同行二人
お遍路さんの背中に書かれている「南無大師遍照金剛」と「同行二人」の文字を見ると、「いつも大師と二人連れ」「いつも大師は見てござる」「わが心にも大師の心」といった言葉が浮かびます。古くから霊地、聖地への巡礼は、信仰深い人々にとってはさらに信仰を深める修行であり拠りどころでした。しかし、今とは違い、奥深い山道に分け入り底知れぬ谷を渡って巡礼の旅は容易なことではなかったはずです。事実、多くの巡礼者は家族と別れの杯交わして、白装束すなわち死装束に身を包み死を覚悟して旅に出しました。
お遍路さんは、「南無大師遍照金剛」と「同行二人」の文字を頭や背にいただき、お大師さまと一緒だから心細いことは何もないと信じて感謝をし、お大師さまは善きこと悪しきこと全て見通しておられると懺悔反省し、常にわれを戒めお大師さまを見習おうと自分にできる善行、施しをして徳を積んだのです。何と深い祈りでしょうか。
近頃はこうした心がけの人が少なくなり、学ぶべき仏の教えを学ばず、進むべき仏の道を進まず加護を乞う。お大師さまや多くのみ仏が救いの手を差し伸べてくださっても、曇った目や心で気付かず、逆恨みといった悪循環さえ起こります。「世の幸不幸はわが心による」とお大師さまはおっしゃっています。
自坊は篠栗新四国霊場という福岡県の山あいにある霊場の一寺院で、日々多くのお遍路さんが訪れます。不思議な体験を目の当たりにすることも多いのですが、同時に、仏さまとともに生きることによる心の目覚めに多く出会えます。
交通事故で片足に障害を抱えたある少年は「何のための祈りか」という問いに、お礼参りだと答えてくれました。本当に辛いとき、悲しいときもあった。時に人から指された笑われることもあった。でも、両親と霊場を巡っていると、父と母の思いがひしひしと伝わり、祖父母の心配、友達の優しさに包まれ、たくさんの人に恵まれ守られていることに気付けた。自分の体が自分だけのものではなく授かった尊いものだと思えるようになった。事故のお陰で人の痛みがわかるようになり、前より少し優しくなれた。今の僕は本当に有り難く、特別に修行させてもらっている。
澄みきった瞳には何の惨めさもなく、力強さを覚えました。ご両親は目に涙を浮かべながら、私たちもお礼参りですと微笑んでくれました。辛いことも多かったでしょう。しかし家族に支えられ仏さまとともに歩む人生は、無くしたものより得ることの方が多いことを教えてくれました。
お大師さまとともにまことの祈りの中で生きる彼らの心は、強く広く深く豊かです。仏とともに歩む人生とは、仏さまの心をわが心とすることです。お大師さまの心をわが心にいただき生きるならば、たとえどのような逆境に突き落とされても必ずそこに、一筋の光明が差すことでしょう。まことの同行二人のこころでお祈りいただき、真の幸せをお探し下さい。
参与770001-4228(本多碩峯)