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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『往来物』『金々先生栄花夢』『恋川春町』『黄表紙』

2025年03月20日 | 歴史上の人物
🌸蔦重が版元へと出世2

蔦重、手習いの教科書「往来物」で安定利益を確保
 ☆蔦重は「往来物」も手掛けるようになった
 *「往来物」とは手習いに使用される「教科書」にあたるもの
 *日本が世界一の識字率を誇れたのは
 *手習所が多数開かれていたからで
 *子供たちの教科書で用いられる往来物の需要は年々増すばかりだった
 ☆商売上手な蔦重、往来物の出版を手掛けた
 *薄利多売ではあったが毎年確実に売れた
 *又長く増刷されたので安定した利益が得られた
 *往来物は地味だったが、確実に売れる本だった

⛳蔦重、狂歌を詠み捨てるだけではもったいない考えた
 ☆蔦重は、狂歌師「蔦唐丸」として吉原連で活動していた
 *蔦唐丸は当時の狂歌界にとって重宝な男だった
 *吉原連は妓楼のメンバーで構成されており
 *蔦店丸はその吉原でのネツトワークを駆使して
 *狂歌師たちが狂歌を詠み合う場のお膳立てをしたからだ
 ☆狂歌を出汁にして楽しく集うことが「連」最大の目的であった
 *狂歌は、二義的なものとみなされ
 *詠み捨てにするのが常だった
 *目の前で詠み捨てられていく狂歌を見て
 *蔦重はあまりに勿体ないと思うようになってきた
 ☆吉原で繰り広げられていた吉原連
 *才能ある文人墨客が吉原に日夜集っていた
 *狂歌連の集まりは一種のサロンであり
 *そこから江戸の文化が続々と生まれた
 ☆蔦重は歌の才能は確かになかったが
 *気配り上手で、狂歌会の手配はもちろんのこと
 *終わったあとの打ち上げの手配も万全だった
 *江戸っ子らしく粋で鮨背な色男だから、とにかくモテた
 *吉原の遊女たちは蔦重にメロメロさ

『金々先生栄花夢』で恋川春町が「黄表紙」を確立した
 ☆刊行された『金々先生栄花夢』の出現によって
 *赤本以来続いてきた子供向け草双紙の性格が一変する
 ☆『金々先生栄花夢』の作者、恋川春町
 *鳥山石燕門下の浮世絵師で、狂歌を詠み、物語も作った
 *絵師・狂歌師・戯作者の3つの顔を持つ才能の持ち主だった
 ☆春町はこの『金々先生栄花夢』一作で
 *子供向けだつた草双紙を大人も読みうる戯作文学に引き上げ
 *新しいジャンル、「黄表紙」を確立した
 ☆『金々先生栄花夢』
 *蔦重ではなく、鱗形屋孫兵衛によって刊行されている
                         (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』





『往来物』『金々先生栄花夢』『恋川春町』『黄表紙』
(ネットより画像引用)
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『大夫・花魁床入り』『150両』『花魁道中』『引手茶屋』

2025年03月17日 | 歴史上の人物
🌸大夫・花魁との「床入り」費用

 ☆遊女や奉公人の生活の場である妓楼3つあった
 *高級店「大見世」、中級店「中見世」、下級店「小見世」
 *吉原の妓楼は二百軒を超えるほどあった
 *大見世の妓楼は、わずか六、七軒
 *大見世にいる最高級遊女の名称「太夫」
 *もともとは能役者の第一人者を呼ぶものだった
 ☆太夫の相手は大名クラスの武士か大金持ちの町人
 *彼らは直接遊女を買うのをはばかり「揚屋」に行き
 *そこに太夫ご一行を呼んで揚屋遊びをした
 *ご一行のメンバーは、禿等大人数だった
 *ご一行がさんざん飲み食いしたあとに
 * 一緒に妓楼に向かうという手はずになっていた
 *費用はすべて客持ち、「ご祝儀」も必要だった
 ☆太夫と初めて遊ぶことを「初会」(20両)
 *二度目に同じ相手と遊ぶのを「裏を返す」(30両)
 *三.度目以上を「馴染み」で、念願の床入れ
 *三回全部合わせて、百五十両(約千五百万円)の出費だ

 ☆客が途中で大夫に嫌われたらオシマイ
 *床入りどころか二度と会うことはかなわなかった

「大見世」の大夫とばかり遊んでいたら破産する
 ☆「中見世」「小見世」の遊女と遊ぶようになる
 *太夫の下には「格子、端」と呼ばれる遊女がいた
 *次第に「散茶、埋め茶」などと呼び、細分化していった
 ☆ランクは、揚代の値段の差で分けられた
 *最下級の遊女を二朱女郎(揚代が二朱・現代の約一万三千円)

⛳羨望の眼差しを一身に受けた、花魁道中はまるでパレード
 ☆妓楼のほうでも、太夫養成のために大金をかけた
 *太夫は妓楼の主人の娘のように大切にされた
 *茶道・花道・書道の三道はもちろん、香や和歌を学ばせた
 *容姿端麗、知性教養溢れた超一流の女性として育て上げた
 *太夫になれるほどの逸材はそうそういるものじゃない
 *千人に一人といわれたくらいだった
 *蔦重の時代太夫はいなくなり
 *高級な遊女の通称を「花魁」といった
 ☆花魁と遊ぶには
 *客が引手茶屋のお座敷で花魁を指名して待ち
 *指名を受けた花魁が妓楼から茶屋まで出向いていく
 *花魁が客に会うため
 *若い衆の先導で振袖新造や禿を引き連れて
 *引手茶屋に出かける様子を「花魁道中」といった
 ☆花魁を指名した客はほかの男たちから
 *羨望の眼差しで見られて優越感を得ることができた
 *花魁のほうも次なるお金持ちの上客に自分を売り込める
 ☆庶民にとって花魁は高嶺の花
 *憧れの存在であり、 一種のアイドルと化して
 *時代の流行を方右するファッションリーダーとなった
 ☆引手茶屋に寄ってお金を落としてから
 *花魁と遊ぶのが、粋で通な最上の客
 *引手茶屋を通さず直接見世に行って登楼する客
 *「床急ぎ」と呼ばれ、半可通な客
 *格子越しに遊女を見て回るだけで登楼しない、野暮もいいところだ
 *ウインドーショッピングだけの客は遊女から軽蔑された
                       (敬称略)
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『大夫・花魁床入り』『150両』『花魁道中』『引手茶屋』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より記事画像引用)
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『ありんす国』『吉原浮気禁止』『玉菊燈籠』

