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爪の先まで神経細やか

物語の連鎖
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償いの書(66)

2011年06月11日 | 償いの書
償いの書(66)

 ある女性からの電話がある。声の持ち主は筒井という女性だ。ぼくは結婚後にその女性との関係を持ち、計り知れない後悔をしていた。また、それを乗り越える甘美な思い出も持っていた。なるべくなら話したくはなかったが出ないわけにもいかなかった。なぜなら、ぼくらの会社が管理しているビルの一室を彼女に貸していたのだ。いや、彼女の会社に貸していた。もし、そちらの不具合があれば、それに真摯に応えなければならない。

「どう、されました?」
「島本さんが死んだ」
「また、あんな元気なひとが死ぬわけがないでしょう?」ぼくの身近には、若者の死などなかった時代なのだ。
「突然だけど、事故にあった。高速で」

「ほんとなんだ。仕事が終わったら会いましょう」という約束を彼女と取り付けた。具体的な消息を知りたい気持ちがあったが、また、そこから遠ざかりたい希望ももっていた。段々と、ぼくは仕事を思いから消していってしまった。それは、本意ではないがひとひとりの命とは比べられないほど大切なものではない気がした。当然のことだ。だが、ぼくは、島本さんのことばかりを考えているわけではないことに気付く。ぼくは、雪代と、雪代に含むものを考えているのだ。彼女の幸福。笑顔。雪代の大切な娘。あの子はいま何歳になっているのだろう? 4歳か5歳か。その年で、もう父親が不在になるのか。

 だが、筒井さんの情報は間違っているかもしれないという気持ちも捨て切れなかった。彼女が嘘というか偽りの情報しか掴んでいないのかもしれない。事故にあっても、多少の打撲とか骨折で不運を免れるということもないわけではない。ひとが死ぬなど簡単なことではないのだ。ぼくが好きでもない人間についてだが、そう思わないとやっていられなかった。無性に悲しさもこみ上げてきた。その感情はぼくの芯からぼく自身に向かって突き上げてきた。ぼくは、彼の勇姿を思い出し、その映像を眺める。ぼくの脳にその姿は正確な形でインプットされていた。だが、その姿には雪代のことも同時に入っているようだった。彼が勝利者になったあと、雪代と寄り添って歩いている後ろ姿がそこにはあった。ぼくは、自分が島本さんだったら、と何度も思っていたのだ。それで、彼を憎む結果になったのだろうか? ぼくは卑劣な人間のような気がした。ぼくが、彼をいなくなってほしいという感情を持っていたことが憎かった。その結果は、今日になって訪れ、ぼくの気持ちが解決したのだという思いと戦った。いてほしくない人間だが、実際には、いつまでもいてほしかったのだ。逆説だが、それも事実だった。

「近藤さん、残業してぼくの仕事を手伝うって、いってましたけど」という後輩ののんびりとした言葉を振り切り、ぼくは筒井さんとの待ち合わせの場所に向かった。

「ありがとう、来てくれて」彼女は自分の身内が死んだように悲しんでいた。その姿を見ると、やはりあのことは事実だったのだと、受け入れるしか方法はなかった。
「やっぱり、そうなんですね」

「死んだって。終わりだって」彼女は口をつぐんだ。しかし、その後たくさんの思い出を声にして出す。その言葉から連想される映像は、ぼくが知っている彼の一面とは違かった。また、雪代がもっている彼についての印象も当然のことだが、違うだろうことが予想された。

 そして、ぼくらは忘れることを念頭にして、彼の思い出をそれぞれ吐き出した。しかし、口にすればするほど、生きている頃より、彼の実像がリアルに迫った。ぼくらは、その気持ちをどうにか処理しないと、明日まで持ちこたえられないほど消耗した。ひとの死は、ぼくらのこころを踏みにじった。筒井という女性がこれほど悲しんでいることで、ぼくはさらに島本さんを憎もうとした。だが、死人に対して憎しみなど持てる訳もなく、それは一瞬だけ訪れたかもしれないが、継続はさせてくれなかった。

 ぼくらは追悼の気持ちのように抱き合う。ぼくは浮気などするべきではないのだ。だが、この日だけは自分を許そうとした。その行為がなければ、ぼくの悲しみも筒井さんの憐憫も消滅しなかったのだ。ぼくはそれを無理にでもなく正当化しようとした。ぼくらは抱き合うことによって、自分らがこの世界に留まっていることを知った。実感としてもった。彼女はぼくの下で確かに存在し、ぼくもまた彼女の指がぼくの背中に絡まることで自分はまだこの命があり求められていることを確認した。それは、ぼくらなりの追悼だったのだ。

「島本さんとも関係をもった?」ぼくは、その言葉を無粋ながらも口にすることをとどめられなかった。

「何回かは」ぼくは、そして、なぜだかその言葉に安心した。それで、雪代の悲しみが減るような誤解をもった。彼が死んで放つ悲しみの数パーセントは、筒井さんが受け持つのだという錯覚があった。そこで、ぼくは雪代の悲しみの軽減を最前列に置きたいという卑劣な感情をもった。ぼくは、今日、何回も卑劣でいるのだ。それを認めることによって、彼の死を自分なりに衝撃を減らすかたちで受け止めることにしたのだろう。

「奥さんに、どう言う?」
「今日のこのこと?」
「違う。彼の死のこと」ぼくは、その問題を考えてもいなかった。ぼくと雪代の話はふたりにとってタブーであり、繊細な彼女の気持ちをぼくは掻き回すようなことはしたくもなかった。