償いの書(127)
ぼくは、それでも会社に行かなければならない。何日か休んだ後、通常の業務にまた、はまっていく生活を送らなければならない。同僚たちは、ぼくとの距離をどう取っていいものやら思案しているらしい。いつも通り、ふざけあったりする態度は失礼にあたるかとか、彼は落ちこんでいることだし何とか慰めてあげたいというスタンスのひともいたが、それが簡単には表に出せないようだった。それを、ぼくは健気な気持ちだとは思ったが、できればそっとしておいてほしいというのが率直な感想で、本音だった。
さらには、葬式をすることもできなかった男性というレッテルを貼られているのかもしれない。彼らの何人かは、黒い服を着て、列席するのが常識だろうが、その場に夫がいない限り、それを行うこともできなかった。彼らは儀式を経過しない以上、態度を決められなかったのかもしれない。
仕事のアポイントを破ったせいで、また約束を取り付け、何人かと会った。彼らは、昨日と同じ延長線上に今日があった。それが、自分には不思議だった。誰も大切な人間を失っていない。無くす可能性もないようだった。自分は、自分のそうなってしまった運命を呪った。
「大変でしたね。ひとりでいるのは、こうした場合、とっても良くないです。いっしょにご飯を食べましょう」
と、笠原さんから連絡があった。ぼくは、自分の未来に無頓着になり、身だしなみさえ気に掛けることが少なくなった。それでも、約束の時間が迫れば、Yシャツの汚れ具合やネクタイの緩みが気になった。こういうことが、もしかしたら生きるということなのだろうかと考えている。そして、髪型を鏡にうつし、それに合格点を与えた。
「わたしが、いっぱい楽しませてあげます。精一杯」笠原さんは緊張しながらも、練習してきたかのようにそう言った。
「笑う気分でもないよ」
「もし、彼女がどこかで見ていたら、裕紀さんの憧れの存在のままでいてください。当然、わたしたちから見た周りの人間に対しても」
「どういうことかな?」
「元気で、颯爽とした近藤さんでいて下さい。もし、再会したら、離れていてもったいなかったなとか思わせるような」
「君は、映画の見過ぎだよ。ラブ・ストーリーの」
「こういう場合は、ファンタジーでも、希望をもった方がいいです」
「じゃあ、君が与えてくれよ」ぼくは、自分以上に不幸な立場にいないひとたちに残酷になった。つまりは、ほぼすべての人間に。
「どうすればいいです?」
「朝まで、ぼくのそばにいて慰めてくれるとか。冗談だよ、できないよ、そんなこと」
「いや、します」
「笠原さんは、ばかだよ」
「ののしるぐらい元気がでた」彼女は、じっとグラスを見つめる。「遠いむかし、わたしが失恋から立ち直る機会を近藤さんは与えてくれた。つまらない長い話を飽きもせずに聞いてくれた。わたしには、その借りがひとつある」
「もっと、あるよ」
「ほんと?」
「嘘だよ」
「なんだ。つまり、あのぐらいのことはできないと、わたしの女としての価値も値打ちもない」
「なんか間違っていると思うけど、ありがとう」
「近藤さんは、裕紀さんが入院したとき、泣いた。優しい行為をわたしはうらやましかったけど、恥ずかしかったので、ちゃかしてしまった。すいません」
「あのときは、あれで仕方がないよ」
「そうですか?」
そういう言葉をめぐる堂々巡りをしていて、時間は過ぎていった。彼女は、さすがに使命感に燃え、緊張していたのだろう、かなり酔っ払った。ぼくは、酔う気持ちにはなりたくなかったが、さすがにトイレに立つと足がふらついた。ここ数週間あまり酒を飲まなかったせいかもしれない。
「酔った。お金も払った。君を送る」
「家まで」彼女の目はうつろで潤んでいた。
「家の前までタクシーには乗せるけど、ぼくは、そこから先に行くので、高井君に迎えに来てもらえよ、下まで」
「彼、いないんです」
「どっか行ったの?」
「仕事の何かを仕入れるんだって」
「そう、じゃあ、玄関に置いていく」
「荷物みたいに」
タクシーを手を上げて停め、ぼくらは後部座席に乗る。彼女は頭をぼくの肩にもたせかけた。ぼくには、浮気という概念がなくなった。妻はいない。生きた誰かの肉体を、ぼくは感じ触れる必要があった。病院に横たわる裕紀。その印象がぼくを苦しめていた。そこから、ただ無邪気に開放されたかった。美しい女性は死ぬべきではないのだという風に。
「着いたよ。降りなよ」
「無理。もう無理。家まで送りなよ」
「なんで、命令口調なんだよ」
「近藤を元気にするんだよ。わたし」彼女はぼくのネクタイをつかんだ。それで、一瞬、息ができないぐらい苦しくなった。
「お客さん。ごめん。無線がはいった」
ぼくは仕方なく、いっしょに降りる。いや、こういう状態を望んでいたのかもしれない。ぼくは、彼女のバッグを探り、鍵を手の平に乗せた。そして、玄関を開け、彼女をソファに放り投げた。そのつもりだったが、ぼくも同時に転がってしまった。
「イジイジしないって誓いなさい」彼女は、そう言ってぼくの唇に自分の唇を押し付けた。そこにはアルコールの匂いがあった。
「笠原さんは、酒乱の一面があるのか」ぼくは、離れながらそう言ったが、あとはやけくそだった。そういう投げやりな態度で女性に接するべきではないのかもしれない。そして、ぼくは妹を思うような気持ちで、彼女と付き合ってきた。そこに、肉体的な関係を持ち込むべきではないが、生きた女性の温かい身体が、そのときのぼくにはどうしても必要だった。忘れなければならない。あの冷たく横たわる裕紀の存在を。
