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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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流求と覚醒の街角(11)ヒール

2013年06月15日 | 流求と覚醒の街角
流求と覚醒の街角(11)ヒール

 待ち合わせ場所に奈美は来ない。だが、電話があった。

「いまね、歩いていたら靴のかかとが折れた。取れた? 好きだったのにな。直してくれる場所があるんで、ごめん、ちょっと寄る。このままじゃ、そこまで歩くことも出来ないしね。バランスが」

 そう言って、電話が切れた。ぼくはその情景を思い浮かべている。先ずは、自分の靴を見る。平べったい靴底。だが、頑丈さだけが売り物のような気もする。すると、そもそも自分の存在自体が頑丈さだけしかないようでもあった。

 それから、バランスが取れたものを考え、不均衡なものも同時に頭に並べた。ある種の髪型。左利きのひと。ピサの斜塔。サッカーのフリー・キックのカーブの軌道。
 バランスは、神社の鳥居があった。大きな建造物もバランスが大事だった。橋。車。自転車。一輪車。円を転がすという発想自体が、バランスが命であった。ぼくは右指を怪我したときの居心地の悪さを考えてもいた。シャンプーも片手で行われなければならず、最終的な爽快さも得られない。歯磨きをあえて左手でしてみる。時計。スピーカー。

 奈美は多分、すすめられたソファーにすわり、靴が直されるのを待っている。彼女は幼少期から待つという経験を何度もしてきたのだろうが、いまはぼくが待たされていた。幼い彼女は病院の順番を待ち、母の買い物の終了を待っている。その姿を想像する。ひとりで遊ぶことで世界から距離をとる。少女の頭の中身などぼくは知らない。だが、そこに入ってみたいとも思った。いまの彼女の頭のなかには、ぼくがいる。寝ても覚めてもいるという状況ではないかもしれないが、確かにいる。このぼくが存在しているからそれが可能なのであり、出会った事実があるからこそ、その役割と立場が与えられる。

 奈美以外の頭のなかにもぼくはいることだろう。だが、それは奈美の世界より楽しくないようでもあった。その理由は分からないが、ただ、好きだからだといえばそれまでだった。

 ぼくはまた足先を見る。自分が通算、どれだけの靴を履いたのか無意味な問答を考えている。なれない感触が最初にありながらも、自分の足の形状と歩み寄る靴たち。違和感もなく、それはここにあった。ぼくは奈美に対して違和感はないのだろうか。会うたびに、ぼくは奈美に新鮮な感情を抱いていた。その原因の根がどこにあるのかも分からない。ただ、不思議な感じだけはのこっていた。それは戸惑いでもなく、もちろん嫌悪でもない。その新鮮さが失われた瞬間に愛はきちんと育ったという証拠になるのだろうか。それとも、それは喪失と失意のはっきりとした確証となるのだろうか。

 向こうから奈美が歩いてくる。まだ、ぼくには気付いていないようだった。靴が無事だったとしたら、今日は待ち合わせに間に合ったのだろう。しかし、何度もいうがぼくはこの時間が嫌いではなかった。会社員から奈美の恋人という役目にスムーズに移行するためには必要な時間だからだ。

「直ってるね」
「そう、新品みたいになった。それとその店員さんの出身地がわたしの田舎といっしょだったので話が弾んで」

 奈美はそのエピソードのいくつかを話す。ぼくは彼女がそこで過ごした休みの日々をきく。彼女はお転婆なのだろうか、静かにひっそりと遊ぶことを有意義と感じるタイプだったのだろうか。ぼくは、まだすべてを知らない。20数年の人生を正確に把握することができるのは、同じだけの時間を要するのだろうか。ぼくは、これからのその数十年間を想像していた。さらに、その期間に吐き潰される靴たちも。頑丈さもいつか崩れる。堅牢な城砦もいつか攻め込まれる。ぼくのこころはどうなのだろう。しかし、奈美のこころには今日のぼくの存在がインプットされ、消されることもないのだろう。あくまでも希望としてだが。

「どこまでも歩けそう」
「片方じゃ、役に立たないもんね。来るまで、バランスの取れたものと、取れていないものを考えていた。なにかある?」
「お箸。お皿。お茶碗」
「変なデザインのお皿もあるよ」
「タンス。引き出し。ずれてたら開かなくなるから」

「反対のは?」
「時計」
「きちんと正確に円じゃない。6と12の向かい合った反対側で位置も同じところだし」
「でも、左にしかしてないじゃない、ほら」勝ち誇ったように奈美が言って、ぼくの手を揺する。
「そうか、世界はバランスを崩す」
「右手の指輪。いつか、左手にするようになる」
「どこが起源なんだろうね、指輪の意味合いって」
「さあ、慣習なんじゃない」

「まあ、そうだけど」ぼくらの歩く歩幅は当然のように違う。でも、歩く方向は同じだ。進むスピードもいっしょだ。背も違う。他人から見たら、このふたりのバランスは似合っているのだろうか。いっしょに暮らすひとから影響を受け合うのか、兄弟のような雰囲気をただよわす夫婦もいる。いや、似た存在を探しているのだろうか。ぼくと奈美には相違がある。それは新鮮さとも呼ばれ、結果として驚きにもなった。ぼくの鼓動は早まり、これが愛の証拠だとも思っている。鼓動はバランスを崩しながらも一定に身体の隅々まで血液を運ぶ。

 ぼくらは信号が変わるのを待ち、横断歩道を渡る。前から来るひとを避け、ぼくと奈美の間が離れる。ある店のドアを開け、テーブルに着く。テーブル・クロスもバランスが保たれ、ナイフやフォークは左右に不均衡に並べられている。しかし、奈美の前の同じものを入れれば、テーブル全体のトータルとしては整然と均衡がとれていた。ワインが注がれる。傾いて冷やされるビン。奈美の笑顔。左右のバランスがとれている。頬杖をつく。傾いた顔。また、笑顔。ぼくの左にある心臓。身体の左右の整合性。奈美はぼくの声が聞き取れなかったのか、左耳をこちらに向けた。