🌸前九年合戦
☆奥州に覇を唱えた安倍氏が滅亡する
⛳平安時代の前九年合戦
☆東北地方には蝦夷と呼ばれた人々が住んでいた
☆東北地方には蝦夷と呼ばれた人々が住んでいた
☆朝廷との戦いが返される中、朝廷の支配下に入った蝦夷を俘囚と呼ぶ
☆俘囚の長、安倍頼時
*年貢を未納するなどたびたび不服従の意を示す
*朝廷は源頼義を追討軍として派遣した
*大赦が出され、安倍頼時は頼義に帰順するが
*安倍頼義の部下が何者かに襲撃されるという事件が起きた
☆安倍頼義は、源頼時と断罪し両者は再び激突した
*源頼義は、俘囚の清原氏の加勢を得て、安倍氏は敗北・減亡した
⛳12年に及ぶ奥州での合戦
☆安倍頼時は、陸奥で一大勢力を築きあげた
⛳12年に及ぶ奥州での合戦
☆安倍頼時は、陸奥で一大勢力を築きあげた
☆陸奥守の藤原登任が安倍頼時を攻めたが、返り討ちにあい敗北した
☆陸奥守は藤原登任から源頼義に交代された
*前九年合戦が始まった
⛳勝軍の将、源頼義
☆東国に源氏の基盤を築いた
☆清和天皇の血統を継ぐ清和源氏の一族
☆東国に源氏の基盤を築いた
☆清和天皇の血統を継ぐ清和源氏の一族
*河内で勢力を伸ばした河内源氏・源頼信の子
*父頼信とともに平忠常の乱を平定
*源氏の声望を高めることに貢献した
☆子孫には、鎌倉幕府を開く源頼朝がいる
☆前九年合戦、黄海の戦いで苦戦を強いられた
*退却できたのは頼義と息子含め7騎のみだった
🌸後三年合戦
☆清原氏の内輪もめから奥州藤原氏が誕生する
⛳平安時代後三年合戦
☆前九年合戦から約20年後、奥六郡を治める清原氏で内紛
⛳平安時代後三年合戦
☆前九年合戦から約20年後、奥六郡を治める清原氏で内紛
☆清原家衡、源頼義の子義家との戦い
☆源義家の弟・義光の軍を加え、清原家衡を討ち取った
☆源義家の弟・義光の軍を加え、清原家衡を討ち取った
⛳清原家衡の怠慢が戦乱きっかけとなる
☆清原真衡の養子・平成衡と源頼義の娘が婚礼する際
☆清原―族の重鎮・吉彦秀武が祝いに駆けつけた
☆砂金を積んだ大杯を掲げて庭先で待っていた
☆家衡は囲碁を打ち続けて相手にせず
☆怒った吉彦秀武は所領に帰る
☆これに怒った真衡は討伐の兵を挙げ、後三年合戦が始まった
⛳藤原千任、櫓の上から源義家を罵倒する
☆金沢柵は四方を断崖絶壁の山に囲まれ、堀を設けた強固な施設だった
☆源義家は、2万の兵で柵を囲み兵糧攻めに出る
☆金沢柵は四方を断崖絶壁の山に囲まれ、堀を設けた強固な施設だった
☆源義家は、2万の兵で柵を囲み兵糧攻めに出る
☆長期化する戦いの中で、清原家衡の守り役・藤原千任
*櫓の上に登り義家を罵倒した
⛳勝軍の将、源義家
☆東国に源氏の基盤を築いた源頼義の嫡男
☆石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎とも呼ばれている
☆学者に師事し、兵法を修めた
☆家衡の拠点の金沢柵へ向かう道中、
*雁の群れが列を乱して飛んでいるのに気ついた義家
*雁の群れが列を乱して飛んでいるのに気ついた義家
*「孫子」の兵法を思い出し伏兵の存在を察知
*これを撃退したという
(敬称略)
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⛳出典『日本の合戦』
古代~中世の戦乱4(前九年・後三年合戦)
(『日本の合戦』記事より画像引用)