流求と覚醒の街角(15)川原
ぼくと奈美はニジマスが大量に放流されている釣堀にいた。釣堀といってもそこは自然の川の一部で清らかな水が流れ、どこか遠くで野鳥の鳴き声も聞こえ、さらには新鮮な空気がたっぷりとあった。
ぼくらは向かい合った座席にすわり、のんびりと電車に揺られ、昨日ここにやってきた。休みを調整して宿を手配して、ほかには何の計画も準備もなく、ただいっしょに居るということだけを楽しもうとしていた。朝ごはんを食べていると給仕のひとがぼくらの今日の予定を訊き、なにもなければ川原でイベントがあるので行ってみたら、と提案したので、そのアドバイスにそのままのっかった結果だった。
だから、ぼくは釣れなくても釣れてもどちらでも良かったのだが、奈美が競争といったので、ぼくはいくらか本気を出した。だが、こちらの本気のことなど水のなかの生物に簡単に感染する訳もなく、手応えもそれほどにはなかった。靴をぬいで足元をまくり、水のなかに入って直かにつかんだほうが成果はあがるような気もしたが、となりの奈美も同じような具合だったので、この状態も悪くはないといえばその通りで、半分は本気で半分はお遊びの範疇をただよっていた。
「やった、釣れた」
奈美は竿をあげ、手元に魚を寄せた。
「小さくない?」
「いいんだよ、これ、あとで食べるんだから、このぐらいの方が」
「触れんの?」
「え、触るの怖かったの?」そう言って、奈美はつかんだ魚をこちらに向け、ぼくの顔のそばに近付けた。となりでは小さな女の子が驚きながらも笑っていた。その子と父のそばの網にはいくつもの魚影があった。その父は時おりスパルタに近い声をだした。何事にもまじめに取り組むということを念頭に置いているひとの口調だった。上司にでもなれば頼りにもなり、また、うっとうしいといえばそうもいえた。奈美の父親(まだ、写真でしか知らない)にもどこかで似ていた。ぼくは、そのことを奈美に告げる。
「ほんとだね、さっきから、そう思っていた」
では、あの小さな子は奈美に似ているのか。そのスパルタをどう受け入れ、どうかわしていくのだろう。魚をきちんとつかまえられる女性に、いつかなるのだろう。いや、もうなっていたのだ。
「あ、また、釣れた」と奈美が言ったので、そちらに向くと、奈美の竿ではなく、その少女と父の共同の竿がしなっていた。彼らの胃袋には充分すぎるほど、魚が入るのだろう。そう考えていると、ある係員が近づき、どうやら重量の上限があるようでそれ以上は釣れないという決まりの下、彼らの遊びは終わりになった。さっきの少女は不服そうでもあり、その父には反対の充足の気持ちが顔に浮かんでいた。勝負には勝たなければならない。そして、勝ったのだ。
「いなくなったよ、魚たちにはチャンスだけど、ぼくらにもチャンスが増えた」
「じゃあ、本気を出して釣るよ」
だが、成果は芳しくなかった。それでも、ふたりで捌いて食べるには充分の量とも言えた。釣果は奈美のほうが一匹多かった。
「捌き方、教えてくれるんだって、ちょっと行ってくる」奈美はぼくらの合計の魚をもっていった。ぼくは缶ビールを買った。さきほどの親子は、その病的に色白な母も近づき、既に串刺しにされた魚を焼いていた。父はここでもすべてを取り仕切っていた。娘は見よう見真似でその作業を模倣していた。ぼくは岩の平らな部分を探し、ぼんやりとビールの泡を楽しんだ。
しばらくするとひとの気配がする。そして、「これ、どうぞ」と先ほどの釣りの少女が魚をもってきてくれた。
「ぼくに?」
「そう、だって、余っちゃうから」ぼくは受け取り、お礼を言う。そのことは彼女一人の能動的な行動であったのか、両親はぼくの方を見向きもしなかった。だが、ぼくはそちらに向かって見ていない彼らにも礼をした。
