償いの書(64)
先日、智美と会って裕紀は旅行のプランを作る。彼女らは同じような立場にいた。ふたりとも子供はいなかった。その自由な面を生かせば、もっと頻繁に会うこともできるはずだが、なかなか計画はまとまらない。しかし、ふたりとも都合が良い日を見つけ、一泊の旅行に出掛けることにした。
ぼくが、いつも通り出社するときに、玄関の横には裕紀の旅行カバンが置かれていた。そして、奥の方で念入りに彼女は化粧をしていた。
「行って来るよ」
「ごめんなさい、だから、今日はどっかで食べて来てね」
「ああ、そうするよ。楽しんできて」
ぼくは、償いと言われたことを気にかけている。負い目や引け目を自分のどこかに隠しているのだろうかと点検した。しかし、外見からではなにも分からなかった。
「奥さん、きょうはいらっしゃらない? ご飯は?」
外回りをしているときに、電話がかかってきた。午後のやる気が一時的に消える時間にある女性の声が耳に飛び込んでくる。それは、笠原さんだ。
「なんで、知ってるの。まあ、どうにかすると思うけど。どうしようかな?」
「上田さんが、妻がいないと大喜びしてるので。たまには、一緒にどうですか? お礼もあるし」
「あのことなら、気にしなくていいよ」ぼくは償いという二文字に拘泥している。だが、結局は約束を取り付け、彼女と食事をすることにした。ぼくは、上田さんも来るものだと思っていたが、仕事を終え、待ち合わせの場所に着くと、彼女しかいなかった。
「上田さんは?」
「来ませんよ。来るって、私言いましたっけ?」
「そういえば、言ってないけど、なんとなく勘違いしてた」
「妻がいないときぐらい、会社のひとと仕事が終わったあとも会いたくないって。とくに、私とかだからかも。近藤さんもそうですか?」
「ぼくは、そういわれると、いつも、きちんと家に帰るからな」
「愛している?」ぼくは返答ができない。それは、愛ではなく償いなのか? いや、そうばかりではない。ぼくの思案もお構いなしに、笠原さんはリズム良く話した。考えていることを思い留めるという段階が存在しないようだった。それでいて、口を閉ざしているときは、上品な印象を残していた。すると、ぼくの思案癖も消えていってしまっていた。
「うまくいきました」突然、彼女はそう宣言する。
「良かったね」
「近藤さんのことも聞きました。若かりし、泥にまみれる青春時代」
「高井君が、どう見てたかも分からない。ただ、ぼくらはライバル関係にある学校にそれぞれ所属していた。ぼくらはよくもしらないのに、どこかで軽蔑したり憎んだりするように思いがちだったね」
「彼は、近藤さんを尊敬していた」
「嬉しいけど、ぼくらは2番手にいつもいて、不屈ということしかアピールすることはできなかった。その健気さを、彼も後輩だからベンチかスタンドで見ていたのだろう。負け戦を恐れないひとたちって」
「そのライバル校のキャプテンから女性を奪った」
ぼくが忘れようとする度に、誰かが雪代の存在を思い出させようとした。事実は曲げられ、興味本位で語られているような気もして不快になることもあったが、それを正す必要も感じなかった。ぼくの真剣さを当人だけが知っていればよかった。だが、会話の行き掛かり上、少しだけは弁解もした。
「奪ったわけじゃないよ。彼らは、きちんと別れていたから」
「だが、他のひとはそう見ない」
「見ないけど、彼らはいまでは夫婦でもある。可愛らしい子どももいるはずだよ。それより、自分のことを話してよ。私の前に表れた素敵な男性という題で」
彼女は、そういうきっかけを待っていたようで、滔々と話し出した。ぼくは、彼女の別れ話をつい先日にきき、今度は新しい恋の話を聞かされた。それが、どういうめぐり合わせによるものか、自分でも謎だった。しかし、彼女の人生に対して責任のようなものも含まれていった。ぼくは、頭の中で別の映像を作り上げる。シアトルでできた友人に裕紀も自分の終わってしまった恋の話をしたのかもしれない。それは別の言語を介しての話だったのだろうか? その女性は、きょうはぼくらの家にいなかった。そして、旅先でいまごろ、裕紀と智美はどのような会話をしているのかを想像していた。ぼくは、どのように評価され、どのように点数を増減させているのかを考えた。
「もう遅くなったね」会話にも区切りがつき、夜も終わろうとしている。彼女と話していると楽しい会話のせいなのか時間は短く感じられた。ぼくらは名残惜しい気持ちを残しながらも夜の町にでた。ぼくは何人かの女性のこころに強く印象を残したいという気持ちが過去にあったことを思い出している。しかし、いまは、もうどうでもよかった。ただ、離れた妹に感じているような気持ちを笠原さんにももっていた。後輩の山下に対しての感情と同じようなものを高井君にも持ったのかもしれない。
ふたりは別れ、ぼくも家に着く。ドアを開けるといないはずの裕紀の匂いがした。いないだけに逆にそれは鮮明さを帯びていた。