2025年03月16日 | 歴史上の人物
🌸幕府公認の遊郭吉原

「ありんす国」の遊女は、男たちに夢を売る
 ☆吉原遊郭全盛の時代に、その地をホームとして生まれ育った蔦重
 *吉原への格別の思い入れがあった
 *吉原は、非日常の空間の「別世界」を提供を詠んだ川柳
 『日本からありんす国は遠からず』
 *「ありんす」とは、「あります」という意味
 *吉原遊郭で使われていた独特の言葉
 ☆吉原遊女は、夢の世界に住む垢抜けた存在を演出するために
 *「ありんす言葉」を用いるようになった
 *「ありんす国」の遊女たちは洗練された教養と磨き上げた芸事で
 *遠くて近い日本から来たお客様を「おもてなし」した
 ☆蔦重はそうした遊女たちと幼い頃から日々接しながら
 *いつかその文化や芸術、ファッションに至る最新の流行を
 *自分の手で発信したいという夢を抱いた
 ☆吉原に通う男たち
 *「粋」や「通」の趣味人の美意識が求められた
 *それを持たない客は「半可通」として嫌われた
 *遊女たちにフラれることも多々あった
 *粋で通な男になって吉原で遊ぶことこそ男子の本懐

⛳意外な掟「一度馴染みになったら浮気は禁止」
 ☆吉原では、 一人の遊女と馴染みになると浮気は禁止の掟があった
 *遊女とお客は仮初とはいえ夫婦なんだから当然
 *万が一にも別の遊女のところに登楼したら
 *狭い吉原のこと、その晩にバレる
 ☆「浮気男」は、朝出てくるところを捕らえられ髯を坊り落とされた
 *「ごめんろくめんゆるしちください」と謝っても後の祭
 *「髪切り丸」という名のハサミで話をチョキンと切られる
 *髯を切られるのは武士・町人を問わず不名誉なこと
 ☆妓楼側としても
 *お客の取り合いで遊女同士が反目したリトラブったりしたら
 *あとあと面倒だってこともあり
 *「浮気は禁止」を掲げざるを得なかった

⛳「浅草寺参詣⇒吉原見物」は江戸の定番観光コース

 ☆吉原は、浅草寺の裏手の畑の中に造られた人工の街
 *唯一の出入り口である大門をくぐるともう夢の別天地
 *3月になると、桜を植えて桜並木にした
 *満開の花見を楽しんだあとは、惜しげもなく撤去した
 *特に夜桜は幻想的な美しさだった
 *旧暦六月晦日から七月晦日までの一カ月の間
 *茶屋ごとに美しい燈籠を飾る「玉菊燈籠」が開催された
 ☆吉原は、季節ごとに贅沢に非日常を演出した
 *それらを見に、わざわざ地方から江戸を訪れる人がいた
 *浅草寺を参詣したあと吉原見物をするのが、定番の観光コースだった
 *吉原は虚構のエンタメ空間
 ☆蔦重は、吉原のその美しさと儚さを
 *書物や浮世絵を通じて世に出すプロデューサーとして
 *使命を感じ始めていた
                         (敬称略)
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⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』






『ありんす国』『吉原浮気禁止』『玉菊燈籠』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より画像引用)
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『吉原細見(吉原情報誌)』『千石夫』

2025年03月14日 | 歴史上の人物
🌸吉原のガイドブック「吉原細見」がヒット

⛳鱗形屋の「吉原細見」の卸と小売りでスピード出世
 ☆江戸版元のなかで、目立った展開をしのが地本問屋「鱗形屋」
 *有名な菱川師宣の挿絵入りの絵本を出して売れた
 *三代目孫兵衛になると、幅広いジャンルの本を出版して
 *江戸を代表する老舗にのし上がっていた
 ☆その頃、貸本業を始めていた蔦重
 *地元っ子だったうえに、お得意先を回るうちに
 *吉原の遊女や妓楼、茶屋で働く人々と親密な関係を築き
 *吉原内に幅広い情報ネットワークを持つようになっていた
 *鱗形屋が、吉原内の本の販売は蔦重に任せたほうがいいと判断した
 ☆鱗形屋孫兵衛版「吉原細見」の卸と小売りを開業する権利を得た蔦重
 *その一年吉原大門前の五十間道で開業した書店で
 *鱗形屋の「吉原細見」の卸と小売業を始めた

行った気になって楽しめるガイドブック「吉原細見」
 ☆蔦重が売った「吉原細見」とは「遊女の名鑑」
 *吉原で遊ぶためのガイドブック(情報誌)だった
 *幕府によって公認された江戸で唯一の遊郭「吉原」は
 *「吉原細見」によって事細かく紹介されていた
 *超便利なガイドブックだった
 ☆吉原で憧れの花魁と遊ぶのは(金が足りねえから)夢のまた夢
 *せめて「吉原細見」を手に入れて読み
 *行った気になって楽しもうじゃねえか
 *庶民としては実はそれくらいが精いっぱいだった

 ☆いくつもの版元が競って吉原情報誌出版していたが
 *淘汰されていき、「吉原細見」を出すのは鱗形屋孫兵衛だけとなった
 *つまり、蔦重が商売を開始した頃には
 *「吉原細見」は鱗形屋の独占販売になっていたわけだ
 *吉原内に幅広い情報ネットワークを持っていた蔦重は
 *遊女の動向や廓内の情報を取りまとめ
 *その最新データを改訂版の「吉原細見」に盛り込む役割を果たす
 ☆蔦重は、鱗形屋版「吉原細見」の卸と小売りを開業する権利を得た
 *廓内における貸本業や狂歌仲間との交流のなかで
 *培われた情報収集力を買われた

