償いの書(70)
ぼくが、丁度外線の電話をとると、聞き覚えのある声がきこえた。だが、名前の方は聞き覚えのない名前を告げた。平日の2時ごろでブラインド越しに日差しを感じるほどの陽気だった。
「島本雪代です。ひろし君にこうして名乗るとは思わなかったけど」
「電話番号、知ってたんだ」
「わたしはきちんと賃貸料を払っているお客さんだよ」
「そうでした。ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。手紙もありがとう」
「やっぱり、読んだんだ」
「そのために書いたんでしょう」
「そうだけど、ポストに投函した後は無頓着でいた」
「とても嬉しい反面、ある意味では嬉しさも半減した」
「どうして?」
「手紙を書いた後は、もう終わりなんだと思って。もしかしたら、どんな悲しみを味わっているか、顔ぐらい観に来てくれるのかとも思っていた」
「そうだよね。でも、いろいろ立場もあったし」
「奥さんもいるしね。妹さんも来てくれた。嬉しかった。あの後輩、いいコーチらしいね。たまに噂を耳にする」
「あいつも過去にお世話になったから、それを忘れて欲しくなかった。いまは、立ち直った?」
「そう簡単にはいかないけど。彼は急にわたしの前から消えたことをずるく感じている。終わりの方はすっかり遊び人になって、仕事も人生も過去の精彩がなくなっていった」
「そうなんだ。知らなかった」
「そう? 一度、彼は東京でひろし君に会ったと言ってた。仕事でいっしょの女性を関心のある視線で見ていたとも言ってたけど」
「そんなことあったかな」
「わたしは、そんな彼をゆっくりと憎もうと思い始めたけど、その機会がなくなってしまった。わたしは残された思い出に浸る女性を演じなければならない。まあ、当然、そういう風にも思っているけどね。ひろし君は幸せ?」
「まあ、考えられる限りにはね」
「彼女は優しい?」
「うん。雪代に会いに行って慰めろとしつこく言った。ぼくは頑なにそれを断ってしまったけど」
「どうして?」
「ぼくは、むかし一度そうしてしまったから」
「それを悔いているの?」
「そんなことは微塵も考えていない。だが、2度は精神としてできない」
「彼女は、とても優しいんだね。見直した。でも、友達にはなってくれないだろうけど」
「なってくれないね」
「わたしのこと恨んでる?」
「恨んでないよ。ただぼくの揺れやすいこころを恐れている」
「島本雪代も終わってしまった。彼が去ってしまうと。名前も戻そうかなと。島本って使う意味あると思う?」
「さあ、そんなこと出来るとも思っていなかった。娘は?」
「まだ、学校に行ってないから、それほど、気にならないと思う」
「あの子は元気でいる?」
「彼は父親らしいことを毎日していたわけでもないし。たまに、もの凄く可愛がったと思えば、母子ふたりで生活しているような日々も多かった」
「店の方は?」
「順調だよ。軌道に乗ってしまえば、あとはうまく転がるのをすこしだけ方向転換しながら維持するだけ。ひろし君はどう? たまにあの社長に情報はきくけど」
「そんなことも話すんだ。まあ、順調だよ」
「子どもは?」
「ぼくらには出来ないみたいだ」ぼくは、そのときは、そのような気分になっていた。だが、その存在を望んでいなかったわけでは決してない。
「あの子は、お母さんになってたくましく生活するようなタイプではないと思うよ」
「そう?」
「なんとなく。確信はないけど。また、こっちに仕事で来る?」
「会議かなにかで、行く必要もそのうち出てくると思う」
「そのときは手紙のお礼をする」
「立場が違うよ。ぼくが、慰める必要がある」
「そういう弱い女性に思える?」
「さあ、ぼくが知ってる頃と変わったかもしれない」
「変わらないかもしれない」
「元気そうでよかった」
「これも、演技かもしれないけど」
「そうなんだろうか。もう、ぼくには分からない」
「会っても、彼女は大丈夫?」
「仕事で地元に戻っても、あまりその状況はきかれない。意識してかもしれないけど」
「別に古い友人のひとりだしね。あの後輩君と同じように」
「そういわれればそうだけど、そんなすんなりとは理解してくれないし、ぼくもそう思えないかもしれない」
「とにかく、戻ってくるときに連絡して」
「元気になった、むかしと寸分変わらない雪代の顔を見て安心したいよ」
「女のひとがむかしのままでいられるわけないじゃない」
「そのことは分からない。観て確認する」ぼくは、話の流れでそう口にしただけで、実際に会うとも思っていなかった。また、もう一度かすかにでも裕紀が悲しむことはしたくもなかった。そう意識すればするほど、雪代の存在はいまのぼくに、また少なくとも過去のぼくにとって大きな存在であることを身に染みて感じていた。
「じゃあ、またいつか。手紙もありがとう」
「いや、電話で元気そうな声がきけて良かった。こちらこそ、ありがとう」とぼくは言い受話器を置いた。ぼくの気持ちはもう何年も前の自分に戻っていた。未来は未知であり、足がかりも持たない自分がそこにいた。だが、それは錯覚であり、別の電話が鳴り続け、ぼくをまた忙しい渦中に戻してしまった。
