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慶喜

心意気
「明日迄の命の気持ちで、人生を!」
「不老不死の気持ちで、知識の習得を!」

『フランス渡航』『大蔵省への出仕』『日本資本主義の父』

2025年07月01日 | 有名人
🌸渋沢栄一小伝2

栄一のフランス渡航
 ☆パリでフランスの威信をかけた万国博覧会が開かれようとしていた
 *フランス皇帝は、日本からも将軍家を招待したいとの意向を示した
 *そこで名代として白羽の矢が立てられたのが
 *慶喜の弟にあたる徳川昭武だった
 *頭の柔らかい栄一にも
 *随行の一員として声がかかった
 ☆一行の総勢は29名
 *船にてパリヘと向かい、国賓待遇で万博を見学した
 *栄一は、パリはもちろんヨーロッパ各国に見聞の足を伸ばしていった
 ☆ヨーロッパでの1年ほどの経験
 *後の栄一の針路に大きな影響を与えていく
 *栄一はヨーロッパの繁栄を形作っていた資本主義のシステムに
 *大きな感銘を受けた
 ☆身分制度の固定化されていた日本と違ってヨーロッパでは
 *商人と軍人とが対等に接している姿にも、栄一は驚いた
 *ベルギーを訪れたさいには、製鉄所の見学をした
 ☆経済力向上のためには
 *商人の地位を向上させることも必須と栄一は感じ取った
 *この渡航は途中で打ち切りを余儀なくされる
 *日本で徳川慶喜が大政奉還を行ったのだ
 *このため政権が明治新政府へと移行し
 *後ろ盾を失った一行は帰国せざるを得なくなる
 
⛳栄一大蔵省への出仕
 ☆栄一は、断りを入れようとした
 *それを説得したのが、大隈重信だった
 ☆重信は説得上手といわれていたが
 *栄一をその気にさせることに成功し
 *彼を明治の新しい国づくリヘと参画させた
 ☆栄一が大蔵省で仕事を始めた
 *持ち前の事務能力の高さと、壮年期の充実した体力を活かして
 *栄一は目覚ましい仕事ぶりを発揮していった
 *しかし彼は次第に、大蔵省での境遇に不満を募らせていく
 *実務のうえでネックとなったのが、大久保利通との対立
 ☆当時の政府を取り仕切っていた利通は
 *今は新しい国づくりをしている時期なので
 *当然出費は増えぎるを得ないという立場をとっていた
 *財政のバランスは後でとればよいと考えていたのだ
 ☆栄一や上司だった井上馨
 *財政を任された立場である以上
 *財政規律を欠いた支出には賛同できず、真っ向からぶつかった
 *陽性の栄一と陰性の利通とでは
 *性格面でもソリが合わなかった
 ☆政府における藩閥体制の問題もあった
 *旧弊な徳川封建体制を打破したはずの明治政府も
 *薩長などの出身者が重用されて
 *とても風通しがょいとはいえない面があった
 *特に旧幕臣であった栄一にとって、大きなネックになっていた

日本資本主義の父
 ☆彼は大蔵省を辞めて実業界へ踏み出す決心をする
 *第一国立銀行の頭取となって、以後の活躍の礎を築いていった
 *第一国立銀行の理念が、その「株主布告」のなかに端的に描かれている
 ☆実業人として活動のなかで、大きなトピックとなったのが
 *三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎との屋形船会合事件に外ならない
 *岩崎弥太郎から栄一は向島の料亭に招待された
 *そこで弥太郎が切り出してきたのは、 強者連合の誘いだった
 *岩崎の話をだんだん聞いて見ると
 *彼と栄一で大きな富を独占しようという結論になる
 *栄一の考えは正反対だ
 *栄一は自分一人が金もうけをする気は毛頭ない
 *栄一は腹を立てて、その席にいた馴染の芸者といっしょに姿を消した
 ☆後に栄一は述べている
 *わたしがもし一身一家の富を積もうと考えたら
 *三井や岩崎にも負けなかったろう、これは負け惜しみではない
 ☆栄一が欲得に目がくらみ
 *三菱(岩崎家)、三井(三井家)、住友(住友家)の財閥の様に
 *結託する選択をしていたなら、後の日本の資本主義は
 *今とは形の違うものになっていた可能性が高い
 ☆栄一の揺るがぬ信念があったからこそ
 *現代のわれわれはその果実の恩恵に浴し
 *世界有数の経済大国の地位を享受している面がある
                     (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『論語と算盤』




『フランス渡航』『大蔵省への出仕』『日本資本主義の父』
(ネットより画像引用)
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『尊王攘夷の志士』『一橋家の家来』『幕臣としてフランスへ』

2025年06月30日 | 有名人
🌸渋沢栄一小伝1

渋沢栄一時代の寵児
 ☆渋沢栄一は自分の人生を振り返って、
 *脱皮と活動休止期を5度も繰り返している
 ☆具体的には、
 ①尊王攘夷の志士として活躍した時期
 ➁一橋家の家来となった時期
 ③幕臣としてフランスに渡った時期
 ④明治政府の官僚となった時期
 ⑤実業人となった時期

 ☆異なる5つのステージを駆け抜けていったのが、彼の人生だった
 *しかもいずれの時期の活動も当時の
 *「尊王攘夷」「文明開化」「明治維新」「殖産興業」時代の潮流だ
 ☆栄一は幕末維新の落し子にして
 *近代日本の産婆役に外ならなかった

⛳渋沢栄一の履歴
 ☆埼玉県深谷市に生まれ、実家は農業や養蚕手掛ける豪農だった
 ☆6歳から『蒙求』や『論語』などを教科書とした手習いを始める
 *学問を楽しみ、読書にのめり込んでいた栄一
 *神道無念流を学び、剣術も身につけていった
 *読書や剣術、習字などの稽古に明け暮れていた栄一だった
 ☆15歳のとき、父から農業や商売にも身を入れくれとの話があった
 *栄一はそこから畑仕事や藍業の仕入れに身を入れるようになる
 ☆彼が17歳の時、父の代理人として代官所に出向く
 *そこで5百両と言う金額を言いつけられた英一
 *自分は代理人としてきたので、今日は金額だけを聞いて帰り
 *御用金を受ける旨は後日また伝えに参りますと述べ
 *その場での即答を避けた
 *その代官、馬鹿にした口調で次のように述べたのだc
 *三百両や五百両なんてたいしたことないはずだ
 *きちんと御用を聞いておけば、覚えもよくなって
 *世間体も立つというもの
 *父に聞いてからなどと、何をわからないことをいっているのだ
 *お前の家の財産で、五百両などたいした金額ではあるまい
 *いったんまた帰ってから来るなどという、手ぬるいことは承知しない
 *すぐに承知しましたという挨拶をしろ
 *栄一は、「いったん帰ってからでないとお返事できません」
 *と繰り返し続け、何とかその場は逃れた
 *栄一はこの事件に対して、後々まで、
 *「本当に横っつらをハリたおしてやりたいほど腹が立ったよ」
 ☆よい血筋にさえ生まれれば
 *無能や無学な者でもそれなりの地位につける
 *栄一の幕府の古い体制に対する憤りに外ならなかった
 ☆明治維新の原動力の1つに
 *栄一のような豪農の子弟層の活動があったという説がある
 *栄一のような憤りの経験が、多かれ少なかれ
 *当時の日本各地の学問ある商人や農民たちに共有されていたのだ