⛳幕府公認の遊郭吉原はこうして生まれた
 ☆吉原の起源は江戸幕府以前
 *豊臣秀吉が天下を治めていた時代にさかのぼる
 *秀吉時代の江戸は遊郭どころか未開の地だったから
 *遊郭が存在したのは当時すでに栄えていた大坂や京都
 *徳川家康の隠居地である駿府城下だった
 ☆幕府を開いた家康は、猛烈な勢いで都市づくりを始め
 *諸藩に「千石夫」を命じて労働者を江戸に派遣させた
 *江戸の市中は男だらけつてな感じだった
 *一万人ほどしか住んでいなかった江戸へ
 *その何倍もの単身労働者が流入してきた
 *若い男性たちの娯楽などを満たすことも急務となった
 ☆大名の石高千石あたり一人
 *若い人夫を江戸へ派遣させることを命じた制度
 *諸大名たちの経済力を削ぎ、謀反を起こすのを防ぐ目的もあった
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『蔦屋貸本業の行商』『地本』『鱗形屋』『二八蕎麦』

2025年03月13日 | 歴史上の人物
🌸江戸で読書ブーム2

⛳蔦重の「貸本屋」も大ブレイク
 ☆田沼時代、経済が活性化して江戸の町はアゲアゲムード一色
 *蔦重をはじめとした「吉原連」の連中
 *狂歌のブームに乗ってブイブイ言わせていた頃
 *江戸でもう一つの「本」ブームが起きていた
 *庶民の間で、読書の一大ブームが起きていた

 ☆庶民に本が読まれるようになったのは、江戸時代中期以降
 *そこで子供向けの絵本や怪奇物・滑稽本など
 *庶民が楽しめるエンタメ本がたくさん出版されるようになった
 ☆蔦重が二十歳になる頃には、江戸の出版点数が上方を上回る
 *バブリーな田沼時代を迎えてその勢いは増すばかりだった
 *若き蔦重は、そんな出版業界に目をつけた

⛳娯楽用「地本」が江戸出版界を盛り上げる
 ☆17世紀迄の、江戸時代の出版業界
 *江戸には上方資本で設立された本屋か
 *上方の本屋の出先しかなかった
 *京都で出版された「下り本」を江戸で売っていた
 ☆蔦重が活躍した18世紀後半
 *江戸が京都を圧倒してダブルスコアの出版点数となり
 *それ以降、差は開くばかり
 ☆江戸時代の本屋兼出版社、2種類に分けることができる
 ①漢学書・仏書・神書・歌書・医学書などのお堅い内容の本
 ➁絵入りの読み物である「草双紙」や「浄瑠璃本」
 *錦絵など娯楽的要素の強い通俗本を扱う「地本問屋」
 ☆当初印刷は「板木」で行っていたので「板元」と称していた
 *のちに「板」を使わなくなって「版元」に変わった
 ☆「享保の改革」の時代
 *幕府は書物問屋に同業者組合である「問屋仲間」を結成させた
 *書物の内容に目を光らせるなど、出版の統制を図った
 *一方、地本問屋に関しては野放しだったため
 *大衆向けの地本の出版は盛んになった
 ☆江戸の地本問屋として有名なのは
 *京都の鶴屋喜右衛門という人物と
 *江戸の出版界のサラブレツド、鱗形屋孫兵衛
 *蔦重はこの「鱗形屋」の系列に入り
 *本の企画や販売を請け負い、出版業界に参入していく

⛳弱冠20歳の蔦重、貸本を背負って行商へ
 ☆蔦重の時代、「版元」になるには印刷物を制作するために不可欠な
 *「版(板木)」を持っていなければならなかった
 *「版」持つ株仲間という同業者組織に加盟が必要だった
 *駆け出しの商売人蔦重にはハードルが高かった
 ☆蔦重が始めたのは、貸本業だった
 *本はまだまだ高価で、庶民にはおいそれと買えるものじゃなかった
 *本の値段は「二八蕎麦」の値段の何十倍もした
 *とてもじゃないが庶民には買えなかった
 ☆20歳の蔦重は、本を本箱に入れ、それを背負って行商に出かけた
 *お得意先に貸本をセールスしに行くわけだが
 *顧客のニーズに合わせた本を提供できないと商売はあがったり
 *吉原生まれ吉原育ちの蔦重のこと
 *地縁血縁を生かして遊女たちを中心に本をレンタルして儲けていた
 ☆極狭の裏長屋に家族全員が暮らしていた庶民
 *火事のリスクが高かったこともあって
 *多くのものをレンタルして暮らしていた

⛳「二八蕎麦」の名前の由来
 ☆現在の昔麦屋で「二八蕎麦」といえば
 *「ソバ粉八割、小麦粉二割」の配合率だと思われている
 ☆「二八」の語源
 *「ソバ粉と小麦粉の配合率説」と
 *「二×八で十六文の値段説」の二つの説がある
 ☆蕎麦が食べられるようになったのは江戸時代初期
 *その頃の蕎麦は六~八文程度
 *江戸も中~後期、物価も上がって蕎麦一杯の値段が十六文になった
 *その頃、値段により「二七蕎麦」(十四文)や「二六蕎麦」(十二文)と
 *書と書かれて蕎麦屋の看板があった
 ☆どちらの説が正しいかは別として
 *言葉の響きが「粋」だと感じた江戸っ子が付けたのが
 *「二八蕎麦」というネーミングだった
 *値段も十六文(約四百円)なので、気軽に食べられた
 ☆蔦重の生きた時代の一両を便宜上十万円と換算する
 * 一両=四分=十六朱=四千文、 一文は約二十五円)
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『意次の重商主義政策・拝金主義』『神様、仏様、田沼様』

2025年03月12日 | 歴史上の人物
🌸蔦屋重三郎、吉原に誕生す4

⛳田沼意次の「大奥プレゼント大作戦」
 ☆意次の辣腕ぶりは凄かった
 *身分の低かった意次、将軍・老中にさえ会うチャンスがなかった
 *意次は、まず大奥の女中たちにブレゼント攻撃を仕掛け
 *次に将軍の側室へとつないでもらって
 *将軍と接見できるところまでこぎつける
 ☆意次はイケメンだった
 *一度会えば大奥の女性たちはメロメロだったらしい
 *プレゼント攻撃のために、意次は全財産をつぎ込んだ
 ☆作戦が成功し、老中に昇り詰めた意次
 *将軍家治は「もう、ぜ~んぶ意次に任せる」と言って
 *趣味の将棋に没頭する日々を過ごした

