流求と覚醒の街角(10)電池
「今日は間に合ったよ。時間通り」と奈美は嬉しそうに告げた。
ぼくは、自分の時計を見る。それから、どこかに客観的な証拠となるべき時計を探す。だが、どこにもなかった。「いや、遅れてるよ。別に怒っているわけじゃないけど、事実は事実」女性と話しているときに、だが、事実などどうでもよいのかもしれない。
「遅れてないよ。ほら、これ、見て」奈美は腕時計をはめている側の手首を差し出す。「ちょっと、約束より早いぐらい」
ぼくはその時計の文字盤をのぞく、確かに2,3分早かった。ぼくはもう一度、自分の時計を見る。時間は彼女のものより20分ほど進んでいる。どちらが正しいのだろう。
ぼくらは数字でも世界を把握するのだ。もちろん、顔色や声がともなう口調などにも大きな影響を受ける。それがすべての場合もある。誰かが激高する。そのすべては印象である。怒りに対して数字の間違いを指摘することなど論外だ。ただ火に油を注ぐだけ。先生(もしくは先輩)その数字、この資料とずれていますよ。なに! 怒っているのは正当で、ぼくもミスについて済まなくは思っていますけど・・・。
ぼくらは歩き出している。奈美は立ち止まる。「ほんとだ、さっきから全然すすんでない。時計、とまってる」
「電池かな?」
「買ってから、変えたことない」
役に立たなくなったものを身に着けているのは不安なものである。破れたことに気づいた靴下が靴のなかに隠れている。夜、職場の飲み会があり、座敷にあがる結果になる。きっと。正確さを求められている時計は、偽の情報を教えるものとして成り下がる。だが、気付かなければ、それはさっきまでは事実であったのだ。ぼくは、ある日、奈美という女性を好きになりかけていることに気付く。最初の女性との思い出や亡骸をタンスやクローゼットにしまうことが求められているのであり、もうそれは先延ばしにもできなかった。それに、意図しなくても勝手に登場する出番は減っていくものなのだ。去年のお気に入りのシャツとして。象徴的に。
「そこに電気屋さんがあるから、時計売り場もあるんじゃない」
「ちょっと、行ってくる。どこかで暇をつぶしてくれててもいいよ」
彼女はビルのなかに消える。ぼくはそこで立ち止まっていた。空は急に雨でも降り出しそうなぐらいの曇り空になっていた。急変という言葉を思い出している。徐々に変化するものもあれば、一瞬で変更を余儀なくされる場合もある。立場。地位。あたらしい政党。
職場で挨拶をする男性。新しく課長としてこの部署で働くことになりました。ぼくらは以前のシステムで仕事をすすめることになれている。数字にうるさいひとがおり、感情論でもっていこうとするひともいる。今度のひとは、いったい、どういうタイプなのだろう。
ぼくの前に奈美があらわれる。好きであるということは、もう疑いのない事実であった。これで、自分を受け入れてくれないとすれば、世界は自分にとってた易い場所ではないのだと思おうとした。しかし、ぼくに対してちょっと採点が甘かった。だから、ぼくはにこやかに過ごせている。
そう考えていると、雨がぽつりぽつりと落ちて来た。ぼくはビルの一階部分にある屋根のある場所のベンチにすわった。ぼくは時計の電池をいつ変えたかを思い出そうと記憶の糸を手繰り寄せようとするも、それは不可能だった。覚えていても仕様がないことも多々ある。以前、かさぶたができたのはいつだったのか。ティッシュ・ペーパーを通算、何回購入したかなど。数字の無力さを痛感する。いや、数字ではないか。数字を媒体にした記憶の山。
「ごめん、待たせたね」
奈美はビルから出て来る。そして、腕時計をこちらに向ける。
「きちんと動いている」
「これが、正確な時間」彼女はぼくの時計を強引に横に並べようとした。その不自然なかたちのためぼくの腕は痛んだ。「そうだ、強盗でもするなら、ここで、ふたつはぴったりと同じ時間にしないといけない。そういう映画あるよね」
「あるね。せーの、とか言って踏み込む」
「それで、大金を手に入れたら、どうする?」
「考えたこともないけど、リゾート地でのんびりするかもね。もう強盗でもなく、宝くじに当たったら、みたいな話になるけど」
「それがほんとうにしたいこと?」
「そうかしれないし、違うかもしれない。恵まれない土地で学校を作ったり、図書館を建てたりするのもいいかも。奈美は?」
「自分のためだけにコンサートをしてもらうとか」
「独り占め」
「でも、並ぶのも好き」
ぼくらはある店の入り口で並びだした。順番は段々と迫ってくる。列の長さは短くなる。数十分待ったとしてもぼくはひとりではなかった。時間がぴったりの腕時計もしている。ぼくはなかに入っている電池の形状を思い浮かべようとしたが、自分は見たこともないことを知る。ただ、複数の刻みがついた小さなネジが回っている映像があるだけだ。自分もそういう類いのものなのだろう。正確にすすめる部品の一部。そこから抜け出てハワイかどこかのビーチに寝そべる自分を想像する。しかし、ぼくらの順番がきて、どのメニューにするのかと頭のなかの思考を奪われ、別のものが入り込む余地はなかった。奈美の好きなもの。ぼくはそれを知る。結果として蓄える。多分、いつまでも忘れなくなっていくもののうちのひとつなのだろう。これも。