⛳高崎城乗っ取り計画
 ☆栄一が大人へと成長する段階で
 *米ペリー艦隊の来航や日米和親条約締結、尊王攘夷論の勃興
 *桜田門外の変と、日本には大きな変化の波が押し寄せていた。
 ☆栄一の周囲でも、学問の師である尾高新五郎を中心に
 *その弟・長七郎や近隣の有志などが集まり
 *当時の政治情勢について激論を交わしていた
 ☆新五郎の学問は「尊王攘夷」を唱える水戸学の影響下にあった
 *そこに集まる人々も同じ思想傾向を見せていた
 *栄一も、江戸に遊学し、志士たちと交際を重ねた
 *彼らは、恐るべき計画高崎城の乗っ取りを計画する
 *彼らは槍や刀などを着々と買い集め、決行のために集結した
 *間際になって、計画の中止を唱える人物があらわれる
 *それが仲間のうちでも急進派と思われていた長七郎だった
 ☆彼は最新の国内情勢に詳しかった
 *高崎城の乗っ取りや、横浜焼き討ちを試みても成功の見込みはなく
 *百姓一揆に間違われて犬死にするだけだと熱心に説いたのだ
 ☆主戦派だった栄一は、長七郎と激論を交わすが
 *実際の状況を知る長七郎の説の方が優勢となり
 *計画は中止となった
 ☆天下の権力
 *一橋家にあるはずなのに平岡円四郎にあると評された実力者 
 *平岡は栄一や喜作のような見所のある志士とも
 *交流を持つような度量のある人物だった
 *栄一と喜作は、京都に逃れたたが同志だった長七郎が
 * 一時的に精神の変調をきたし、捕縛されてしまった
 *取り調べ中に、高崎城乗っ取り計画の件が漏洩する恐れもあり
 *栄一と喜作は、うかっに郷里へもどれなくなった
 ☆絶好のタイミングで
 *平岡円四郎が仕官の誘いをかけてくる
 *栄一は、大局的な観点から判断して
 *「尊王攘夷」にこだゎる喜作を説き伏せたうえで
 *円四郎の申し出を受け入れた
 ☆栄一は、武士の身分となった
 *以後、慶喜と栄一は
 *終世にわたる厚い信頼関係を結んでいった
 ☆一橋家の家巨となった栄一
 *兵備充実や産業奨励などに大きな実績をあげていく
 ☆慶喜は15代将軍に就任する
 *栄一は失望のあまり、辞職を考え始めた
 *そのとき、天恵のように彼にめぐってきたフランス渡航の話
                     (敬称略)
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 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『論語と算盤』





『尊王攘夷の志士』『一橋家の家来』『幕臣としてフランスへ』
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『利潤と道徳』『「と」の精神』『論語の教えの実践』『志・智慧・情愛」

2025年06月29日 | 有名人
🌸渋沢栄一の『論語と算盤』
 
 ☆彼の経営哲学のエッセンスが詰まった一冊
 ☆その中心的な主張
 *道徳(論語)と経済(算盤)は両立すべきであり
 *融合することで真の繁栄がもたらされるというもの

⛳利潤と道徳の調和
 ☆単に利益を追求するだけでなく
 *人としての道徳や倫理に基づいた経済活動を行うべきだと説く
 ☆私利私欲に走るのではなく、公益を優先し、社会貢献をする
 *結果的に持続的な利益が得られるとする
 ☆お金を稼ぐこと自体は決して卑しいことではない
 *正しい道理に則って得た富は尊いとする

⛳「論語」の実用性
 ☆「論語」は、個人の修養や人間関係、社会との関わり方など
 *日々の暮らしに役立つ実用的な教えが詰まっていると捉える
 ☆ビジネスにおいても、この「論語」の教えを実践することで
 *道徳を伴った経済活動が可能になると考えている

⛳社会全体の豊かさの追求
 ☆個人や企業の利益だけでなく
 *国家社会全体の発展や人々の幸福に貢献が重要としている
 ☆富は自分1人のものではなく
 *社会の助けがあって初めて得られるものであり
 *その富を社会に還元する義務があると説く

⛳「か」ではなく「と」の精神
 ☆「論語か算盤か」といった二元論ではなく
 *「論語と算盤」のように、道徳と経済活動を両立させる
 *「と」の精神が重要であると述べている
 ☆どちらか一方を優先するのではなく
 *両方を高いレベルで融合させることを目指すべきだとする

⛳人間の「志」「智慧」「情愛」の重要性
 ☆成功には、三つの要素が不可欠
 *「志(目標を達成しようとする強い意志)」
 *「智慧(物事を深く理解し、判断する能力)」
 *「情愛(他人を思いやる心、共感性)」
 ☆人間の「志」「智慧」「情愛」の重要性を説く

まとめ
 ☆SDGsやESG投資(環境・社会・ガバナンス)の考え方にも通じる
 ☆非常に先見性のある思想が示されている
                     (敬称略)
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⛳出典、『論語と算盤』『jimini』より




『利潤と道徳』『「と」の精神』『論語の教えの実践』
『志・智慧・情愛」
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論語と算盤(はじめに)

2025年06月28日 | 有名人
🌸論語と算盤(はじめに)

⛳渋沢栄一という原点
 ☆明治維新後、政治の世界で日本という国の基礎を作り上げたのは
 *大久保利通や伊藤博文、井上馨といった政府高官たち
 ☆渋沢栄一は、日本の実業界、資本主義の制度を設計した人物だった
 *彼が設立に関わった会社は481社とされている
 *それ以外に5百以上の慈善事業にも関わる
 *後世、「日本資本主義の父」「実業界の父」と呼ばれて
 *ノーベル平和賞の候補にもなっている
 ☆彼の偉大さは、今から百年以上前に
 *「資本主義」や「実業」が内包していた問題点を見抜き
 *その中和剤をシステムのなかに織り込もうとした
 ☆栄一は、「実業」や「資本主義」には
 *暴走に歯止めをかける枠組みが必要だと考えていた
 *その手段が、『論語」だった
 *『論語』の教えを、 成実業の世界に植え込むことによって
 *エンジンである欲望の暴走を事前に防ごうと試みた
 ☆われわれ日本人が、「渋沢栄一」という原点に帰ることは
 *今、大きな意味があると筆者は信じている
 *先の見えない時代に確かな指針を与えてくれる