⛳意次「重商主義政策」で江戸の財政を立て直す
 ☆意次は老中として、将軍に成り代わって幕政改革を行う
 *八代将軍吉宗の行った「享保の改革」では
 *財政難は解決しなかったどころか
 *九代家重、十代家治と進むにつれて財政赤字は膨らむ
 ☆意次は、幕藩体制の基盤「米本位制(石高制)」を見直し
 *商業を重んじて貨幣経済中心の国づくりを推し進める政策
 *いわゆる「重商主義政策」を取った
 ☆意次は、賄賂政治家と呼ばれることもあるが
 *意次は幕府の財政再建のため、江戸城に泊まり込んで仕事をした
 *仕事に関してはハードワーカーだった
 ☆田沼政治の主な柱
 ①経済政策、②社会政策、③文化政策、④対外政策等
 *意次は徹底したリアリストで、武士には珍しく商売に明るく
 *お金を儲けることに対する嫌悪感を持たなかった

⛳意次の「拝金主義」が江戸文化を花開かせた
 ☆意次のやったことのなかで重要だったのは、「通貨の統一」

 *江戸を中心とした東日本、大坂を中心とした西日本
 *「金」と「銀」という異なる価値体系の通貨が流通し
 *しかも金貨が一枚、二枚と数える「計数貨幣」であったのに対し
 *銀貨は重さを量って使う「研量貨幣」で、簡単には交換できなかった
 ☆意次は、計数貨幣の良質な銀貨を作り
 *交換できることにして、全国の貨幣を統一した
 ☆商人重視の政策を取った意次に対して
 *旗本や大名などの反発が強まり
 *意次の政策は挫折させられてしまう
 *意次は、気持ちイイくらいの拝金主義だった
 *意次に「賄賂政治家」のレツテルが貼られるのは無理はない
 *敵が多いのも頷ける
 ☆意次の重商主義政策で貨幣経済が発展し、江戸の町は豊かになった
 *人口も百万人を超え、同時代のパリやロンドンの3倍以上
 *江戸は世界最大の都市として栄えた
 ☆空前の狂歌ブームに端を発した出版業界の隆盛をはじめ
 *歌舞伎や浮世絵などの江戸文化が花開いたわけで
 *蔦重にとっては「神様、仏様、田沼様」だった
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『表長屋・裏長屋』『田沼意次バブリー政策』『田沼意次大出世』

2025年03月11日 | 歴史上の人物
🌸蔦屋重三郎、吉原に誕生す3

「表長屋」と「裏長屋」とは
 ☆「長屋」といっても「表長屋」(表店)と「裏長屋」の二つがあった
 ☆表通りに面している「表長屋」は二階建
 *一階が見世(店舗)、二階が住居として使われた
 *ちょっとお金持ちの住む所
 ☆表長屋の間に小さな木戸があり
 *そこを抜けて細い路地を進むと、裏長屋が軒を連ねていた
 *多くの町人が暮らすビンボーな「裏長屋」の世界だ
 *共用の井戸や厠、洗濯物を干すスペースのある中庭のような空間
 *裏長屋は一軒あたり六畳一間分の空間にすぎず
 *入り口に土間や台所がある分を差し引くと
 *実質的に居間兼寝室として使える空間はわずか四畳半にすぎない
 *夫婦や親子で暮らすとなれば、プライバシーなどあったもんじゃない
 ☆木戸は「長屋木戸」と呼ばれ、防犯のために設置されていた
 *長屋の大家や長屋の住人が午前六時頃に開け、午後十時頃)に開めた

⛳「田沼意次のバブリー政策」なくして蔦重なし
 ☆蔦重が青春を過ごした時期は、「田沼時代」とバッチリ重なっていた
 *この時代は賄賂政治が横行した時代として批判されることが多い
 ☆度を越した賄賂ぶりを表すエピソードも伝わっている
 *意次の家に「京人形一体」と書かれた大きな木箱が贈られてきた
 *開けてみると、中から本物の祗園の舞妓が
 *「おめでとうさんどす~」と出てきた
 *都市伝説の一つにすぎないが、いかにもありそうだからコワイ

⛳田沼意次、家禄六百石から老中へとスーパー大出世
 ☆意次の父は、紀州藩の足軽にすぎなかったが
 *藩主の徳川吉宗が八代将軍になると
 *それに付き従って江戸に入り
 *旗本として登用されるという出世を果たした
 ☆江戸本郷で生まれた意次
 *十七歳のときに父が亡くなると嫡男として家禄を継いだ
 *まだそのときの家禄は六百石にすぎなかった
 ☆その後の意次の出世ぶりは目覚ましい
 *三十代の若さで将軍側近として仕える御側御用取次に任じられた
 ☆意次が四十歳のとき、さらなる出世につながる出来事が起きた
 *意次は、大規模な百姓一揆を見事に解決した

 ☆家重の特命で評定所の審議に出席した意次
 *農民側の首謀者たちを「獄門」に処す一方
 *藩主を改易し、藩主の意向を受けて農民を抑えつけようとした
 *老中や若年寄など、幕府の重職たちまで罷免するという
 *前代未間の厳しい処置を言い渡し、その辣腕ぶりを発揮した
 ☆公平な裁きは幕府内でも高く評価され
 *将軍の家重も意次に信頼を寄せて重用するようになり
 *息子の家治にも意次を重用するようにと遺言した。
 *家治が十代目の将軍になると
 *意次は側近として最高職の側用人に任じられた
 *築城を許されて二万石の城持ち大名となった意次
 (スタート時から比べると禄高は100倍になった)
 *老中格、そしてついに老中へとスーパー大出世を果たした
                         (敬称略)
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『表長屋・裏長屋』『田沼意次バブリー政策』『田沼意次大出世』
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『蔦屋重三郎、吉原に誕生』『狂歌』『田沼意次』『山東京伝』