ぼくは、それでも会社に行かなければならない。何日か休んだ後、通常の業務にまた、はまっていく生活を送らなければならない。同僚たちは、ぼくとの距離をどう取っていいものやら思案しているらしい。いつも通り、ふざけあったりする態度は失礼にあたるかとか、彼は落ちこんでいることだし何とか慰めてあげたいというスタンスのひともいたが、それが簡単には表に出せないようだった。それを、ぼくは健気な気持ちだとは思ったが、できればそっとしておいてほしいというのが率直な感想で、本音だった。
さらには、葬式をすることもできなかった男性というレッテルを貼られているのかもしれない。彼らの何人かは、黒い服を着て、列席するのが常識だろうが、その場に夫がいない限り、それを行うこともできなかった。彼らは儀式を経過しない以上、態度を決められなかったのかもしれない。
仕事のアポイントを破ったせいで、また約束を取り付け、何人かと会った。彼らは、昨日と同じ延長線上に今日があった。それが、自分には不思議だった。誰も大切な人間を失っていない。無くす可能性もないようだった。自分は、自分のそうなってしまった運命を呪った。
「大変でしたね。ひとりでいるのは、こうした場合、とっても良くないです。いっしょにご飯を食べましょう」
と、笠原さんから連絡があった。ぼくは、自分の未来に無頓着になり、身だしなみさえ気に掛けることが少なくなった。それでも、約束の時間が迫れば、Yシャツの汚れ具合やネクタイの緩みが気になった。こういうことが、もしかしたら生きるということなのだろうかと考えている。そして、髪型を鏡にうつし、それに合格点を与えた。
「わたしが、いっぱい楽しませてあげます。精一杯」笠原さんは緊張しながらも、練習してきたかのようにそう言った。
「笑う気分でもないよ」
「もし、彼女がどこかで見ていたら、裕紀さんの憧れの存在のままでいてください。当然、わたしたちから見た周りの人間に対しても」
「どういうことかな?」
「元気で、颯爽とした近藤さんでいて下さい。もし、再会したら、離れていてもったいなかったなとか思わせるような」
「君は、映画の見過ぎだよ。ラブ・ストーリーの」
「こういう場合は、ファンタジーでも、希望をもった方がいいです」
「じゃあ、君が与えてくれよ」ぼくは、自分以上に不幸な立場にいないひとたちに残酷になった。つまりは、ほぼすべての人間に。
「どうすればいいです?」
「朝まで、ぼくのそばにいて慰めてくれるとか。冗談だよ、できないよ、そんなこと」
「いや、します」
「笠原さんは、ばかだよ」
「ののしるぐらい元気がでた」彼女は、じっとグラスを見つめる。「遠いむかし、わたしが失恋から立ち直る機会を近藤さんは与えてくれた。つまらない長い話を飽きもせずに聞いてくれた。わたしには、その借りがひとつある」
「もっと、あるよ」
「ほんと?」
「嘘だよ」
「なんだ。つまり、あのぐらいのことはできないと、わたしの女としての価値も値打ちもない」
「なんか間違っていると思うけど、ありがとう」
「近藤さんは、裕紀さんが入院したとき、泣いた。優しい行為をわたしはうらやましかったけど、恥ずかしかったので、ちゃかしてしまった。すいません」
「あのときは、あれで仕方がないよ」
「そうですか?」
そういう言葉をめぐる堂々巡りをしていて、時間は過ぎていった。彼女は、さすがに使命感に燃え、緊張していたのだろう、かなり酔っ払った。ぼくは、酔う気持ちにはなりたくなかったが、さすがにトイレに立つと足がふらついた。ここ数週間あまり酒を飲まなかったせいかもしれない。
「酔った。お金も払った。君を送る」
「家まで」彼女の目はうつろで潤んでいた。
「家の前までタクシーには乗せるけど、ぼくは、そこから先に行くので、高井君に迎えに来てもらえよ、下まで」
「彼、いないんです」
「どっか行ったの?」
「仕事の何かを仕入れるんだって」
「そう、じゃあ、玄関に置いていく」
「荷物みたいに」
タクシーを手を上げて停め、ぼくらは後部座席に乗る。彼女は頭をぼくの肩にもたせかけた。ぼくには、浮気という概念がなくなった。妻はいない。生きた誰かの肉体を、ぼくは感じ触れる必要があった。病院に横たわる裕紀。その印象がぼくを苦しめていた。そこから、ただ無邪気に開放されたかった。美しい女性は死ぬべきではないのだという風に。
「着いたよ。降りなよ」
「無理。もう無理。家まで送りなよ」
「なんで、命令口調なんだよ」
「近藤を元気にするんだよ。わたし」彼女はぼくのネクタイをつかんだ。それで、一瞬、息ができないぐらい苦しくなった。
「お客さん。ごめん。無線がはいった」
ぼくは仕方なく、いっしょに降りる。いや、こういう状態を望んでいたのかもしれない。ぼくは、彼女のバッグを探り、鍵を手の平に乗せた。そして、玄関を開け、彼女をソファに放り投げた。そのつもりだったが、ぼくも同時に転がってしまった。
「イジイジしないって誓いなさい」彼女は、そう言ってぼくの唇に自分の唇を押し付けた。そこにはアルコールの匂いがあった。
「笠原さんは、酒乱の一面があるのか」ぼくは、離れながらそう言ったが、あとはやけくそだった。そういう投げやりな態度で女性に接するべきではないのかもしれない。そして、ぼくは妹を思うような気持ちで、彼女と付き合ってきた。そこに、肉体的な関係を持ち込むべきではないが、生きた女性の温かい身体が、そのときのぼくにはどうしても必要だった。忘れなければならない。あの冷たく横たわる裕紀の存在を。
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