今、なぜ現代語訳か?
 ☆昨今は、漢文調の文章を読み辛いと感じる人が増えた
 *栄一という近代屈指の偉人と出会いにくくなってしまった
 *栄一の魅力を多くの人に、知って欲しいと考え現代語訳を出版した
 ☆渋沢栄一を慕う人々が竜門社という組織を作った
 *これが現在の渋沢栄一記念財団の前身となった
 ☆渋沢栄一の言葉を編んだ本はこれまでに何種類も出されてきた
 *『論語と算盤』彼の自叙伝『雨夜謂』と優れた入門書だ
                     (敬称略)
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⛳出典、『論語と算盤』



論語と算盤(はじめに)
(『論語と算盤』記事他より画像引用)
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『北斎漫画』『喜多川何理墓偶銘』『蔦重永眠』

2025年04月09日 | 有名人
🌸蔦重の巻き返し5(最終回)

⛳狂歌界の重鎮、四方赤良は幕臣として出世
 ☆江戸狂歌界最大の人物四方赤良
 *定信の「党政の改革」を機に狂歌の筆を折ったこ
 *それ以降の赤良は、幕臣としての職務に励む
 *大田南畝の名で随筆などを執筆するにとどまった
 ☆南畝、人材登用試験である「学問吟味」を受験し合格した
 *南畝「支配勘定」に任用されて世間をあっと驚かせた

⛳蔦重が蒔いた種が開花(曲亭馬琴、十返舎一九、葛飾北斎)
 ☆初代の蔦屋重三郎が亡くなると
 *番頭だった勇助が2代目の蔦屋重三郎を名乗った
 *2代目は、初代の蔦重ほどの商才には恵まれず
 *苦しい経営のなか、持っている板木を売却しその場をしのいでいた
 *幕末、4代目で蔦屋は店を開じた
 ☆生前の蔦重が、才能に目を付けて蔦屋の番頭にした曲亭馬琴
 *曲亭馬琴は才能を開花させ大活躍
 *馬琴は、『南総里見八犬伝』を完成させた
 ☆生前の蔦重が、才能に目を付けた十返舎一九
 *『東海道中膝栗毛」が大ヒツトして一躍流行作家となる
 ☆生前の蔦重が、才能に目を付けた、画家、葛飾北斎
 *北斎は生涯で3万4千点を超える作品を残した
 *有名になった北斎だが、生涯を通じて生活は困窮し続けた
 *黄表紙や洒落本の挿絵から浮世絵版画、肉筆画まで
 *頼まれればなんでも引き受けて描きに描いた

⛳『北斎漫画』で大ブレイク!世界的画家の生涯

 ☆画業一筋の北斎、画狂老人卍北斎の評価
 *日本では近代に至るまで歌麿や写楽以下
 *「浮世絵師の一人」という位置づけだった
 ☆ヨーロッパで流行した日本趣味のなかで、
 *『北斎漫画』がフランス印象派の芸術家たちに受容された
 *浮世絵とともに大きな影響を与えた
 *「ジャポニズム」へと発展し、北斎の名は海外で一躍有名になった
 ☆日本でも北斎が再評価されることになった
 *逆輸入の形でしか北斎の絵師としての才能がわからなかった

蔦重の墓碑に刻まれた言葉
 ☆蔦重は、 48歳の若さで永眠した
 *蔦重の訃報が届いたとき、盟友だった宿屋飯盛は深い悲しみに暮れた
 *飯盛は、蔦重の墓碑「喜多川何理墓偶銘」に次のような碑文を書いた
 ☆『志気英邁にして細節を修めず。人に接するに信を以てす。』
 *蔦重は、意気盛んで才知に富み
 *度量が大きくて細かいことにこだわらない人物だった
 *人に接するときは信義を最も大切にした
 ☆短いながら蔦重への想いが溶れていている
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⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋』





『北斎漫画』『喜多川何理墓偶銘』『蔦重永眠』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋』記事、ネットより画像引用)
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『写楽』『蔦重永眠』『歌麿』『酒井抱一』

2025年04月08日 | 有名人
🌸蔦重の巻き返し4

⛳東洲斎写楽は「誰」なのか?

 ☆写楽は、活動期間10力月の間も
 *130点の役者絵・相撲絵・武者絵などを書いた
 *傑作はほとんど第1期に集中していた
 ☆第二期以降は凡庸な作品が多くなる
 *デビュー後10ケ月位で写楽は筆を折った
 *写楽は彗星のように現れ、彗星のように姿を消した
 ☆著名な絵師説
 *突然現れた写楽の画力はハイレベルだった
 *蔦重の近くにいた歌麿や葛飾北斎、山東京伝、酒井抱一等
 *浮世絵師以外の実力者、円山応挙や谷文見等とする説もある
 ☆蔦重の主宰する工房説
 *画力の違いも大きいことから、作者は一人ではなく
 *何人かの手による工房で作られたという説
 *これは十分あり得る説だ
 ☆能役者、斎藤十郎兵衛説
 *斎藤十郎兵衛がなぜ蔦重のもとで役者絵を描くことになったのか
 *絵師としての画力をどこで磨いたのかなど
 *依然として不明な点が多い

⛳蔦重の「あっけない最期」とファミリーたちのその後
 ☆写楽に傾倒していく蔦重に対して歌麿は袂を分かつ
 *蔦重にあてつけるかの如く多くの傑作を発表していった
 *「吉原の花」と題された肉筆画
 *歌麿には蔦重以外にもスポンサーが付いていた
 *歌麿は、今まで誰も題材にすることはなかった吉原遊郭の
 *最下層の女性たちを描いた作品も作成している
 ☆歌麿、蔦重が写楽の売り出しに失敗した翌年には早くも復縁
 *蔦重のもとで、遊女の一日を描いた12枚揃の名作
 *『青楼十二時』を発表した
 ☆再び歌麿とのコンビ復活で暴れまくる蔦重は
 *時代の寵児として次々にヒット作を打ち出していく
 ☆幕府は蔦重の成功を追いかけ
 *潰すことが目的のように次々と禁令を発していく
 *その逆風は、蔦重にしてみれば順風にすら感じられた
 *立ち上がり、さらなる高みを目指した蔦重
 ☆蔦重に病魔が突然襲い掛かかり、脚気に罹りで永眠した

