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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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Untrue Love(104)

2013年02月02日 | Untrue Love
Untrue Love(104)

「さっき、飲んだコーヒーが効いてきた。これから、家に帰っても眠れそうにないんだ。よく、ここに、おばさんに頼んで泊まらせてもらってるから。そこのソファに」

「そうなんだ」ぼくは、自分の実家で営まれていることを知らなかった。その罪悪感にも似た気持ちが反論を抑えてしまうことにつながった。「じゃあ、きちんと戸締りだけして。オレ、2階に行くから」

 ぼくは階段を登る。その段差すら懐かしく感じていた。木の温もり。ぼくは、数年前まで自分の部屋として毎日を過ごしていた部屋に戻った。まだ、誰のことをも知らなかった自分。ユミもいつみさんも、木下さんの存在も知らなかった自分。そのこと自体も懐かしかった。だから、女性がこの部屋に入ったこともない。いまのアパートにはユミがいた。反対に、いつみさんや木下さんの部屋にぼくは足を踏み込んだ。

 ベッドに横になっても、自分もなかなか寝付かれそうになかった。下では物音ひとつしない。彼女がすべらすペンや鉛筆や消しゴムでノートをこする音は二階までもれてこない。ぼくは、立ち上がり備え付けの本棚の前に立った。そこも歴史に取り残されたような状況になっていた。数年前まで確かに貴重なものとして使っていた参考書があった。開くとマーカーの色があったが、いく分、かすれているようにも思えた。そのラインの下の文字がどれほど自分にとって必要な情報であったのか、ぼくには確かめようもなかった。探し当てた埋蔵品を過去、どのような意図で利用していたのか判断に困る発掘者のように。

 横には、夏目漱石の本があった。自分が買ったものもあれば、活字への愛を子どもに伝達したかった親が買い揃えたものもあった。その本が、どちらの範疇に分類されるのか思い出せないが、眠れそうにもなかったので一冊だけ抜き取り、ベッドの上で転がりながら読み始めた。

 主人公は、兄嫁とどこかに出かける。アクシデントがあり、そこから戻れなくなり一泊することになった。兄は、自分の妻の心中をつかまえることに困難を覚えている。女性の気持ちをきちんと認識することなど不可能な行為なのだと、ぼくは寝そべりながら思っていた。弟は困った状況にはまり込んでしまったと憂いながらも、自然の猛威の前になす術もない。見知らぬ土地で一泊をする決意をする。兄嫁は同意もしなければ、反論もしない。この捉えきれない気持ちを兄は毎日、味わっているのだと弟は思う。

 下で、グラスなのか瀬戸物なのかが重なりこすれる音がした。この地域は夜中、静かなことをまた思い出していた。ぼくのアパートの周りで学生や塾の帰りの子どもたちが騒いでいる様子を好ましい生活のノイズとして、この瞬間のぼくは考えていた。

 兄は、その日の状況を問い詰めない。弟も訊かれないので自分からは説明しない。しかし、精神の均衡をいくらか壊しはじめている兄は、緊迫した面持ちで弟を罵倒する。早く伝える責任があるだろうと。

「自分は、女性の内面をすべて掌握したいのだ」という趣旨のことを兄は言う。弟はその世界から去ろうと決める。ぼくは、誰一人として、女性の気持ちを理解していない。いっしょに過ごす時間が楽しいことは知っている。その楽しみの先に、暖かな保養地としての海岸のような景色があるのか、それとも一転して奈落のようなものが口を開けて待っているのか分からなかった。だが、しばらくすると思考も停止し、いつの間にか睡魔がからみついて、ぼくは寝てしまったらしい。

 ぼくは、夢を見る。この部屋にいつみさんが来ていた。彼女は制服を着ている。土手で話してもらった彼女の過去の印象がここで結実していた。ぼくの本棚を彼女は眺めている。その後姿は木下さんになった。ぼくは、そんなことはいいからゲームでもしようと横に誘う。そして、ゲームを始めると対戦相手はユミになっていた。彼女が勝てば誇らしさに満ちた顔になり、負ければぼくの腕を思いっきりなぐった。ぼくは避けることもなくその力を受け止めた。これが、彼女の示す愛の表現方法だと思いながら。

 母親がトレイのうえに飲み物を載せ、部屋の戸を開けた。その姿は店にいるいつみさんと同じ姿だった。彼女は、ぼくの母だったのか、と眠りのなかのぼくは疑問をもつこともなくその事実を受け入れた。となりのユミは笑顔でそれをもらう。両手に乗ったお盆。彼女はスプーンで紅茶をかきまわした。

 眠りのなかでまた部屋が開く。しかし、それは夢ではなく実質に近かった。ぼくは三人のうちの誰であるのか素早く判断しようと思ったが、顔がよく見えなかった。その姿は、ぼくの布団の横にもぐりこむ。そして、「寒いから、こうして、暖めて」と言った。ぼくは夢のなかで、またなぜか先ほどの本を読み進んでいた。しかし、それも別の本に変わっていた。田舎から東京に大学進学のために出向く主人公。その移動はどこかで泊まる時間を組み込まないと到着しないころの話だった。主人公は、ある同じ列車の女性と旅館の同部屋になる。布団も二つある訳ではない。男性は自分を律する。その律することのむなしさを女性は翌日、事実とあざけりが混ざったものとして告げる。

 朝になっていた。読みかけの本は机の上にきちんと置かれていた。電気を消した覚えもないが、部屋の明かりはついていなかった。ぼくの肩辺りが、ユミに殴られたかのように痺れて痛かった。両親は今日の夕方に戻る。バイトも学校もなかったぼくは二度寝の誘惑を断ち切れるかどうかを悩んでいた。