「釣り、うまいんだね」
「まあまあだね」と言って彼女は去った。ぼくは一口かぶりつき、またビールを飲んだ。やはり、つまみはあった方が良いのだ。すると、奈美が歩いてくるのが見える。ぼくは岩から下り、火のあるところに行こうとした。
「何それ? どうしたの、ずるくない」
「さっきの女の子が急にきてくれた。断るのも悪いしね」
「そう、こっちはせっせと働いていたのに」
「ごめん、もうあとはぼくが全部やるから。焼くのも。だから、待っててよ」
ぼくは魚を奪い、代わりに奈美はぼくからビールを奪った。
「自分だけ飲んで」
「もう1本でも買って来てよ。2本でも、3本でもいいけど」
ぼくは炭を漁り、準備された小さな囲炉裏のようなものに魚を並べた。次第に魚から香ばしい匂いがしてきた。奈美はさっきの少女と何やら話していた。いつの間にか親しくなっているようだ。奈美がその子の耳元に口を寄せ、耳打ちするような格好だった。それから、少女は笑った。そして、こちらを見た。つぶらな瞳。奈美も手を振る。ぼくは焼けた魚をもって、奈美に近づいた。
「取り敢えず、2匹は焼けたよ」
「おいしそうだね。内臓もきれいになってるし」奈美は自分の働きに満足のようであった。
「これ、食べる?」ぼくは儀礼的にその少女に訊いた。
「もう食べられない。いっぱい食べた」
「そうだよね。上限までいったぐらいだから」
少女は嬉しそうな顔をして、また両親のもとに戻るために小走りで去った。
「なに、話してたの?」
「内緒だよ」
「そう。女同士の秘密か」
「ほんとは、わたしたちの関係のことを説明していた」
「興味があるんだ、あの子」
「それはあるでしょう。これ、おいしいね」
「うん。捌き方が良かったんだろう」とぼくは言い、またマスを頬張り、冷たいビールもその後に飲み込んだ。
ぼくと奈美はニジマスが大量に放流されている釣堀にいた。釣堀といってもそこは自然の川の一部で清らかな水が流れ、どこか遠くで野鳥の鳴き声も聞こえ、さらには新鮮な空気がたっぷりとあった。
ぼくらは向かい合った座席にすわり、のんびりと電車に揺られ、昨日ここにやってきた。休みを調整して宿を手配して、ほかには何の計画も準備もなく、ただいっしょに居るということだけを楽しもうとしていた。朝ごはんを食べていると給仕のひとがぼくらの今日の予定を訊き、なにもなければ川原でイベントがあるので行ってみたら、と提案したので、そのアドバイスにそのままのっかった結果だった。
だから、ぼくは釣れなくても釣れてもどちらでも良かったのだが、奈美が競争といったので、ぼくはいくらか本気を出した。だが、こちらの本気のことなど水のなかの生物に簡単に感染する訳もなく、手応えもそれほどにはなかった。靴をぬいで足元をまくり、水のなかに入って直かにつかんだほうが成果はあがるような気もしたが、となりの奈美も同じような具合だったので、この状態も悪くはないといえばその通りで、半分は本気で半分はお遊びの範疇をただよっていた。
「やった、釣れた」
奈美は竿をあげ、手元に魚を寄せた。
「小さくない?」
「いいんだよ、これ、あとで食べるんだから、このぐらいの方が」
「触れんの?」
「え、触るの怖かったの?」そう言って、奈美はつかんだ魚をこちらに向け、ぼくの顔のそばに近付けた。となりでは小さな女の子が驚きながらも笑っていた。その子と父のそばの網にはいくつもの魚影があった。その父は時おりスパルタに近い声をだした。何事にもまじめに取り組むということを念頭に置いているひとの口調だった。上司にでもなれば頼りにもなり、また、うっとうしいといえばそうもいえた。奈美の父親(まだ、写真でしか知らない)にもどこかで似ていた。ぼくは、そのことを奈美に告げる。