⛳蔦重の死後も傑作を発表し続ける歌麿
 ☆歌麿は、絵を描き続けることが蔦重への供養だった
 *しかし、お上は許しちゃくれなかった
 *「世の風紀を乱すもの」として
 *春画はもちろん美人人首絵の制作まで禁じられてしまった
 ☆歌麿は、巧妙に法の網の目をかいくぐって美人画を描き続けた
 *幕府は歌麿をマークし続け、ついに逮捕にこぎつけた

 *歌麿は、入牢の憂き目に遭い、手鎖五十日の処分を受けた
 *歌麿は気力も体力も奪われて病気になった
 *歌麿は確実に寿命を縮めていった
 *最期は心身ともにボロボロになり、 享年は推定54歳で亡くなった

⛳酒井抱一、出家して「江戸琳派の祖」となる
 ☆「寛政の改革」と蔦重の死をきっかけに人生を大きく変えた人物
 *酒井抱一、名門姫路藩主酒井家の次男
 *思うところあって抱一は37歳にして出家した
 *出家したのちも吉原通いは続け、愛する遊女を身請けした
 ☆尾形光琳に私淑していた抱一、江戸琳派の祖となった
 *一念発起し、本気で絵画に取り組んだ
 *抱一はその後も精進し、尊敬する光琳百回忌を開催する
 *都会的なセンスを持ち、優雅で気品温れる独自の作風を確立した
 *鈴木其一ほか多くの門人も育て、立派な人生を過ごした
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『歌川豊国』『東洲斎写楽』『写楽姿消す』

2025年04月07日 | 有名人
🌸蔦重の巻き返し3

世は歌舞伎の黄金時代、蔦重は目を付けた
 ☆和泉屋とタッグを組んだ歌川豊国の役者絵の大成功
 *それを目の当たりにして蔦重は焦っていた
 ☆蔦重の活躍した時代
 *名跡市川団十郎の5代目の時期にあたる
 *団十郎は歌舞伎で名人と呼ばれるだけでなく
 *狂名「花道つらね」で「堺町連」の狂歌師のグループを率いて
 *赤良や蔦重たちの連とも交流していた
 ☆歌舞伎の黄金時代を目の当たりにしていた蔦重
 *浮世絵の役者絵を出そうと考えた
 *蔦重と交流のある絵師勝川春章は役者絵を得意としていた
 *春章は勝川派を創始し、多くの弟子を育てた大物だった
 ☆蔦重が企画していたのは、豊国に対抗するため
 *驚くような役者絵で、役者の顔貌をリアルに描き取る
 *特徴ある顔だけでその役者を特定できる大首絵で豊国に勝つ

東洲斎写楽という新進気鋭の浮世絵師
 ☆写楽の28枚もの役者絵を一気に発表した
 *豊国の役者絵は、全身像かつ顔やしぐさの特徴を捉えたうえで
 *美化されたものだったのに対して写楽のは違った
 *年取った役者の顔に皺があればそれをリアルに描いた
 *特に、目立つようにデフォルメされていた
 *顔に対して手は現実のものよりかなり小さく描かれていたが
 *それが逆に絶妙なバランス感を生み、大首絵の印象を強くしていた
 ☆「江戸のメディア王」たる自覚を持っていた蔦重
 *写楽作品にすべてを賭けたが
 *当時ブロマイド的な扱いを受けていた
 *役者絵としては、写楽の作品は大胆すぎた
 *同年に発表された売れ線の豊国の役者絵に対して
 *写楽の前衛的ともいえる芸術的な浮世絵はそれほど売れなかった
 *蔦重と写楽のコンビ、百年早かった

⛳10ヵ月でばったり消息を絶った「謎の絵師」
 ☆写楽の作品はすべて蔦重のもとで出版された
 ☆第一期の発表当時は理解されなかった
 *若手や脇役の役者が多かった
 ☆第二期では、大首絵は一枚もなくなる
 *第二期以降は人気役者を描く割合が増えている
 *背景なしの全身像という方向に大きく転じた
 *歌舞伎界のスポンサーの影がちらついている
 ☆第三期には再び大首絵が復活する
 *一期ほどの大胆なデフオルメはなくなっていた
 ☆第四期では「写楽画」の落款のもと武者絵など10数点が描かれた
 *作品の質は激落ちし、迷走の果てに写楽は忽然と姿を消した
 *デビューしてからわずか十ヵ月、何があったのか
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『豊国』『東洲斎写楽』『写楽姿消す』
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『春画』『歌麿の独立』『歌川豊国』『栄松斎長喜』

2025年04月06日 | 有名人
🌸蔦重の巻き返し2

⛳歌麿のもう一つの代表作「春画」
 ☆蔦重と歌麿のコンビの「春画」
 *当時は浮世絵の一大ジャンル
 *すべての浮世絵師が「春画」を本気で描いていた
 *「春画は嫁入り道具」といわれるくらい、庶民に浸透していた
 ☆嫁入り前の初心な花嫁
 *描かれている男女の営みを見て新婚初夜を学んだ
 *嫁入り道具として春画を持たせるのは親の務め
 *春画とは、男女の性的交わりを描いた浮世絵の一種
 ☆定信の「寛政の改革」によって、春画は発禁になった
 *江戸っ子の反骨精神に火が付き、地下に潜って制作が続けられた
 *贅沢な画材を使い、豪華な春画ができた

⛳「蔦重の弟分」で終われない歌麿のプライド
 ☆「男一度は伊勢と吉原」といわれたように
 *お伊勢参りと吉原は江戸っ子にとり、憧れる場所だった
 ☆蔦重は歌麿との共同作業で
 *遊女たちを売り出すことに成功した
 *浮世絵はアイドルのブロマイドのような役割を果たした
 ☆歌麿の「美人大首絵」を見た江戸っ子
 *遊女たちの美しさはもとより
 *高い教養と抜群のフアツションセンスに心打たれた
 ☆蔦重は鼻高々だった
 *名プロデューサー蔦重の卓越したアイデアと
 *歌麿の超絶技巧とがうまくかみ合い
 *公私を共にしてきた二人が二人三脚で時代を創り上げた
 ☆「身上半減」の後遺症も癒えた蔦重
 *歌麿の浮世絵を通して吉原遊郭の中の様子
 *遊女のリアルで艶やかな姿を世に知らしめることができた
 *歌磨も、蔦重と組むことによって一躍時代の寵児となった
 ☆鼻っ柱が強い歌麿は、次第に蔦重と距離をおく
 *蔦重の傘の下にいるだけでは満足できなくなった