2025年03月09日 | 歴史上の人物
🌸蔦屋重三郎、吉原に誕生す1

蔦屋重二郎、流星の如く吉原に誕生
 ☆1750年蔦屋重三郎は江戸吉原で生まれた
 *父のは尾張、母のは江戸の人だった
 *父は、尾張から江戸へ出てきて津与と出会い、結ばれた
 *一説に、父は遊郭で働いていた人、母は元遊女ともいわれている
 (推測の域を出ない)
 ☆当時の吉原は、幕府公認の遊郭として栄えに栄えていた
 *仕事はいくらでもあった
 *尾張から一旗揚げようと江戸へ出てきた商人はたくさんいた
 ☆重三郎は吉原で生まれ、吉原で幼少時代を過ごした
 *重三郎の「重」の字は、父の名の一字をもらったもの
 ☆父親にとって愛すべき子供だった
 *重三郎がまだ幼いうちに両親は離婚する
 *重三郎は喜多川氏に養子に出される
 *両親と離れた重二郎は、養子先でお金に困ることなく成長した
 *重二郎の養子先の喜多川氏は、吉原仲之町の引手茶屋
 *遊女を客に仲介する場所の蔦屋本家で「蔦屋」重三郎となった
 *彼は、吉原をホームグラウンドとして育つ

⛳蔦屋重三郎は、若い頃から「景気のいい時代」の真っただ中
 ☆蔦重が養子に入ってから十数年ほど経った頃、九代家重の時代
 *一揆が多発したり飢饉が起きたりして世情は不安定
 *家重は病気のため、言語不明瞭よく問き取れなかった
 *言葉を理解できるのは、側近として仕えていた大岡忠光くらい
 *家重は、忠光を「側用人」として重用した
 *側用人に取り立てられた忠光は
 *その地位を悪用するようなことなく
 *家重の信頼に応えて職務をよく果たした
 ☆忠光の遠い親戚にあたるのが
 *吉宗時代に江戸南町奉行を務めた名奉行「大岡越前守」大岡忠相だ
 ☆家重は息子の家治に「側用人を置くがよい、田沼意次を重用せよ」と
 *いう遺言を残した
 *この遺高がその後の日本の政治、経済、文化を大きく変えてた
 *世にいう「田沼時代」を出現させた
 ☆田沼意次が十代将軍家治の側用人となったのが1767年
 *蔦重が十八歳、オイラこと山東京伝は、まだ七歳の小僧っ子だ
 *田沼時代と呼ばれるバブリーな時代が始まる
 *二人とも若い頃から景気のいい時代の真っただ中にいて
 *それを肌で感じ取って育った江戸っ子だった

⛳和歌のパロデイー「狂歌」の大ブーム到来
 ☆田沼時代にはいろいろな改革が行われた
 *江戸っ子にとって最も身近で大きな出来事
 ☆狂歌の大ブーム、狂歌は、簡単に言えば和歌のパロディーだ
 *和歌のパロディーを作り、社会や政治を面白おかしく風刺した
 *狂歌会は、当初下級武士と町人、5人のささやかな集まりがスタート
 *そこには、のちに「狂歌三大家」と呼ばれるうちの
 *唐衣橘洲と四方赤良の二人が参加していた
                         (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』




『蔦屋重三郎、吉原に誕生』『狂歌』『田沼意次』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より画像引用)
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「壬申の乱」「近江朝廷」「律令国家」「大友皇子」「大海人皇子」

2024年06月03日 | 歴史上の人物
🌸天武天皇の鑑は聖徳太子1

⛳壬申の乱の遠因
 ☆壬申の乱、わが国の古代史における最大の内乱
 *結果として「日本」という国家の原型を生み出した
 *壬申の乱の理由、中大兄皇子(天智天皇)の近江遷都にあった
 *二百年の長きの飛鳥を捨てて、畿外の大津へ移ること
 *貴族と豪族や朝廷の官吏、庶民にも納得できる話ではなかった
 ☆官民双方の反対を押し切って、大津に造営された新京
 *壬申の乱における近江朝の敗北によって滅びた
 ☆宮廷歌人にも理解しかねた遷都の意図
 *老練の政治家藤原鎌足、反対しなかった
 *それは、仏教伝来のころにまで遡る

⛳近江朝廷は異国
 ☆蘇我氏と物部氏の二大豪族の対立と抗争
 *蘇我氏が、仏教の受容に賛成した
 *物部氏が反対して、激しい争いが生じた
 (鎌足は、物部氏側の先頭に立っていた)
 ☆仏教の受入れの思想的な対立ばかりでなく
 *二大豪族の根強い対抗意識が、互いの敵意を熾烈なものにした
 ☆崇仏派の蘇我氏の勝利となる争い
 *中臣勝海連は斬殺されたので、中臣氏の直系は、ここで断たれ
 ☆仏教の興隆に尽くした聖徳太子
 *在世中幼少期を鎌足で過ごしたが、蘇我氏の側について奔走した
 *神職の家系に生まれながら、太子は長男の定恵を出家させた
 *又、仏法を学ばせ唐へ留学させた

新政府の成立
 ☆唐制に倣って八省百官の制が定められて、律令国家の基礎が作られた
 *大化改新の設計図を書いたのは、鎌足であったろうが
 *そのもとになっていたのは、唐の政治体制であった
 ☆古代史上最大の政治改革の道を開いた鎌足
 *天智天皇か藤原の氏姓を賜った
 ☆何から何まで唐風の宮廷は
 *国内に忽然と出現した「異国」のようだった

