50歳のフランス滞在記

早期退職してパリへ。さまざまなフランス、そこに写る日本・・・日々新たな出会い。

「大戦」最後の兵士、逝く。

2008-03-21 05:01:32 | パリ
先の大戦というと、日本では一般的に第二次世界大戦を思い浮かべる人が多いのではないでしょうか。でも、フランスでは第一次世界大戦(1914-1918)。“La Grande Guerre”(大戦)と呼ばれています。どうしてかというと、あまりに多くの戦死者を出したから。非戦闘員を除く、いわゆる戦死者が第一次大戦全体で900万人とか1,000万人と言われるなかで、フランスは136万人。一方、第二次大戦のフランス人戦死者は20万人台だそうで、これでは、大戦といえば第一次世界大戦を思い浮かべるのも当然かもしれないですね。因みに、日本の戦死者数は第二次大戦で230万人だったそうで、やはり大きな犠牲のあった第二次大戦がより身近な歴史になるのでしょうね。

また、第一次世界大戦までは騎士道精神がまだ残っていて、戦いに若干のロマンティックなイメージを抱く人もいたという資料もあります。しかも、開戦当時にはそれほど長続きせずに終結するだろう、というのが大方の予想だった。しかし、あにはからんや、古き良き騎士道の世界は、毒ガス、航空機などの近代兵器によって一変。しかも塹壕を掘ってそこから撃ち合うという塹壕戦も始まり、塹壕の中で泥にまみれての無残な戦死がふえた・・・戦争の実相を変えたという意味でも、「大戦」といえば第一次大戦を指しているのかもしれません。

・・・という「大戦」を生き抜いたフランス最後の戦士が、12日に110歳で亡くなりました。Lazare Ponticelli(ラザール・ポンティセッリ)、名前からうかがえるように、元はイタリア人(ラザーロ・ポンティチェッリ)。北イタリアで、大工などをしていた父、米収穫労働者(『にがい米』を思い出しますね)を母に、七人兄弟の貧しい家に生まれる。父が亡くなると、9歳で、二人の兄を頼ってパリへ。そして1914年、年齢を偽ってまで(当時はまだ16歳)、自ら志願して外人部隊へ。しかし、翌年イタリアが参戦すると、まだ国籍はイタリアでしたから、強制的にイタリア軍へ。塹壕で、敵味方の区別なく負傷兵を助けたともいわれていますが、自らも大怪我を。戦後は兄弟で金属・パイプ関係の会社を立ち上げ、経営者に。第二次大戦開戦時にはフランス国籍を取得していたものの、今度は年齢が行き過ぎていたため志願できず。しかし、レジスタンスとして戦ったとか。第二次大戦後は、会社の経営に当たり、引退後は家族に囲まれた平穏な老後。因みにこの会社、現在でも4,000人を雇用する立派な会社だそうです。

さて、こうして「大戦」を生き抜いた最後のフランス兵として、そして同時に最後のイタリア兵として110歳の天寿を全うしたPonticelli氏。17日に国葬として見送られました。



その模様を伝える18日のフィガロ紙です。国葬が営まれたのは、ナポレオンも眠るアンヴァリッド。サルコジ大統領やフィヨン首相はもちろんですが、シラク前大統領や左右を問わず首相経験者、そして現役閣僚などが列席。イタリアからも国防大臣が参列。テレビでも放送されました。

しかし、式自体は、Ponticelli氏の意向で、厳かなれど質素に。2005年に、シラク政権下で「大戦」最後の兵士は国葬として葬送することに決まったのですが、当時はまだ12人ほどが存命だった。それが去年には2人に減っていて、その頃からインタビューされることも増えたようです。Ponticelli氏は、塹壕で無残に死んでいった戦友たちは今や顧みられない。自分だけが国葬で英雄扱いされるのはゴメンだと、生前、国葬自体、固辞していました。そこには、謹厳実直で、賢く、正直、家族思いというPonticelli氏の人柄が出ているのかもしれません。しかし、今年1月にもうひとりの生存者がなくなると、ついに「最後の兵隊さん」に。その頃から、戦友たち全てを代表するということなら国葬を受け入れる。ただし、大仰な葬儀は止めてほしい。質素に。また政府の考えているパンテオンあるいは凱旋門の無名兵士の墓に埋葬するのも辞退する。家族の墓に葬ってもらいたい、と述べるようになっていました。その内容は、遺族からサルコジ大統領にも伝えられたようです。