ぼくが、丁度外線の電話をとると、聞き覚えのある声がきこえた。だが、名前の方は聞き覚えのない名前を告げた。平日の2時ごろでブラインド越しに日差しを感じるほどの陽気だった。
「島本雪代です。ひろし君にこうして名乗るとは思わなかったけど」
「電話番号、知ってたんだ」
「わたしはきちんと賃貸料を払っているお客さんだよ」
「そうでした。ありがとうございます」
「いや、こちらこそ。手紙もありがとう」
「やっぱり、読んだんだ」
「そのために書いたんでしょう」
「そうだけど、ポストに投函した後は無頓着でいた」
「とても嬉しい反面、ある意味では嬉しさも半減した」
「どうして?」
「手紙を書いた後は、もう終わりなんだと思って。もしかしたら、どんな悲しみを味わっているか、顔ぐらい観に来てくれるのかとも思っていた」
「そうだよね。でも、いろいろ立場もあったし」
「奥さんもいるしね。妹さんも来てくれた。嬉しかった。あの後輩、いいコーチらしいね。たまに噂を耳にする」
「あいつも過去にお世話になったから、それを忘れて欲しくなかった。いまは、立ち直った?」
「そう簡単にはいかないけど。彼は急にわたしの前から消えたことをずるく感じている。終わりの方はすっかり遊び人になって、仕事も人生も過去の精彩がなくなっていった」
「そうなんだ。知らなかった」
「そう? 一度、彼は東京でひろし君に会ったと言ってた。仕事でいっしょの女性を関心のある視線で見ていたとも言ってたけど」
「そんなことあったかな」
「わたしは、そんな彼をゆっくりと憎もうと思い始めたけど、その機会がなくなってしまった。わたしは残された思い出に浸る女性を演じなければならない。まあ、当然、そういう風にも思っているけどね。ひろし君は幸せ?」
「まあ、考えられる限りにはね」
「彼女は優しい?」
「うん。雪代に会いに行って慰めろとしつこく言った。ぼくは頑なにそれを断ってしまったけど」
「どうして?」
「ぼくは、むかし一度そうしてしまったから」
「それを悔いているの?」
「そんなことは微塵も考えていない。だが、2度は精神としてできない」
「彼女は、とても優しいんだね。見直した。でも、友達にはなってくれないだろうけど」
「なってくれないね」
「わたしのこと恨んでる?」
「恨んでないよ。ただぼくの揺れやすいこころを恐れている」
「島本雪代も終わってしまった。彼が去ってしまうと。名前も戻そうかなと。島本って使う意味あると思う?」
「さあ、そんなこと出来るとも思っていなかった。娘は?」
「まだ、学校に行ってないから、それほど、気にならないと思う」
「あの子は元気でいる?」
「彼は父親らしいことを毎日していたわけでもないし。たまに、もの凄く可愛がったと思えば、母子ふたりで生活しているような日々も多かった」
「店の方は?」
「順調だよ。軌道に乗ってしまえば、あとはうまく転がるのをすこしだけ方向転換しながら維持するだけ。ひろし君はどう? たまにあの社長に情報はきくけど」
「そんなことも話すんだ。まあ、順調だよ」
「子どもは?」
「ぼくらには出来ないみたいだ」ぼくは、そのときは、そのような気分になっていた。だが、その存在を望んでいなかったわけでは決してない。
「あの子は、お母さんになってたくましく生活するようなタイプではないと思うよ」
「そう?」
「なんとなく。確信はないけど。また、こっちに仕事で来る?」
「会議かなにかで、行く必要もそのうち出てくると思う」
「そのときは手紙のお礼をする」
「立場が違うよ。ぼくが、慰める必要がある」
「そういう弱い女性に思える?」
「さあ、ぼくが知ってる頃と変わったかもしれない」
「変わらないかもしれない」
「元気そうでよかった」
「これも、演技かもしれないけど」
「そうなんだろうか。もう、ぼくには分からない」
「会っても、彼女は大丈夫?」
「仕事で地元に戻っても、あまりその状況はきかれない。意識してかもしれないけど」
「別に古い友人のひとりだしね。あの後輩君と同じように」
「そういわれればそうだけど、そんなすんなりとは理解してくれないし、ぼくもそう思えないかもしれない」
「とにかく、戻ってくるときに連絡して」
「元気になった、むかしと寸分変わらない雪代の顔を見て安心したいよ」
「女のひとがむかしのままでいられるわけないじゃない」
「そのことは分からない。観て確認する」ぼくは、話の流れでそう口にしただけで、実際に会うとも思っていなかった。また、もう一度かすかにでも裕紀が悲しむことはしたくもなかった。そう意識すればするほど、雪代の存在はいまのぼくに、また少なくとも過去のぼくにとって大きな存在であることを身に染みて感じていた。
「じゃあ、またいつか。手紙もありがとう」
「いや、電話で元気そうな声がきけて良かった。こちらこそ、ありがとう」とぼくは言い受話器を置いた。ぼくの気持ちはもう何年も前の自分に戻っていた。未来は未知であり、足がかりも持たない自分がそこにいた。だが、それは錯覚であり、別の電話が鳴り続け、ぼくをまた忙しい渦中に戻してしまった。