 ☆そんな折、松平定信が失脚する

歌麿の独立、歌川豊国の台頭
 ☆蔦重が、京伝と歌麿とタッグを組んで起死回生の手を打っていた頃
 *定信の「寛政の改革」は早くも行き詰まっていた
 *定信の打つ手はひたすら質素倹約の一手
 *庶民も、今さらお金のない世の中に戻ることは不可能
 *謹厳実直な文武奨励政策だけでは、うまくいくはずもなかった
 ☆定信は、「棄指令」の「禁じ手」のお触れを出した
 *旗本・御家人の借金をチャラにする、打つ手が間違いだった
 ☆定信のケチケチ大作戦は将軍の贅沢にまで及んだ
 *これが致命傷で「無類の子だくさん」として知られる
 *大奥大好き将軍こと、11代将軍家斉に対して
 *大奥の費用削減を迫った
 *定信は家斉に殺意を抱かれるほど嫌われ、6年で失脚した
 ☆「無類の子だくさん」家斉の子供は、男26人、女27人
 *本妻以外、側室が24人、将軍「お手付」女性がさらに20人以上いた

⛳蔦重「歌麿一人におんぶに抱っこ」からの脱却を模索
 ☆歌麿が実力を付け、独立する姿勢を見せたため
 *蔦重としても歌磨一人におんぶに抱っこされているわけにはいない
 *蔦重「ポスト歌麿」探しをしていた
 ☆蔦重は、歌麿と同門(鳥山石燕の門人)の栄松斎長喜に目を付けた
 *出版したが、歌麿ほどの大ヒットには至らなかった

 ☆蔦重と同じ地本間屋だった和泉屋市兵衛のところから
 *歌川豊国(初代)による役者絵が出版された
 *市兵衛がその才能を見抜いて「役者舞台之姿絵」を出版した
 *豊国が描いたのは、歌麿の大首絵とは正反対の全身像
 ☆豊国は役者の個性的な顔つきや身振りの特徴を見事に捉え
 *しかもそれを美しく仕Lげていた
 *豊国の絵は、役者フアンの心をつかんで大評判となる

 ☆豊国の名声はうなぎ昇りとなり
 *多くの門人を抱える浮世絵界最大の派閥「歌川派」を形成し
 *その後の浮世絵界をリードしていくことになる
                        (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
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⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋』



『春画』『歌麿の独立』『歌川豊国』『栄松斎長喜』
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『喜多川歌麿』『鳥居清長』『八頭身美人』『美人大首絵』

2025年04月05日 | 有名人
🌸蔦重の巻き返し

⛳美人画の夭才絵師・喜多川歌麿をプロデュース
 ☆松平定信の「寛政の改革」に負ける蔦重ではない
 *とんでもない大流行を創り出す
 *蔦重は、子飼いの喜多川歌麿と組んで、蔦重は雲母摺(きらずり)
 *「美人大首絵」という新機軸を打ち出した
 *耕書堂は巻き返しに成功した
 ☆歌麿の出自や出身地は不明
 *妖怪画で有名な鳥山石燕の門人になった歌麿
 *同門の恋川春町、志水ら先輩方とともに過ごし
 *浮世絵界の大御所北尾重政にも可愛がられた。
 *田沼時代を迎え、浮世絵も庶民にとって身近なものになっていった
 ☆歌麿は縁あって蔦重のところに居候していた
 *「喜多川歌麿」を名乗ったが、「喜多川」という姓は
 *蔦重の本姓である
 ☆浮世絵は、遊女たちの姿や当時の江戸の風景
 *流行の芝居や役者絵などを題材にしていた風俗画
 *印刷された「本版画」ならば、江戸の庶民でも手軽に買えた

⛳歌麿、鳥居清長に完敗
 ☆「鳥居派」は歌舞伎の劇場の看板絵や芝居絵、役者絵が得意
 ☆鳥居派3代目に弟子人りした清長
 *役者絵から離れて美人画で本領を発揮するようになった
 *清長を有名にしたのは「八頭身美人」を描いたことだった
 *まさに一世を風靡する勢い
 *清長だが、3代目が亡くなったあと4代日を襲名した
 ☆「美人画といえば清長」との評判を取っていた清長の活躍
 *歌麿は師である石燕の手伝いをして
 *細々と作品を発表するという屈辱の時を過ごしていた

⛳歌麿に転機が訪れた
 ☆狂歌絵本『画本虫撰』の挿絵を担当した
 *宿屋飯盛が編集したこの狂歌集は、飯盛の代表作になるとともに
 *歌麿にとっても画力を磨くいい機会となった
 ☆歌麿の大胆な筆致、高い印刷技術、造本の確かさ、豪華さと
 *『画本虫撰』は芸術の域に達している
 *蔦重の力の人れようが一目瞭然
 ☆自信を得た歌麿は、蔦重の期待に応えて狂歌絵本に集中し
 *この数年間で十種以上の絵本に百五十図を超える挿絵を描いた
 ☆蔦重は、「吉原連」に歌麿を参加させた
 *「粋」で「通」な文人たちとの交流を図った
 *蔦重の真の目的は、歌麿を吉原遊郭に通わせることで
 *遊女たちの生活ぶりや女性らしい所作を徹底的に観察させること
 *そのことが結果として歌麿の才能を引き出して開花させた
 *スター絵師へと引き上げた
 ☆吉原に入り浸った歌麿
 *この時期に描いた「春画」も世界的大傑作だ

⛳「美人大首絵」―キラキラ雲母摺の新趣向が大ブレイク
 ☆出版弾圧で「身上半減」という痛い日に遭った蔦重
 *蔦重は、子飼いにしていた歌麿を、満を持して世に送り出す
 ☆清長の「八頭身美人」に対抗する以上
 *当時の美人画にはない工夫を凝らした「美人大首絵」とした
 *「大首絵」とは主に役者絵に使われていた手法
 *画面いっぱいに上半身を大きく描くものだ
 *絵師として力量十分の歌麿は、表面的な女性美だけではなく
 *細やかなしぐさや喜怒哀楽の表情までを描き切り
 *内面の女性美まで写し取ることができた
 ☆新鮮な歌麿の「美人大首絵」
 *江戸っ子の心をあっという間にわしづかみにした
 *歌麿は清長に追いつき、そして追い越した

⛳歌麿、江戸の「強カインフルエンサー」に
 ☆歌麿は絶頂期を迎えた
 *人気実力ともにナンバーワンの絵師となった歌麿
 *清長の上をいく「美人画歌麿時代」を謳歌していた
 ☆本版画の浮世絵は大量印刷が可能だったので
 *庶民の間で歌麿の浮世絵はアイドルのプロマイドのように買われた
 *歌麿は肉筆画でも白の使い方が上手かった
 *お肌が命の女性にとって、歌麿の描く美自の女性像は憧れの的だった
 ☆歌麿がモデルとして取り上げると
 *その女性の名はたちまち江戸中に広まるほどの影響力があった
 *凄い宣伝力、強力なインフルエンサー歌麿だった
                        (敬称略)
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『喜多川歌麿』『鳥居清長』『八頭身美人』『美人大首絵』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋』記事、ネットより画像引用)
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『馬琴』『南総里見八犬伝』『林子平』『海国兵談』