先日、智美と会って裕紀は旅行のプランを作る。彼女らは同じような立場にいた。ふたりとも子供はいなかった。その自由な面を生かせば、もっと頻繁に会うこともできるはずだが、なかなか計画はまとまらない。しかし、ふたりとも都合が良い日を見つけ、一泊の旅行に出掛けることにした。
ぼくが、いつも通り出社するときに、玄関の横には裕紀の旅行カバンが置かれていた。そして、奥の方で念入りに彼女は化粧をしていた。
「行って来るよ」
「ごめんなさい、だから、今日はどっかで食べて来てね」
「ああ、そうするよ。楽しんできて」
ぼくは、償いと言われたことを気にかけている。負い目や引け目を自分のどこかに隠しているのだろうかと点検した。しかし、外見からではなにも分からなかった。
「奥さん、きょうはいらっしゃらない? ご飯は?」
外回りをしているときに、電話がかかってきた。午後のやる気が一時的に消える時間にある女性の声が耳に飛び込んでくる。それは、笠原さんだ。
「なんで、知ってるの。まあ、どうにかすると思うけど。どうしようかな?」
「上田さんが、妻がいないと大喜びしてるので。たまには、一緒にどうですか? お礼もあるし」
「あのことなら、気にしなくていいよ」ぼくは償いという二文字に拘泥している。だが、結局は約束を取り付け、彼女と食事をすることにした。ぼくは、上田さんも来るものだと思っていたが、仕事を終え、待ち合わせの場所に着くと、彼女しかいなかった。
「上田さんは?」
「来ませんよ。来るって、私言いましたっけ?」
「そういえば、言ってないけど、なんとなく勘違いしてた」
「妻がいないときぐらい、会社のひとと仕事が終わったあとも会いたくないって。とくに、私とかだからかも。近藤さんもそうですか?」
「ぼくは、そういわれると、いつも、きちんと家に帰るからな」
「愛している?」ぼくは返答ができない。それは、愛ではなく償いなのか? いや、そうばかりではない。ぼくの思案もお構いなしに、笠原さんはリズム良く話した。考えていることを思い留めるという段階が存在しないようだった。それでいて、口を閉ざしているときは、上品な印象を残していた。すると、ぼくの思案癖も消えていってしまっていた。
「うまくいきました」突然、彼女はそう宣言する。
「良かったね」
「近藤さんのことも聞きました。若かりし、泥にまみれる青春時代」
「高井君が、どう見てたかも分からない。ただ、ぼくらはライバル関係にある学校にそれぞれ所属していた。ぼくらはよくもしらないのに、どこかで軽蔑したり憎んだりするように思いがちだったね」
「彼は、近藤さんを尊敬していた」
「嬉しいけど、ぼくらは2番手にいつもいて、不屈ということしかアピールすることはできなかった。その健気さを、彼も後輩だからベンチかスタンドで見ていたのだろう。負け戦を恐れないひとたちって」
「そのライバル校のキャプテンから女性を奪った」
ぼくが忘れようとする度に、誰かが雪代の存在を思い出させようとした。事実は曲げられ、興味本位で語られているような気もして不快になることもあったが、それを正す必要も感じなかった。ぼくの真剣さを当人だけが知っていればよかった。だが、会話の行き掛かり上、少しだけは弁解もした。
「奪ったわけじゃないよ。彼らは、きちんと別れていたから」
「だが、他のひとはそう見ない」
「見ないけど、彼らはいまでは夫婦でもある。可愛らしい子どももいるはずだよ。それより、自分のことを話してよ。私の前に表れた素敵な男性という題で」
彼女は、そういうきっかけを待っていたようで、滔々と話し出した。ぼくは、彼女の別れ話をつい先日にきき、今度は新しい恋の話を聞かされた。それが、どういうめぐり合わせによるものか、自分でも謎だった。しかし、彼女の人生に対して責任のようなものも含まれていった。ぼくは、頭の中で別の映像を作り上げる。シアトルでできた友人に裕紀も自分の終わってしまった恋の話をしたのかもしれない。それは別の言語を介しての話だったのだろうか? その女性は、きょうはぼくらの家にいなかった。そして、旅先でいまごろ、裕紀と智美はどのような会話をしているのかを想像していた。ぼくは、どのように評価され、どのように点数を増減させているのかを考えた。
「もう遅くなったね」会話にも区切りがつき、夜も終わろうとしている。彼女と話していると楽しい会話のせいなのか時間は短く感じられた。ぼくらは名残惜しい気持ちを残しながらも夜の町にでた。ぼくは何人かの女性のこころに強く印象を残したいという気持ちが過去にあったことを思い出している。しかし、いまは、もうどうでもよかった。ただ、離れた妹に感じているような気持ちを笠原さんにももっていた。後輩の山下に対しての感情と同じようなものを高井君にも持ったのかもしれない。
ふたりは別れ、ぼくも家に着く。ドアを開けるといないはずの裕紀の匂いがした。いないだけに逆にそれは鮮明さを帯びていた。