⛳翼のある虎
 ☆大友皇子の著しい成長ぶりが目立つまでは
 *大皇弟として大海人皇子がずっと皇位継承者とされてきた
 ☆大海人皇子は皇位の継承を固辞して、皇位は皇后に譲り
 *太政大臣の大友皇子に諸政をお任せになりますようと歌を詠む
 *「臣は請願ふ、天皇の奉篤に、出家して修道せむ」
 ☆去り行く大海人皇子一行の後ろ姿を見て
 *ある人がいった、「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と
 ☆吉野に着き天智天皇崩御し大海人皇子は行動を起こした
 *大海人皇子に従ったのは、御后と草壁皇子、忍壁皇子
 *それに舎人二十人ほどと、女嬬十人あまり
 *伊賀国の山中で、この国の郡司たちが数百の軍勢を連れて従う
 *伊勢の鈴鹿で、伊勢の国司らが五百の軍勢とともに、 一行を出迎えた
 ☆大海人皇子は、伊勢神宮に鎮座する天照大御神を遥拝する
 *これは今回の戦の大義を宣明する儀式であった
                      (敬称略)
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⛳出典、『「古事記」の真実』



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「古事記安万侶編者でない」「天武天皇」「古事記の日本語文」

2024年06月01日 | 歴史上の人物
🌸日本語の父は天武天皇2

太安万侶は古事記の編者にあらず
 ☆太安万侶の実在を疑う考えもあった
 *奈良市で、銅板の墓誌と遺骨を偶然発見された
 *事実なら、安万侶が実在の人物の物証である
 ☆安万侶が撰録に着手したとき
 *文字化される以前の「原古事記」はほぼ完成されていた
 *太安万侶のまえに『古事記』の真の編者がいた
 ☆天武天皇と稗田阿礼こそが、古事記の「作者」である
 *太安万侶が果たした役割は
 *稗田阿礼が口誦する物語を、漢字で書き表すために
 *ありとあらゆる工夫を凝らしたことである

古事記の本文は古代の日本語文
 ☆安万侶の独創的な文字表記論
 *中国人の言語や思想を借りたものではなく
 *古代の日本語文になりきっている
 ☆安万侶は、これらの文体と表記を駆使して
 *『古事記』の『本文』を記定した
 ☆我国の上古には未だ文字がなく、漢字により初めて文字を知った
 *最初漢字を知り、漢文を書いたのは、帰化朝鮮人及びその子孫だった
 *元来朝鮮には、漢語及び漢文に朝鮮語を当てて読むことが行われていた
 ☆漢字は我国では早くからもはや外国の文字ではなくて
 *直接日本人に固有の観念を表すものとして使用されていた
 *かえり点は、平安朝以降、徐々に発達して来たものである
 ☆万葉仮名は、漢文に含まれた外国の地名を音訳することから生まれた
 *我国の地名や人名を写すことから起こった
 *その後その使用範囲は次第に拡張されていった
 ☆我国人の真情を吐露する手段として
 *漢語や漢文に束縛されない自由な表現が要求されるのは当然である
 *殊に国語の音の形を間違いなく写し出す
 *自然とその和歌の全文を万葉仮名で記すことが行なわれた
 ☆和歌は朝廷に於いても大いに重んぜられた
 *貴族階級の間には社交上の儀礼として和歌を贈答したり
 *宴席で和歌をよんだりすることが広く行なわれるようになった
 ☆みずから秀れた歌人である天武天皇
 *圧倒的な漢語文化の流入と影響に押されて
 *消え去ってしまうかもしれない運命にある古語と古歌を惜しみ
 *保存して後世に伝える方法はないものかと苦慮して
 *さまざまな方法を創案した
 *『古事記』が達成した卓抜な成果から考えて疑うことができない
                       (敬称略)
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「古事記」「稗田阿礼女性作家」「天武天皇」

2024年05月30日 | 歴史上の人物
🌸稗田阿礼は日本最初の女性作家3

超越神の登場
 ☆わが国の神話には、最初から天照大御神が主神として登場しない
 *現われるのは、その姿が人の目には見えないいわば超越神
 *目に見えない神神のあとに、人の姿となって現われるのが
 *伊邪那岐命と伊邪那美命の兄妹である
 *伊邪那岐命と伊邪那美命の第一子と第二子が、水蛭子であった
 ☆全篇を通じて、『古事記』が男性本位と男系継承を基本の原理としている  
 *それとは裏腹の女性原理が意外なかたちで、しばしば顔を出す
 ☆『古事記』の女性原理が、はっきり表に出てくるのは
 *天照大御神と須佐之男命のあいだで争われた「祈誓」の場面だ
 *自分の物実(物種)から生まれたのが、女ばかりであったのを理由に
 *須佐之男命はみずから勝利を宣言する
 *皇統は男系継承であるから、それは高天の原を奪おうとする
 *異心かなかったことの証拠にもなる

声は男で、心は女
 ☆天武天皇が稗田阿礼に期待したのは
 *テーブレコーダーの役割であったのだろう
 ☆阿礼自身は、むろんそうはおもっていない
 *神である天武天皇になり切ったつもりでいる
 *太安万侶にたいする阿礼の口誦は、男声であっただろう
 *崩御から25年の長きにわたり
 *脳裡で物語の推敲を繰り返した女性の感性と想像力
 *じわじわと全篇の行間に滲み出してきた
 ☆稗田阿礼が口にするのは
 *いまはなき帝の大御言に違いないのだから
 *だれも、異を唱えることは、だれもできないとの言葉
 *大安万侶は、愚直なまでに忠実な筆録

 ☆天武天皇と稗田阿礼と大安万侶
 *三者三様の群を抜いた個性と才能と努力の奇跡的な組合せで
 *わが国の文学史に比類のない傑作を生み出した

 ☆阿礼が果たした役割は、これまで考えられていた以上に大きい
 *稗田阿礼は日本最初の女性作家だったのだ
                      (敬称略)
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徳川慶喜家「墓・家じまい」

2023年10月19日 | 歴史上の人物
🌸徳川慶喜家、最後の当主が語る「家じまい」
 
 ☆「お宝も埋蔵金も、ありはしないのに…」
 ☆私のブログは、徳川慶喜さんを尊敬し『慶喜』にしています

将軍・徳川慶喜の玄孫、第5代当主山岸さん語る
 ☆山岸さん、第5代当主として「絶家」することを発表した
 ☆120年以上続く名家の「墓じまい」
 *谷中霊園に眠る慶喜家の墓所は300坪
 ☆4代目当主慶朝さんの遺言で、“家の問題”に取り組む山岸さん
 ☆慶朝さんの遺言で、山岸さんが徳川慶喜家の5代目に指名された
 *徳川姓でなく、女性の山岸さんが家督を継ぐ
 *慶喜家には存命中の親族が7人いるが、徳川姓の男子はいない
 *慶朝叔父は、養子を取って継がせなかった
 ☆山岸さん、慶朝叔父とは、看病を通じての信頼関係があり
 *山岸さんに、全部託すという遺言を遺した