2025年04月04日 | 有名人
🌸出版業界に大事件発生5

蔦重の調書に、山東京伝に原稿料を支払いが書かれていた
 ☆当時の戯作や狂歌づくりは遊びや趣味だと考えられていた
 *作者に原稿料や印税を支払う考え方はまったくなかった
 *それどころか出版に際しては自弁だったりした
 ☆「寛政の改革」で売れる本を書ける戯作者がいなくなっていた
 *蔦重は、山東京伝を専属作者にしたいがため原稿料を支払った
 ☆山東京伝は、日本初の原稿料をもらった

⛳「京伝好み」の煙草入れ
 ☆山東京伝も商売を始めたくて、お金が入用だった
 *蔦重と鶴屋喜右衛門に、専属作家としてお世話になる
 *売れる作品をバンバン書いてみせるぜってことで
 *お互いにウィンウィンの関係だった
 ☆山東京伝は、張り切って売れるものを書いた
 *ちょっとやりすぎちまって当局に目を付けられた
 ☆山東京伝は、手鎖50日のお咎めが明けたあと
 *煙管と紙製煙草入れなどを扱う小物販売店「京屋(京伝屋)」を開いた
 *「粋な通人」として有名だったオイラのデザインした煙草人れは
 *「京伝好み」と呼ばれ、江戸っ子の間でブランド品として大流行
 ☆目をかけていた馬琴が洪水に見舞われて住む家を失ったので
 *山東京伝を頼ってきたので、馬琴を自宅に食客として逗留させる
 *代わりに執筆を助けてもらい代作までしてもらった
 ☆超大作『南総里見八犬伝』を書き上げるだけの筆力がある馬琴
 *馬琴を蔦重「耕書堂」の手代として推薦した

蔦重娯楽系がダメなら″学問系”に乗り出す
 ☆山東京伝に「森羅万象」と号する仲良しの戯作者仲間がいた
 *本名森島中良、博学多才で、交友関係も広く、平賀源内の弟子だった
 *「平賀ぶり」を正統に継承したのがこの万象
 *黄表紙や洒落本を書いて活躍していた
 ☆万象は「寛政の改革」が始まると定信にすり寄っていった
 *山東京伝を攻撃してくるのは時間の問題
 *山東京伝にとって最悪に近い時期だった
 ☆蔦重も苦しんでいたが、いいこともあった
 *娯楽物の本は、出版統制のあおりを食って売れ行きは落ち込んだが
 *定信の学問奨励策を受けて
 *真面目な学問系の書物の売れ行きはうなぎ昇りになった。
 *蔦重は書物間屋の株を取得し、学術書などの出版にも乗り出す
 *転んでもただでは起きねぇ蔦重、流石だ

⛳厳しすぎ?!林子平の本までも発禁に!

 ☆「寛政の改革」にともなう出版物取締令で
   *林子平の書いた『三国通覧図説』と『海国兵談』が発禁を食らう
 *二冊の本は、日本の海岸防備の強化を主張した書物だった
 *至極まっとうな内容で、これを読めば
 *ただちに海防に着手するのが筋ってもんだが
 *幕府の政策を批判する内容なので
 *幕府はこの本を発禁処分とした
 ☆尊王思想を説いた高山彦九郎の本も幕府は発禁にした
 *子平同様「海防論者」であり、彦九郎同様「尊王論者」でもあった
 ☆蔦重と山東京伝に言わせると、意次と定信は「月とスッポン」
 *江戸文化の大恩人は田沼意次で決まり                                      
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『見返り柳』『北尾政美』『大田南畝自粛』『蔦重の処分』

2025年04月03日 | 有名人
🌸出版業界に大事件発生4

⛳吉原での「後朝の別れ」の意味
 ☆吉原の朝は早く、午前六時頃に大門が開く
 *遊女がお客をそこまで見送り、別れを告げる
 *もちろん遊女は大門の外には出られない
 ☆夢の世界に生きる遊女
 *別れ際に未練たっぷりに涙を目にためて別れを惜しむ
 *夢を壊すことのないよう、遊女は悲しい別れを演じ切る
 ☆しかし、遊女が本気でお客のことを好きになることもある
 *遊女が真に惚れた男のことを「間男」と呼んだ
 ☆遊女とお客の朝の別れのことを「後朝の別れ」といった
 *遊女に見送られた客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ
 *遊郭を振り返るあたりに柳の木「見返り柳」がある

大型ルーキー『北尾政美』の剃髪!
 ☆問題作『鶏鵡返文武二道』の挿絵は、北尾政美だった
 *師の重政が蔦重と一緒に仕事をしていた関係で政美は重用され
 *蔦重の耕書堂から出た黄表紙の挿絵を多数担当した
 *花鳥画なども手掛けて蔦重ファミリーの期待の若手として活躍していた
 ☆松平定信が「寛政の改革」を行ったことで
 *政美と蔦重との関係が大きく変わってしまう
 *改革で出版統制が始まると、蔦重を取り巻く環境が厳しくなる
 ☆「鶏鵡返文武二道』が定信の怒りに触れ
 *作者の恋川春町が出頭を要請されたのち自死した
 *蔦重ファミリーともいえる京伝・赤良・喜三二などの執筆陣
 *活動の自粛や中止を余儀なくされた
 ☆政美は大きなショックを受けた
 *政美は、自分の活躍の場蔦屋版の本に厳しい圧力が加わる以上
 *もはや同じ方向性での仕事はできないと悟らざるを得なかった
 ☆政美は、津山藩の御用絵師へと転身すると同時に剃髪した
 *生き方を変えた政美は、黄表紙に関わるのを控え
 *幕府奥絵師の狩野惟信に師事して大和絵を本格的に学ぶようになる
 *「寛政の改革」は、大勢の人生を変えた

⛳お家断絶のピンチ!?(四方赤良も自粛)
 ☆定信の「寛政の改革」で戯作界は混乱に陥った
 *喜三二は筆を折り、春町は自死、政美は剃髪、山東京伝も過料処分
 ☆意次に重用されていた勘定組頭の土山宗次郎、横領の罪で処刑される
 *宗次郎と懇意だった赤良(大田南畝)まで自粛を余儀なくされた
 *下手をすると赤良も連座して処罰を受ける可能性があった
 ☆赤良大先生も武士の端くれ、定信に盾突いちゃあ
 *おまんまの食い上げどころか、お家断絶の危険まである
 *仕方がなく自主的に筆を折った
 ☆戯作者や浮世絵師と交流することで
 *作品を出版するスタイルを取ってきた蔦重
 *赤良(狂歌・戯作仲間のまとめ役)を失っちまったのは痛かった

