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物語の連鎖
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悪童の書 l

2014年08月20日 | 悪童の書
l

 優しさという概念がどうも理解できない。

 虫歯をつくるほど子どもに甘いものを与えつづけ、中毒、もしくは惑溺して、結果、歯医者でドリルの痛みを受容することの一連の過程が優しさの定義だろうか。

 そのことを絶対にさせないために、子どもに甘いものを一切、与えないことが一時的には辛くても優しさの本質を意味しているのだろうか。

 子どもは大人になり渇望の幼少時代という物語をひねりだすようになるかもしれない。
 程度の問題でもありそうだ。

 優しさへの理解のひもを引き寄せる。綱引きで負けないぐらいの勢いで。

 手っ取り早く、ぼく自身に優しさを示されたことを思いだすことにする。これなら、簡単そうだ。

 多分だが、ある町でCDを買ったのだと思う。むかしの長いパックに入った輸入盤だ。LPではなかったように思う。それを無造作に電車の網棚にのせ、ぼくは手にある本を読む。山手線の車窓から見る景色は晴れている。

 吊革につかまっているひともちらほらといる。ある男性が通勤カバンを網棚にのせる。ぼくのCDのうえに何かの弾みなのか、あるいは、気を配らないことを信条にしているためかの理由で、たまたまのってしまったらしく、無頓着なのか、はたまた意図的か彼はそのことにまったく気付かない。ぼくはとがめるほど大して気にもとめていなかった。簡易でもケースに入っているぐらいだから簡単には割れたりしないだろう。

 しかし、横にいた別の男性が声を出す。

「それCDだから、上に荷物のせるのまずいですよ」

「あ、そう、ごめん」というようなことを会社員は言う。ぼくは誰に感謝を述べればいいのだ。ぼくという存在が抜きに物語は進行してしまっている。

 優しさをためらわない彼は音楽を愛していて、不作法を許せない性質だったのだろうか。優しさはにこやかな表情をともなってこそ相乗効果となり、親切は倍増されるのではないのか。彼は不機嫌な様子でそう言った。ぼくの品物はこうして彼のひとことにより破損もなく守られた。

 のちのち、優しさの代名詞としてこの瞬間を殿堂入りさせる。

 車内での義務としての沈黙。

「あ、いたっ!」

 という声がする。おばさんが網棚に荷物をのせようとして、反対に下ろそうとして誰かの頭のうえに落とす。悪気はまったくない。沈黙が破られ、みんなの視線がそちらに向く。あわれというのはああいうことを指すのだろうか。おじさんの頭には防御するものがない。直に触れる。かわいそうだが、なぜだか、失笑したくなる雰囲気があった。ぼくは、ああならないだろう。きっとだが。

 話を戻す。では、自分がした優しさの最上の行為はどこにあったのだろう。ぼく自身がこの地上に生まれたことだろうか。ぼくはそれほど肯定的にもなれない。

 犬を散歩させている。途中の道でガラスの破片が散乱していた。ひとりと一匹は避けて歩く。散歩を終える。足の裏も無事だ。彼は用と責務を果たした。毎日の出金を通帳にも記帳した。ぼくはそれを拾った。

 犬を家に入れ、水でも飲んでいる頃だろう。ぼくはほうきとチリ取りを手にして、別の犬のためにガラスを集める。優しさというのは報いのない無料の行いであり、代償を手にするべきではないのだ。

 ひとは代償で動く。時間と能力を切り売りして、いくばくかの金銭を手にする。詐欺も騙すこともしたくない。なるべくなら受け取った以上のものを提供したい。これは性分とプライドだ。

 CDやコンサートの妥当な値段というのを慣習をなくして考えればどれぐらいなのだろう。機材を買うだけでも相当の費用がかかる。プラスチックを製造するには、どこかのオイルを必要とするのだろう。土中や海中から発掘する。こう考えると自分は音楽を聴く資格がないということに結論は至る。いつもながらの極論に達する。

 エビデンスを求める社会。証拠の提供を促すソサエティー。

 髪の毛、一本自力で生やすことができない。優しさというのは見て見ぬふりをすることなのか。はっきりと指摘することなのだろうか。例えば、襟が曲がったままのスーツを着ているひと。反対に優しさとは滑稽な自分の姿を大衆と同時に笑ってしまえる律義さだろうか。たとえ、悲鳴があがるほど落下したものの痛みが大きかったとしても。

 そうすると優しさというのは対人的な関係性でしか生じないという結論に至る。これがそもそも面倒だという性分もある。誰かの腹を借りて、およそ一年近くも栄養を摂取した自分。それから、数年間も自分で計画も立てず、与えられたものをただ受け取るしか能のない身分。ある日、電車に乗っている。お気に入りの音楽を手に入れた。破損を心配してくれる見知らぬひともいる。やはり、同じ程度かわずかばかり上回るぐらいの優しさを自分も発揮するしかないようだ。

 ベビーカーを階段の上で持ち上げ、下ろそうとしているひとがいた。ぼくは片方をもつ。これは悪童の記録だったはずなのに。彼女はぼくが優しさをもっているか瞬時に判断しなければならない。これは賭けなのだ。疑いや怪訝は彼女も捨てなければならない。ぼくは善意をしてしまった自分が悔しく、恥ずかしそうに逃げる。優しさとはぼくがこの世にいることなのか。そのぐらいの厚かましさを有していないと、逆に生きることも厳しい世界なのだろうか。




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