山岸さんに心ない言葉を投げかける人も
 ☆ご親族をはじめ周囲の理解を得られなかった
 *徳川家と親藩松平家の一族の交流会である「葵交会(きこうかい)」
 *旧幕臣のご子孫による「柳営会」もあり、交流を続けられている
 ☆叔父慶朝は、ご親族とのお付き合いを煩わしく感じていた
 *自分の代で慶喜家を閉じる事も考えていたので、疎遠になっていた
 ☆山岸さんに対して
 *山岸は当主という名前が欲しいんだろうとか
 *遺産が欲しいからやってるんだろうなどと心ない言葉もあった
 ☆叔父慶朝さんの葬儀
 *「山岸美喜が喪主になるのはおかしい」などとも言われた
 *葬儀は質素なもので、参列者は10人ほどだった
 *それも慶朝叔父の遺言に従った
 *叔父の遺骨は、都営谷中霊園にある、慶喜家の墓所に埋葬した

歴代将軍とは別の墓所
 ☆慶喜家の墓所は、歴代将軍とは別の理由
 *15人の将軍のうち、家康公と慶喜だけが神道
 *2代~14代の各将軍は寺院管理
 (寛永寺、増上寺、輪王寺に分かれて埋葬されている)
 ☆慶喜は、家康公を大変尊敬し神道に改宗した
 *皇室にならい神式で葬儀を行なうように遺言を遺した
 ☆谷中墓地の中にあって、これまでずっと慶喜家が管理してきた

墓所は300坪! 墓じまいの手続き
 ☆墓所は300坪もあり、個人では管理できない
 *墓所を囲む塀の修繕が必要、2000万円とも言われている
 ☆寛永寺とは、宗教が違うので難しい
 ☆墓じまいを決めたのは慶朝叔父
 *しかるべき所に寄贈し現状維持で働きかけている最中
 ☆徳川慶喜の墓所
 *叔父慶朝さんがご存命中ご自分のお金で管理されていた

膨大な史料の行き先は?
 ☆慶喜家には、数千点の史料が残されている
 *徳川家の御紋と、双葉葵の刺繍がついたアルバムもある
 ☆慶朝叔父が亡くなるまで
 *千葉県松戸市の戸定歴史館に30年間預かって貰っていた
 ☆一昨年、預かっている慶喜家の史料
 *慶喜家に返すべきだという判断をしてくださった
 *まとめて研究などをしてくださる機関への寄贈を相談中
 ☆徳川姓でもない女性の私が電話で
 *慶喜家に伝わる史料が数千点ございまして
 *寄贈を検討しているのですがと、話を持ち掛けても
 *私が考えた通りの対応とはならず、困惑する事もありました

慶喜家の家じまいの解決の道筋
 ☆お墓に関しても史料に関しても、進めている最中
 ☆現在私が向き合っている慶喜家の家じまいの一連の作業
 *「家の歴史を日本の歴史にする作業」と呼んでいる
 ☆6代目の当主は指名しない
 *私が5代目当主として家を閉じることを決意した
 *慶朝叔父から託された思いを叶えるべく
 *徳川慶喜家の最後の当主を務めてゆくつもり
                     (敬称略)
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徳川慶喜家「墓・家じまい」
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石田三成(武に優れた家臣が命を賭け仕えた武将)

2023年07月01日 | 歴史上の人物
🌸石田三成(武に優れた家臣が命を賭け仕えた武将)

 ☆石田三成「清濁併せ香む」ことができず正論で周囲を怒らせた
 ☆武才が無い自身の欠点をわきまえ一騎当千の家臣を厚遇した


家臣は三成の卓越した発露知り慕う
 ☆石田三成は「曲がったこと」が気に障る人物だった
 *スルーできずに咎め立ててしまうタイプ
 *いわれた方は当然むかつく
 *「利口ぶりやがって、イヤミな野郎だぜ」と反感を買ってしまう
 ☆三成は、元来は聡明な人間である
 *優れた人はこうあるべきのイメージ豊富に持っている
 *部下を愛そう、他人に優しく、ケチはみっともないのを理解している
 ☆石田三成は、余計な言動を示し、周囲を怒らせる
 *「清濁併せ呑む」ができない、人の上に立つ器ではない
 ☆石田三成は、自身の欠点もよく弁えていた
 *加藤清正や福島正則に比べると、武の才能が無い
 (石田三成が自身それを自覚しているのが優秀さの証
 ☆石田三成は、戦場で輝くことのできる多くの家臣をスカウトした
 *石田家には著名な侍大将が多い
 *関ヶ原の戦で、石田隊は寡兵にも拘わらず良く戦った.
 *武に秀でた家臣たちが「殿のために」と命を投げ出し慕われていた


500石全てを勘兵衛に与えた
 ☆石田三成の家臣、島左近が有名になったのは
 *三成に高禄を支給されて仕えてから
 *三成は4万石を領していたが、半分2万石で左近を召し抱えた
 *三成は「石田家の武」を形成するために
 *中核に据えるべく左近を、破格の待遇でヘッド・ハントした
 ☆三成が武勇に秀でた侍を厚遇し雇用した家臣、渡辺勘兵衛
 *勘兵衛は三成の情熱に負けて、彼の家来になった
 ☆羽柴秀古が石田三成に尋ねた
 「あの豪傑をよく召し抱えられたのう。俸禄はどれほどか?」
 「はい、500石です」
 *ワシはおまえに500石しか与えてないぞ
 *全て勘兵衛に与えてしまって、おまえはどう生活している?
 ☆石田三成は答えた
 *勘兵衛の家に居候をし、生活費も出して貰っております
 ☆それを聞いた秀吉は大笑い

