ぼくらは一致することに喜びを感じる。しかし、それもときには愛を介在させないことも可能であるように思えた。本の作者をまったく知らなくても、紙面であるそこに美と興味を抱くだけで良かったのだ。

 奈美の寝息が聞こえる。ぼくは音楽を消す。それから、またお茶を入れ、本のつづきをすすめた。この一作だけが奇跡的におもしろいのかもしれず、また、別にもっと楽しい本もあるのかもしれなかった。ひとの噂より実際に本を開くことこそが重要であった。ぼくの指先は乾いていない。ページをめくるのも困難ではない。そこに若さがあり、これもまた日に日に奪われるものかもしれない。

 自転車も乗るのはひとりですることだが、若いときには大勢で群れて走った。その中から大人になったぼくを奈美が選んだ。あのころのぼくらには差などなかったかもしれない。ぼくらは窓ガラスを伝わって落ちるほどの水滴ぐらいの差しかなかったのだ。

 ふたりでする最たるもの。いまのぼくらは片方が本を読み、もう片方は眠っていた。時間の永続性の断片だけを切り取り、あとで思い返したりもする。ぼくは以前の女性のことを思い出そうとした。ぼくらは海辺にいた。けっこう大きな犬が彼女にたわむれようとした。犬は孤独を嫌うようなものだった。結局は、あの瞬間をぼくは先頭にもってきていた。ふたりでいられることの束の間の幸福を楽しんでいた。だが、犬に邪魔されてもまったく迷惑だとも感じていなかった。このかなり時間が経過した冬の朝に、ぼくはまだ新鮮な印象でその瞬間を保管し、取り出すことを楽しみにしていた。ぼくは、いつの日か奈美のどの部分を思い出すのだろうか。指についた水滴。パンを食べた唇。しかし、これから加わることも限りなく多くありそうだった。


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