葬儀に先立つ16-17日付けのル・モンド紙です。最後の兵士の国葬を盛大にしようとしているエリゼ宮・・・故人の願いははっきりしていたものの、政府の一部には別の考えもあったようです。16日の日曜日は統一地方選挙の第2回投票日。大苦戦が予想されていた与党としては、翌17日に国民の関心を国葬に向け、地方選敗北の影響を少しでも軽減したい・・・と思ったのかどうか、大仰なものになりつつあったようですが、しかし結局は、故人の意思が尊重されたようです。

なお、この記事で面白いのは、イラスト。向かって左側には、Ponticelli氏の埋葬場所の候補になっていた凱旋門の真下にあるSoldat Inconnu(知られざる戦士:一般には無名戦士)の墓にともる火。右側は、知られざる戦士ならぬSoldat Incompris(理解されざる戦士)・・・支持率が下がり続けているサルコジ大統領のようですね。ル・モンド紙にまでこうした風刺漫画が掲載されるようになってしまいました。

しかし、大統領としての弔辞とともに、アンヴァリッドにプレートを掲示したサルコジ大統領。そのプレートには次のように書かれているそうです。
« Alors que disparaît le dernier combattant français de la Première Guerre mondiale, la Nation témoigne sa reconnaissance envers ceux qui ont servi sous ses drapeaux en 1914-1918. La France conserve précieusement le souvenir de ceux qui restent dans l'Histoire comme les Poilus de la Grande guerre. »
(第一次大戦を生き抜いたフランス最後の兵士の逝去に際し、1914年から18年にかけて祖国のために戦った人々への感謝の気持ちを国家として捧げる。フランスは大戦の兵士として歴史の残る人々を決して忘れることはない。)

故人の意思を汲んでくれているようですね。そして、祖国のために戦った人々を忘れない・・・これは「大戦」の兵士だけでなく、第二次大戦時の兵士やレジスタンスを顕彰するプレートをあちこちで見かけることでも明らかです。また、その後の植民地独立戦争で亡くなった人たちも。



19日は8年にも及ぶアルジェリア独立戦争が1962年3月19日に終結した記念日。多くの参戦兵(今やみな高齢者)たちが記念碑のあるペール・ラシェーズ墓地に集まるとともに、シャンゼリゼをジョルジュ・サンクから凱旋門まで行進。シャンゼリゼ界隈は、胸にいくつもの勲章を付けたお年寄りたちであふれました。

その戦いの意義や背景はともかく、祖国のために志願して、あるいは為政者の命令により、戦場に赴き、帰らざる人となった人々へ敬意を表すのはフランスではごく当たり前のことのようです。しかし、国葬をイベントで終わらせるのではなく、戦争と平和について改めて考え直す機会とすべきだという意見もあるそうです。過去の戦争といかに対峙すべきか・・・いろいろ視点、いろいろな意見がどこの国にもあるようですね。


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2 コメント

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大戦 (ぐらっぱ亭( ̄ー ̄))
2008-03-21 08:50:11
takeさん、お久しぶり。ランキング辞めてからも、相変わらず精力的な筆ですね。今回の記事もとても興味深く読ませてもらいました。今まで気づきませんでしたが、確かに136万対20万では、重みがまるで違いますね。そう言えば仏映画、圧倒的に第一次大戦を舞台にしたものが多いですね。逆に20万という数字にも驚きます。徹底抗戦したのはレジスタンスでしたからね。それだけ死者が少なくて済んだのは何よりと言えるでしょう。それにしても、poiluって毛の生えた、という形容詞でしか覚えていなかったけど、兵士、それも特に第一次大戦の兵士を指すって、一体とこから来たんですかね。
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語源 (take)
2008-03-21 17:35:00
ぐらっぱ亭さん

なるほど! 第一次大戦を舞台にしたものが多い仏映画。

どうして第一次大戦を「大戦」というか数人に聞いたところ、みんな戦死者が多かったからと言っていました。中には、フランス人が800万人も戦死したからと言う人も。大戦全体での数字なのでしょうが、それほどフランス人戦死者が多かったという印象があるのでしょうね。

poiluの語源、どこにあるのでしょう。大戦の兵隊という意味、私も今回はじめて知ったのですが、語源辞典でもあたってみれば面白い情報があるのかもしれないですね。塹壕に長期こもっていたので髭ぼうぼうな兵隊が多かったのでpoilu?・・・素人の勝手な想像です。
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