⛳出版の取り締まり強化!蔦重を狙い撃ち!?
 ☆「寛政異学の禁」が通達された
 *湯島聖堂の学問所で、儒学のうち朱子学を「正学」とし
 *それ以外の「異学」の講究を禁じた
 ☆出版へも風俗を素乱する違法出版物の取り締まりの強化が図られた
 *山東京伝の書いた洒落本
 *『娼妓絹麓』「仕懸文庫』『錦之裏』の三作が刊行されると
 *摘発されて、筆禍を招く憂き目に遭った
 ☆大活躍の版元・蔦屋重二郎に狙いを定めて処罰した効果は抜群
 *地本問屋仲間たちはこの見せしめ処罰に怖気づいて
 * 一気に自粛ムードが蔓延してしまった
 *蔦重も痛い処分を食らってしまう
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『寛政の改革』『出版統制』『春町の自害』『喜三二の留筆』

2025年04月02日 | 有名人
🌸出版業界に大事件発生3

⛳蔦重に向かい風、「寛政の改革」での出版統制
 ☆意次が失脚し、定信が老中首座に就いた
 *しかし世の中が一気によくなるわけはなかった
 *逆に「天明の大飢饉」の余波は大きかった
 *江戸や大坂で米屋の打ちこわしが起きた
 *それは全国各地へと波及した
 ☆定信はこの事態を受けて「寛政の改革」を始めた
 *改革の中身はバブリーな田沼時代の反動政策
 *ケチケチ倹約政策にすぎず、お堅いことばかりだった
 *庶民の着物の柄まで制限するほどの質素倹約を旨とした
 ☆「寛政の改革」の影響は、出版界にも降りかかってきた
 *田沼時代が終わったことにまだ気が付いていなかった
 *蔦重の一枚看板は、順調に本を書いていた
 *定信の「寛政の改革」を皮肉たっぷりに風刺した
 *見事に出版統制にひっかかった

⛳耕書堂ピンチ!「春町の死」と「喜三二の留筆
 ☆「文武二道万石通』の作品
 *喜三二お得意の風刺精神で定信の文武奨励策をおちょくり
 *武士たちの腑抜けた様子をギャグに仕立て上げたこの本
 *「寛政の改革」にうんざりしていた庶民にバカウケし売れに売れた
 *同じような趣旨の、春町の『鶏鵡返文武二道」一もバカウケした
 ☆幕府の対応
 *喜三二は久保田藩主よりお叱りを受けて留筆を命じられた
 *喜三二はしぶしぶ筆を折った
 ☆春町は幕府から出頭を命じられた
 *春町は病気を理由に出頭に応じず自害した

自粛に追い込まれる蔦重ファミリー
 ☆悪い流れは当然、山東京伝にも及んでくる
 *黄表紙「黒白水鏡』にオイラは挿絵を描いたが
 *お咎めを受けちまって、本はただちに絶版
 *作者の石部琴好は手鎖のち江戸払
 *京伝も、過料(罰金)処分となった
 ☆この本の内容は確かにまずかった
 *田沼意知が江戸城中で佐野政言に斬りつけられた事件を
 *チクリと風刺したものだった
 ☆京伝、お咎めを受けて以来
 *気が滅入っちまって弟子を取るのはやた
 *しかし、馬琴はなかなか見どころがありそうな若者だったんで
 *弟子にはしなかったが親しく付き合うことはOKした
 *その後の彼の活躍ぶりを思うに、京伝の見る目は確かだった
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『家治死去⇒意次失脚』『松平定信⇒老中首座』

2025年04月01日 | 有名人
🌸出版業界に大事件発生2

⛳松平定信は、8代将軍吉宗の孫で頭カチコチ
 ☆定信は徳川御三卿の一つ、田安家の七男として生まれ
 *田安家は、徳川吉宗の系統が継いだ名門
 *定信自身も吉宗の孫にあたる
 ☆定信は徳川一門の白河藩主・松平定邦の養子となる
 *定信の高い能力を疎み、政治の中央から遠ざけたい
 *田沼意次の意向が働いたといわれている
 ☆定信は名門円安家当主に戻りたかったが許されなかった
 *その為、家督を継いだ白河藩の家格をLげてはしいと意次に願い出た
 *結果は「却下」で、定信の意次への恨みは相当溜まっていた

⛳「将軍の座」を逃したのも意次の意向だった
 ☆御三卿であり、吉宗の孫でもあった定信
 *将軍の後継者としての資格すら有する名門家のエリートだった
 ☆御三卿・御三家も虎視眈々と次なる将軍の座を狙っていた
 *18歳だった家基が急死した
 *聡明で文武両道の家基
 *将来を嘱望されていただけに残念な死だった
 ☆徳川宗家の歴史のなかで「家」の通字を授けられながらも
 *唯一将軍になれなかった家基は
 *「幻の第十一代将軍」とも呼ばれた
 ☆家基は意次の政治のやり方を批判していたので
 *「家基が将軍になったら自分の地位がヤバイ」と
 *失脚を恐れた意次による毒殺ではないのかと怪しまれた
 ☆定信は、「我こそは―」と思ったが、
 *定信をライバル視していた老檜な治済が先手を打ち
 *自分の長男家斉を家治の養子としてしまった
 *これで次期将軍は家斉に確定した。
 *その裏にはもちろん意次の意向が働いていた
 ☆すべては仕組まれていたに違いないと定信はそう考えた
 *その恨みの矛先は意次に向かう

⛳定信、白河藩主として「天明の大飢饉」を死者ゼロで乗り切る
 ☆定信の藩政の成果は、天明の大飢饉の際に発揮された
 *未曾有の大災害に白河藩も襲われたが
 *定信は手を尽くしてあちこちから米を入手し
 *それを領民に配給して危機を乗り切った
 *白河藩は一人の餓死者も出さなかったといわれている
 *定信は18番の質素倹約で藩政を見事に立て直した
 ☆凄腕の藩主がいると定信の評判は幕府の中枢にも届いた
 *家治が死去し、将軍は家斉となった
 *チャンスと見た反田沼派によって意次は失脚させられ
 *約20年に及んだ田沼時代は終焉を迎えた
 ☆手腕を買われた定信が徳川御三家の推挙を受けて
 *老中首座に就き、11代将軍家斉を補佐することになった
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『田沼時代終焉』『意知の暗殺』『松平定信』

2025年03月31日 | 有名人
🌸出版業界に大事件発生1

「バブリー田沼時代」が終焉!
 ☆蔦重とその仲間たちが享楽の人生を過ごせたのも
 *バブリーな田沼時代だからこそだったのだ
 *田沼時代は数々の天変地異に見舞われた時代でもあった
 *江戸の大火、東北地方の干ばつや全国的な台風被害も出た
 *浅間山が大噴火し、世界的規模の火山の大噴火で
 *関東一円が火山灰に覆われてしまい
 *農作物に壊滅的な被害が生じた結果
 *「天明の大飢饉」と呼ばれた江戸時代最大の飢饉状態に陥った
 ☆人飢饉に対して、意次は有効な手を打たなかった
 *飢える東北地方に米を送らず
 *米価暴騰対策のために江戸に米を掻き集める政策を行って
 *東北の被害を拡大させた