「ほんとだね、さっきから、そう思っていた」
では、あの小さな子は奈美に似ているのか。そのスパルタをどう受け入れ、どうかわしていくのだろう。魚をきちんとつかまえられる女性に、いつかなるのだろう。いや、もうなっていたのだ。
「あ、また、釣れた」と奈美が言ったので、そちらに向くと、奈美の竿ではなく、その少女と父の共同の竿がしなっていた。彼らの胃袋には充分すぎるほど、魚が入るのだろう。そう考えていると、ある係員が近づき、どうやら重量の上限があるようでそれ以上は釣れないという決まりの下、彼らの遊びは終わりになった。さっきの少女は不服そうでもあり、その父には反対の充足の気持ちが顔に浮かんでいた。勝負には勝たなければならない。そして、勝ったのだ。
「いなくなったよ、魚たちにはチャンスだけど、ぼくらにもチャンスが増えた」
「じゃあ、本気を出して釣るよ」
だが、成果は芳しくなかった。それでも、ふたりで捌いて食べるには充分の量とも言えた。釣果は奈美のほうが一匹多かった。
「捌き方、教えてくれるんだって、ちょっと行ってくる」奈美はぼくらの合計の魚をもっていった。ぼくは缶ビールを買った。さきほどの親子は、その病的に色白な母も近づき、既に串刺しにされた魚を焼いていた。父はここでもすべてを取り仕切っていた。娘は見よう見真似でその作業を模倣していた。ぼくは岩の平らな部分を探し、ぼんやりとビールの泡を楽しんだ。
しばらくするとひとの気配がする。そして、「これ、どうぞ」と先ほどの釣りの少女が魚をもってきてくれた。
「ぼくに?」
「そう、だって、余っちゃうから」ぼくは受け取り、お礼を言う。そのことは彼女一人の能動的な行動であったのか、両親はぼくの方を見向きもしなかった。だが、ぼくはそちらに向かって見ていない彼らにも礼をした。
「釣り、うまいんだね」
「まあまあだね」と言って彼女は去った。ぼくは一口かぶりつき、またビールを飲んだ。やはり、つまみはあった方が良いのだ。すると、奈美が歩いてくるのが見える。ぼくは岩から下り、火のあるところに行こうとした。
「何それ? どうしたの、ずるくない」
「さっきの女の子が急にきてくれた。断るのも悪いしね」
「そう、こっちはせっせと働いていたのに」
「ごめん、もうあとはぼくが全部やるから。焼くのも。だから、待っててよ」
ぼくは魚を奪い、代わりに奈美はぼくからビールを奪った。
「自分だけ飲んで」
「もう1本でも買って来てよ。2本でも、3本でもいいけど」
ぼくは炭を漁り、準備された小さな囲炉裏のようなものに魚を並べた。次第に魚から香ばしい匂いがしてきた。奈美はさっきの少女と何やら話していた。いつの間にか親しくなっているようだ。奈美がその子の耳元に口を寄せ、耳打ちするような格好だった。それから、少女は笑った。そして、こちらを見た。つぶらな瞳。奈美も手を振る。ぼくは焼けた魚をもって、奈美に近づいた。
「取り敢えず、2匹は焼けたよ」
「おいしそうだね。内臓もきれいになってるし」奈美は自分の働きに満足のようであった。
「これ、食べる?」ぼくは儀礼的にその少女に訊いた。
「もう食べられない。いっぱい食べた」
「そうだよね。上限までいったぐらいだから」
少女は嬉しそうな顔をして、また両親のもとに戻るために小走りで去った。
「なに、話してたの?」
「内緒だよ」
「そう。女同士の秘密か」
「ほんとは、わたしたちの関係のことを説明していた」
「興味があるんだ、あの子」
「それはあるでしょう。これ、おいしいね」
「うん。捌き方が良かったんだろう」とぼくは言い、またマスを頬張り、冷たいビールもその後に飲み込んだ。