三成、家臣にわが命を賭けてと思わせた
 ☆石田三成は、その後出世していった
 *三成は、そのたび勘兵衛に加増の話を持ちかける
 *勘兵衛は、加増の必要は一切ありませんと断り続けた
 *関ヶ原の戦いで、勘兵衛は獅子奮迅の働きを示し傷ついて倒れた
 *陣中に運び込まれた瀕死の勘兵衛
 「拙者は殿にお仕えすることができて、本当に幸せでした」と
 (いい残して亡くなる)
 ☆石田三成は、剛毅な侍に
 *「この人ならばわが命を賭けて仕えるに足る」と
 *思わせる一面を持ち合わせていた
                       (敬称略)
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福島正則(武官の中の武官)

2023年04月27日 | 歴史上の人物
🌸福島正則(秀吉子飼いの出世頭)

 ☆武力で貢献した秀吉子飼いの出世頭、福島正則
 ☆秀吉没後は、家康を選択して会津征伐にも従軍した
 ☆福島正則、豊臣家が減びた後は、幕府に処断され領地を奪われた


福島正則、葬儀に秀頼の名代として出席
 ☆「正則=優秀な武将」と言われている
 *正則は、豊臣秀吉の血縁者

 *元々が農民の出で系図はつかえない
 ☆秀吉と血の繋がりがある武将
 *福島正則 、母は大政所の妹(秀吉と正則はいとこ)
 *加勝清正、 母は大政所といとこ (秀吉と清正はまたいとこ)
 *浅野長政 、妻同士が姉妹
 ☆秀吉の人事は能力重視
 *槍の働きよリ、デスクワークを重視していた
 *「血縁者」の出番は無いと思っていた
 *農民では教育を受けるチャンスがなく、デスクワークは苦手
 ☆秀吉の葬儀に於いて、福島正則が秀頼の名代として出席している
 *正則は、秀吉の従弟と考えて良いので
 *秀頼とも血の繋がりがあるから名代を務めた
 ☆秀吉の朝鮮出兵を見据えて
 *清正、行長が、軍事的才能で、
正則よりも上と、秀吉は評価していた

福島正則は、織田家本来の所領を与えられた
 ☆1595年は、秀吉子飼いの武将たち領地を加増された
 *浅野長政、甲斐国主20万石余り
 *石田三成 近江・佐和山20万石余り
 *増田長盛 大和・郡山20万石余り
 *福島正則は尾張・清洲24万石余り
 ☆秀吉の子飼い武将の、領地による序列は定まった
 *領地の価値は京都・大坂に近い方が上ですの
 *文官の双壁が石田三成と増田長盛
 *浅野は大きな所領を獲得したが甲斐にとばさた
 ☆朝鮮の戦場で活躍する武官として
 *加藤清正、小西行長が肥後半国ずつ、20万石余り
 ☆福島正則は、武官の中の武官の評価
 *場所は秀吉の生まれ故郷で、織国家の本来の所領
 *正則こそは秀吉子飼いの出世頭
 ☆秀吉には、血縁だから取りたてる、甘さは持っていなかった
 *福島正則は、武力での貢献を認められるかたちで
 *子飼い随一の地位を築いた
 ☆秀吉は大名同士が勝手な縁組みをするのを禁じていた
 *勢力を広げたい徳川家康
 *真っ先に縁みを申し入れたのが正則でした
 *弟の娘を養女として福島家に送っている

関ヶ原の本戦では「一番槍」を
 ☆正則も、生き残りをかけて家康を選択した
 *自身が豊臣の血縁であることを意識し
 *他者に先んじて家康に近づき
 *家康の会津征伐にも積極的に従軍した
 ☆正則が関ヶ原の本戦に於いて、「一番槍」にこだわったのも
 *自分の立ち位置を確保したかったから
 ☆大坂の陣で豊臣家が減びた後
 *正則は罠に嵌められたようなかたちで領地を奪われた
 *他に例を見ない、あからさまな幕府の処断だった
 *それが福島正則の、遁れがたい運命だったのでしょう
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世界の偉人(ハリエット・タブマン)

2022年11月29日 | 歴史上の人物
🌸世界の偉人(ハリエット・タブマン)

 ☆アメリカ合衆国元黒人奴隷、奴隷解放運動家、女性解放運動家
 ☆タブマン、黒人の逃亡奴隷をひそかに領外に逃がす
 ☆秘密結社「地下鉄道」の指導者のひとりとして知られている
 ☆20ドル札のデザインにアフリカ系アメリカ人として初めて採用され

タブマン出生から活動を始めるまで
 ☆メリーランド州で、黒人奴隷である両親から生まれた
 ☆5歳からメイド兼子守りとして働きはじめた
 ☆黒人ジョン・タブマンと結婚
 ☆長年の奴隷生活に堪え、奴隷監督の殴打などの虐待に耐えた
 ☆逃亡奴隷の懸賞金に関する公告に弟の名前がある

タブマン、奴隷解放運動から南北戦争への従軍
 ☆アメリカで機能した「地下鉄道」の経路図
 *黒人奴隷を自由州やカナダに逃がす秘密の脱出ルート
 *安全な隠れ家を結ぶネットワークが築かれた
 *「車掌」と呼ばれた引率者が逃亡奴隷を運んだ
 ☆タブマンは、「地下鉄道」に加わる
 *地下鉄道の「車掌」としてその運行をはじめた
 ☆タブマンの後述の自叙伝によれば
 *300人余りの奴隷の「乗客」だれも捕まることなく自由に導いた
 *タブマン自身も一度も捕まらず「車掌」として成功をおさめた
 *その活動のリーダー的な存在になった
 ☆タブマンに掛けられた賞金額は合計4万ドルを超えた

タブマン権利活動家として活躍
 ☆南北戦争が終わり、南部での奴隷解放の後
 *黒人と女性の権利のために活動家として活躍した
 ☆黒人の退役軍人ネルソン・デービスと再婚した
 ☆タブマンは「タブマン将軍」と呼ばれ
 *「この大陸でもっとも勇敢な人物」と賛辞された
 ☆タブマンは、肺炎で93歳死亡した
                     (敬称略)                                     
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