⛳「覚えがあろう~!」田沼意次の息子意知の暗殺
 ☆田沼が悪い=賄賂政治で大飢饉の天罰が下ったとと恨みを買う
 *父意次の引きで、若年寄に出世を果たしていた息子の意知
 *殺されるという事件が起きた
 *意知を殺したのは、佐野政言という江戸城警備担当の旗本

 ☆意知の死を知った江戸っ子たち
 *「ざまあみやがれ」と言わんばかりに
 *その死をせせら笑う落首や狂歌をたくさん詠んだ
 ☆一説によると、名門佐野家の家系図を借りた意知
 *それを返さなかったのが直接的な原因といわれている
 *先祖の身分が低かったのを恥じた意知
 *名門佐野家に倣って田沼家の家系図を書き換えたのはいいが
 *パクッたのがバレるのを恐れて返せなくなったとの理由がある
 ☆殺人は殺人
 *政言には切腹が命じられ、佐野家も改易の憂き目にあった
 *賄賂政治を嫌っていた人々から、「佐野世直し大明神」と呼ばれた

⛳意次、失脚!!所領は没収、蟄居を命じられる
 ☆意次の後ろ盾だった将軍家治が没すると
 *反田沼派たちにより、意次は老中を罷免される
 *代わりに松平定信が老中首座となった
 ☆陸奥国白河藩藩主だった定信
 *天明の大飢饉において餓死者を出さず
 *藩政の建て直しまで成功した
 *その手腕を認められて老中首座となった定信
 ☆定信は、重商主義政策を行っていた意次を
 *「盗賊同然」と罵り、意次の城を破却し所領を没収し蟄居を命じた
 *大坂の蔵屋敷と江戸屋敷の明け渡しまで命じられた意次
 *失意の底のうちに没した
 *没収された意次の屋敷の内情は、財産どころか
 *「塵一つない」といわれたほどすっからかんだった
 ☆もうしばらく意次に老中をやってもらい
 *その政策を息子の意知に引き継いでもらっていれば
 *日本は変わっていたかもしれない
 ☆先見性が高く、視野が広かった意次の失脚
 *蔦重たちにとって大きな痛手だった
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『田沼時代終焉』『意知の暗殺』『松平定信』
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『宿屋飯盛』『酒井抱一』『蔦重は江戸のメディア王』

2025年03月29日 | 有名人
🌸四方赤良(大田南畝)との出会い3

⛳蔦重版元の狂歌絵本が次々ヒット!
 ☆狂歌の撰者として重用された盟友宿屋飯盛
 *宿屋飯盛撰の『吾妻曲狂歌文庫』大ヒットし蔦重は大喜び

 ☆宿屋飯盛(本名を糟屋七兵衛)
 *四方赤良に狂歌を学び、狂名として宿屋飯盛と名乗った
 *反骨精神丸出しの江戸っ子で、蔦重と知り合う
 *飯盛は、狂歌の「撰者」として重用され
 *蔦重と組んで次々に狂歌絵本を出してヒットさせた

⛳蔦重、譜代大名の坊ちゃん、酒井抱一に目を付ける
 ☆「尻焼猿人」の若者が狂歌連に参加してきた
 *本名を酒井忠因、号は抱一
 *姫路藩主酒井家の次男というエリートボンボン
 *抱一の江戸の藩邸には、文人墨客が多く出入りしていた
 ☆文化的サロンのなかで育った抱一
 *天明の人狂歌ブームに乗らないはずはない
 *抱一は若くして狂歌連に参加し
 *絵画と文学の才能を発揮した
 *出版を手掛けていた蔦重
 *売れるコンテンツには目がない蔦重
 *譜代大名の才気換発なエリート坊ちゃんを利用する
 *自ら手掛ける狂歌絵本に抱一の狂歌を多数載せた
 *抱一の狂歌はそれほど上手いとはいえなかった
 *大名の子息で美男子となれば狂歌連のなかでもモテた
 *宣伝にもなるので、狂歌本の巻頭を飾ることも多かった
 *抱一はこのあと、実は大化けすることになる

⛳冴えわたるプロデユースカー蔦重
 ☆「江戸のメディア王」たる所以
 *蔦重はその交友関係の広さを生かして
 *出版する本の序文を次々に大物に頼んでは成功させている
 ☆蔦重の代表的な仕事の一つである狂歌絵本
 *三冊の狂歌絵本は、見事な戦略を立てて大成功した
 *北尾派の始祖北尾重政『絵本八十宇治川』と『絵本吾妻からげ』
 *絵師喜多川歌麿による『絵本江戸爵」
 ☆版元になって十年を超え
 *蔦重のプロデュース能力はすでに円熟の境地に達していた
 *本全体のコンセプトを立てたあと、誰に絵を描かせるか
 *そしてその絵に相応しい狂歌を誰に依頼するかなど
 *すべてをコントロールしたのは蔦重だった

⛳同じような本を出してちゃあ、じり貧だ
 ☆狂歌ブームが頂点を迎え、狂歌人口が増え、みな目が肥えてきていた
 *狂歌が大流行し、名ばかりの鼻持ちならない狂歌師が増えてきた
 ☆「同じような本を出してちゃあ、じり貧だ」と考えた蔦重
 *金と人材とを惜しまずつぎ込んで、より豪華な狂歌絵本を企画し
 *そしてバンバン宣伝もした
 *「江戸のメディア王」と呼ばれるようになる蔦重の真骨頂
 *江戸っ子たちは、その発売を楽しみに待つようになっていった
 ☆蔦重がプロデユースし、耕書堂が発行する本は飛ぶように売れた
 *三十代半ば~後半を迎えた蔦重は、黄金時代を謳歌していた
                         (敬称略)
⛳知識の向上目指し、記事を参考に自分のノートとしてブログに記載
⛳出典内容の共有、出典の購読、視聴に繋がればと思いブログで紹介
 ☆記事内容ご指摘あれば、訂正・削除します
⛳私の知識不足の為、記述に誤り不明点あると思います
⛳投資は、自己責任、自己満足、自己判断で
⛳詳細は、出典原書・記事・番組・画像でご確認ください
⛳出典、『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』


                          (宿屋飯盛)

『宿屋飯盛』『酒井抱一』『蔦重は江戸のメディア王』
(『眠れないほどおもしろい蔦屋重三郎』記事他より記事画像引用)
コメント
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