「今日は間に合ったよ。時間通り」と奈美は嬉しそうに告げた。
ぼくは、自分の時計を見る。それから、どこかに客観的な証拠となるべき時計を探す。だが、どこにもなかった。「いや、遅れてるよ。別に怒っているわけじゃないけど、事実は事実」女性と話しているときに、だが、事実などどうでもよいのかもしれない。
「遅れてないよ。ほら、これ、見て」奈美は腕時計をはめている側の手首を差し出す。「ちょっと、約束より早いぐらい」
ぼくはその時計の文字盤をのぞく、確かに2,3分早かった。ぼくはもう一度、自分の時計を見る。時間は彼女のものより20分ほど進んでいる。どちらが正しいのだろう。
ぼくらは数字でも世界を把握するのだ。もちろん、顔色や声がともなう口調などにも大きな影響を受ける。それがすべての場合もある。誰かが激高する。そのすべては印象である。怒りに対して数字の間違いを指摘することなど論外だ。ただ火に油を注ぐだけ。先生(もしくは先輩)その数字、この資料とずれていますよ。なに! 怒っているのは正当で、ぼくもミスについて済まなくは思っていますけど・・・。
ぼくらは歩き出している。奈美は立ち止まる。「ほんとだ、さっきから全然すすんでない。時計、とまってる」
「電池かな?」
「買ってから、変えたことない」
役に立たなくなったものを身に着けているのは不安なものである。破れたことに気づいた靴下が靴のなかに隠れている。夜、職場の飲み会があり、座敷にあがる結果になる。きっと。正確さを求められている時計は、偽の情報を教えるものとして成り下がる。だが、気付かなければ、それはさっきまでは事実であったのだ。ぼくは、ある日、奈美という女性を好きになりかけていることに気付く。最初の女性との思い出や亡骸をタンスやクローゼットにしまうことが求められているのであり、もうそれは先延ばしにもできなかった。それに、意図しなくても勝手に登場する出番は減っていくものなのだ。去年のお気に入りのシャツとして。象徴的に。
「そこに電気屋さんがあるから、時計売り場もあるんじゃない」
「ちょっと、行ってくる。どこかで暇をつぶしてくれててもいいよ」
彼女はビルのなかに消える。ぼくはそこで立ち止まっていた。空は急に雨でも降り出しそうなぐらいの曇り空になっていた。急変という言葉を思い出している。徐々に変化するものもあれば、一瞬で変更を余儀なくされる場合もある。立場。地位。あたらしい政党。
職場で挨拶をする男性。新しく課長としてこの部署で働くことになりました。ぼくらは以前のシステムで仕事をすすめることになれている。数字にうるさいひとがおり、感情論でもっていこうとするひともいる。今度のひとは、いったい、どういうタイプなのだろう。
ぼくの前に奈美があらわれる。好きであるということは、もう疑いのない事実であった。これで、自分を受け入れてくれないとすれば、世界は自分にとってた易い場所ではないのだと思おうとした。しかし、ぼくに対してちょっと採点が甘かった。だから、ぼくはにこやかに過ごせている。
そう考えていると、雨がぽつりぽつりと落ちて来た。ぼくはビルの一階部分にある屋根のある場所のベンチにすわった。ぼくは時計の電池をいつ変えたかを思い出そうと記憶の糸を手繰り寄せようとするも、それは不可能だった。覚えていても仕様がないことも多々ある。以前、かさぶたができたのはいつだったのか。ティッシュ・ペーパーを通算、何回購入したかなど。数字の無力さを痛感する。いや、数字ではないか。数字を媒体にした記憶の山。
「ごめん、待たせたね」
奈美はビルから出て来る。そして、腕時計をこちらに向ける。
「きちんと動いている」
「これが、正確な時間」彼女はぼくの時計を強引に横に並べようとした。その不自然なかたちのためぼくの腕は痛んだ。「そうだ、強盗でもするなら、ここで、ふたつはぴったりと同じ時間にしないといけない。そういう映画あるよね」
「あるね。せーの、とか言って踏み込む」
「それで、大金を手に入れたら、どうする?」
「考えたこともないけど、リゾート地でのんびりするかもね。もう強盗でもなく、宝くじに当たったら、みたいな話になるけど」
「それがほんとうにしたいこと?」
「そうかしれないし、違うかもしれない。恵まれない土地で学校を作ったり、図書館を建てたりするのもいいかも。奈美は?」
「自分のためだけにコンサートをしてもらうとか」
「独り占め」
「でも、並ぶのも好き」
ぼくらはある店の入り口で並びだした。順番は段々と迫ってくる。列の長さは短くなる。数十分待ったとしてもぼくはひとりではなかった。時間がぴったりの腕時計もしている。ぼくはなかに入っている電池の形状を思い浮かべようとしたが、自分は見たこともないことを知る。ただ、複数の刻みがついた小さなネジが回っている映像があるだけだ。自分もそういう類いのものなのだろう。正確にすすめる部品の一部。そこから抜け出てハワイかどこかのビーチに寝そべる自分を想像する。しかし、ぼくらの順番がきて、どのメニューにするのかと頭のなかの思考を奪われ、別のものが入り込む余地はなかった。奈美の好きなもの。ぼくはそれを知る。結果として蓄える。多分、いつまでも忘れなくなっていくもののうちのひとつなのだろう。これも。