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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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最後の火花 67

2015年05月27日 | 最後の火花
最後の火花 67

 何度かお給料ももらった。仕事は慌ただしいが、それでも、こころは落ち着いてきた。いくらか馴染んできて余裕もできたのだろう。仕事以外の楽しみでも、数人の男性とそういう関係になった。帯に短し、たすきに流しである。燃え上がる恋愛というより、日々の体調のメンテナンスの一環のようでもあった。悪いことでもない。良いこととも胸を張って言い辛いが。

 夜はいつものお店で本を読む。いつもといっても週に一度か多くて二度だ。集中しているので周囲をあまり気にかけないが、なんとなく顔なじみのひともでてくる。淋しそうな様子のひともいる。疲れているひともいれば、快活そうな若い女性もいる。

 ある日、うっかりとした行動を取る。無神経に振った腕がほかの席のテーブルのコーヒーをこぼしてしまう。それでなくても静かな店なのに、保たれていた静寂が破られる。

「ごめんなさい」
「平気です。そんなに気にしないでください」同じぐらいの年齢なのだろう。世間から己自身を隔絶しようと挑んでいる様子のひとだった。

「ごめんなさい。うっかりして」わたしは咄嗟にハンカチを出し、テーブルを拭いた。服にもはねたかもしれない。だが、そんなに吸水力の良いものでもない。急いで近寄った店員さんがおしぼりをいくつかビニール袋を破り、無造作に、しかし結果としては丁寧に拭いた。

 わたしは慌ててレジに戻り、代金を支払う。店を出るときにさっきの座席に目を向けると、その男性は何事もなかったかのように静かに膝元の本に視線を落としていた。わたしは安心したが、同時に、泡立つ、波風立つ何物かを感じる。

 その翌々週、きれいに洗濯されたハンカチを返される。わたしはどこにいったかも忘れていた。先週のうちにもう準備していたのかもしれないが、わたしは別の男性と来ていた。本に無関心なひとで直に飽きたようなので大した時間もいないで出てきてしまった。そのきれいになったハンカチは善意というより、貸し借りを生じさせない打算と決着のようにも思えた。きっぱりと縁を切るように。しかし、ふたりともそこに来ることを止めなかった。その後も、会話をするようなことも、目が合うようなことも皆無に近いが、わたしは意識をせざるを得ない。わたしという存在を無視することに仕返しもしてみたかった。

 彼は本棚に向かっているので背中が見える。運動をしてきたひとのように筋肉が発達して、背筋もまっすぐに伸びている。あの辺りの棚は外国の小説が並んでいた。わたしは読みかけの自分の本をバッグから取り出して読んでいた。ヨーロッパの映画の音楽が静かに流れている。ここは知的なパラダイスなのだ。その世界にも、また別の社会にも居心地の悪そうな背中があった。

 彼が取った本の表紙が見える。
「幻滅、もっとも偉大な本」
「え?」彼は当惑したような表情をする。自分の帰るべき犬小屋を無惨に破壊された犬のように。
「それ、バルザックの幻滅」
「ああ」彼は自分の手元を見る。いつの間につかんでいたんだろうという不安な目だった。「読もうと思っていたんですか?」先に譲ろうとするように、わたしの鼻先にぶら提げた。
「いいえ、どうぞ。きっと、面白いと思いますよ」

 彼は自分の座席にもどる。わたしは、きっかけを作れたことをよろこび、そして、もちろんそのことをひた隠しにして店を出た。でも、次はいないかもしれない。いなくなってもわたしは困らないのだ。

 家にもどり、幻滅を探す。わたしはまたはじめから読もうとするが、直ぐに眠ってしまった。

 翌朝、あのハンカチをまたバッグに入れる。コーヒーのしみがひとつもない。縁というのは不思議なものだ。わたしは失敗をした。恥ずかしい思いもした。迷惑もかけた。だが、ひとがひとに対して迷惑をかけないと誓った場合、自殺しかのこされていない。その自殺もはた迷惑なものだった。

 わたしは仕事の研修などがつづいて、なかなかあの場にいけなかった。ひと月半ぐらいが経ってしまった。季節は夏を過ぎる。店のドアを開けると彼がいた。色が黒くなっていた。

 わたしは内装が少し変わっているような印象を受けた。しかし、きょろきょろ周りを見渡すこともない。彼はそろそろ帰るのか、ポケットの小銭を探している素振りを見せた。わたしの横を通過する。急に思い出したように振り返って視線を下げた。

「あれ、もう読み終わりましたから、もし」
「うん?」
「幻滅」
「ああ」わたしの存在が幻滅なのだと勘違いする。「ああ、ありがとう」
「それ、面白いですか?」彼はわたしの手元を指差す。きれいな細い指をしている。少し節くれだっている。
「まあ、なかなか。良かったら貸してもいいですよ」
「ありがとう」

 借りたいとも、貸してくれとも言わなかった。まどろっこしい。わたしは追求しないと気持ちが悪い性質なのだ。トイレに立つふりをして後を追う。「今日中に読み終わるので、明日」

 彼はきょとんとしている。わたしは強引だった。彼はわたしの顔をじっと見る。なつかしいひとに会ったように、ふと、前世の記憶がよみがえったように、別れ別れの肉親を見つけたように。しかし、ずっと期待をもたないように暮らしてきたみたいにそっと目を伏せた。