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流求と覚醒の街角(59)ベルト

2013年10月12日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(59)ベルト

「食べ過ぎた。ズボンがきつい」と、奈美は言った。座敷にすわり、両手を後方につけている。のけぞったという表現のほうが似つかわしい。
「柔道部員かよ、その食欲」
「いまなら、勝てそうだよ」ベルトを緩める真似をする。「この外したベルトで叩いてみたり」
「そういう趣味ないよ」
「気付いてないだけかもよ」彼女は自分で言ったことについて笑った。「笑ったら、もっと苦しい」

 靴を履き、会計を済ませて外に出る。さっきまで吹いていた大風のため路面にはゴミや葉っぱが散乱していた。夜中に誰かが散らかったものを掃除するのかもしれない。その作業を知らず、運ばれたものがどこで焼かれるのかも知らなかった。角を曲がると電波塔が見える。受像機がなければ、その恩恵は分からない。ぼくは奈美の発信するものを受け止める箱に過ぎない。

 そこは坂道が多かった。階段を登ったり、坂をくだったりした。
「これで腹も引っ込むよ」
「太たって愛してよ」と奈美が言う。
「自己肯定が過ぎるね」

「人間なんて愛着で生きてるものなんだよ。なくなったら淋しいとかで」
「一理ある」
「なんで、今日、そんなに理屈っぽいの?」奈美は階段の途中で立ち止まった。足音がつづいてこないことに気付いたぼくも同様にそこに停まる。そして、振り返る。
「奈美の方が理屈ばっかり並べていると思っていたけど・・・」
「きょう、送ってくれなくていいよ」奈美はそう言うとぼくを追い越して歩いていった。ぼくは追いかけることもしなかった。男同士ならこういうことはあり得ないのだ。しかし、男同士の間では永続性なども微塵も考えられないのだ。明日には路面のゴミも片付くかもしれない。それに基本はさっぱりとした人間である奈美は簡単にこのことを忘れているかもしれない。ぼくらは大きな喧嘩などもしたことはなかった。だから、どちらが最初に頭を下げるという順番を決める機会もなかった。

 ぼくはただゆっくりと歩く。大風はやみ、その反対にぼくらの関係には静かな波紋がひろがっていた。些細なこと、とぼくは何度も口に出した。店員が誤っておつりを間違うのも万単位ではない、一円とか十円とかの話なのだ。すべては些細なもので成り立っているのだろう。それをうやむやにするか、きちんと問題点を把握して解決するか、それぞれに性格によって対処の仕方も違った。

 ぼくは家に着く。携帯に履歴もなければ、ほこりをかぶりそうな家の固定電話にも留守電がなかった。愛というのも順調にいかないことがよりいっそう記憶の源になった。

 ぼくは前の女性との別れの場面のいくつかを思い出していた。歯ブラシが部屋にのこっていたことや、彼女の日常の部屋着もあった。きちんとした別れ話もない代わりに走り行く車の後部を思い出していた。映画なら走って呼び止める。いつか抱擁して永遠に導く言葉を吐く。だが、普通の人間は、自分に訪れた運命を甘んじて受け入れるだけだった。ヒーローになることも、ヒロイン性も有していないお互いにとっては。

 眠りが浅いということも憂鬱の残した確かな証拠だった。ぼくは寝起きに携帯の履歴を見る。やはり、なにもない。今ごろ、奈美も同じ動作をしているのか考えた。ぼくらは終わりになる種を終始、撒き散らしていることをそこで知った。だが、それにジョウロで定期的に水を注ぐことなど決してしないのだ。土を掘り返し、種に栄養を加えなかった。

「ベルトで一回、叩かせて」と奈美は翌日の夕方に電話で言った。
「いいよ、存分に」ぼくはふざけて答える。
「太っても、痩せても、わたしのことが好きって言うんだからね、そのときに」
「言うよ」ぼくはすべてに寛容でいようと思った。「じゃあ、こっちにも提案がたくさんあるんだけどな」

「男性って、努力をしてるとか、向上する背中とかが美しいと思うんだけど」
「フェアじゃないね?」
「え?」
「公平じゃないと思うね?」

「え?」
「聞こえてるだろ?」
「うん?」奈美は堪え切れずに笑った。「電波が悪いみたいだよ」
「じゃあ、直接、会って言うよ」
「会いたいの?」

「うん?」と、ぼくはやり返す。喧嘩して仲直りをする。かさぶたを作って大人になる。学校の机のうえで勉強したことを応用することもある。目の前の女性をどのように扱うかを実地で学ぶ。喧嘩して終わりにできない関係もたくさんあった。仕事のお得意さんに笑顔を見せる。生意気でいられる期間など人間にとって短いものだと知った。しかし、それは不幸でも足かせでもなかった。喜びは、相手を喜ばすことからも多く得られたのだ。階段をいっしょに踏みしめられること。同時に降りる音。常にそばにいる存在。急に奪われることが段々と怖くなった。いや、怖くなるという道中に恐れと戸惑いを覚えるのだろう。ぼくは無意識に自分のベルトを触った。その穴がいくつあるのか数えた。あまり数はない。一つ目は前の女性であるのだろう。そこはもう入らないし、利用することもない。ただ、最初にあるというだけだ。すると、理論的にいえば、あと数個は別の女性も待っているはずだった。でも、しっくりくるのはこの穴だけだ。奈美との時間。ぼくは四つ目と五つ目のベルトの穴を手探りでいじった。なんだか、理屈っぽいと言われたことを思い出していた。しかし、理屈など必要ではなく、ただ、太ろうが痩せようが奈美を気にかけていると言えばいいことだけは理解できていたのだ。


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