goo blog サービス終了のお知らせ 

大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

榎と一里塚

2012年05月13日 | 江戸の交通
おもな街道には一里ごとに一里塚が設けられ、旅人の役に立った。一里塚に植えられたのは榎がほとんどで、残りは松などであった。
この一里塚が制定されたのは、江戸初期・徳川秀忠の時代で、慶長九年(1604年)から十年の歳月を掛けて完成された。
一里塚設置の指揮に当たったのは、大久保長安(ながやす)。武田氏の家臣から、家康の家臣となった人物で、祖父は春日神社の猿楽師だったという。
特に経理面で非常に優秀だったらしく、家康にも重用され、勘定奉行から老中まで昇進し、佐渡金山統括の任にも就いている。
一里塚に植える樹木に榎が選ばれたのは、選定に窮した長安が秀忠に問うたところ、「松とは異な木にせよ」と言われ、「異な木」と「榎」を聞き間違えて榎を選定したとの逸話が残されている。話としては面白いが、優秀な能吏である長安がそんな重要なことを聞き間違える訳がない。街道に多く植えられた松とは別の種にしろと指示されたのは事実かもしれないが、榎を選定したのは、長安の考えであろう。
一里塚は現代でいうと道の駅、あるいは高速のサービスエリアみたいなもので、旅人の目標となるだけでなく、茶屋などが設けられ、休憩することもできた。
その江戸時代のものが今に現存しているというのは、すごいことではないだろうか。

笠寺の一里塚


↓ よろしかったら、クリックお願いします。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ
にほんブログ村

和風ブログ・サイトランキング

菊川坂石畳

2010年12月17日 | 江戸の交通
江戸時代の東海道は、区間によっては狭い場所も、険しい場所もあった。
急な坂道には滑りを防止するために石畳が敷かれた。
石畳のほうが滑りそうな気がしてしまうのは現代人の感覚で、実際に歩いてみると、意外なくらい滑らない。
現に金谷の石畳にある地蔵尊は「すべらず地蔵」と呼ばれ、受験生の人気を集めている。
現在、残されている石畳は、後世になって復元されたものが多く、江戸時代の石畳はあまり現存していない。
その中で静岡県菊川市の石畳も数少ない「本物」のひとつ。
全長は600m強だが、大部分は復元されたもので、「本物」は161mに過ぎない。
石畳は何年かすると、すっかり本物らしく古びて見える。
後輩も先輩も同じような顔つきになっているが、同じ石でも、江戸時代からのものと知って歩くと、やはり感慨深い。
この石畳の上を江戸の人間が歩いたのだと思うと、過去と現代が繋がって思える。
十返舎一九も松尾芭蕉も参勤交代の大名も歩いた。
人が文を書いたり、絵を描いたりするのは、未来と繋がりたいと思う心からである。
人が生きてきた道を足跡と表現するが、東海道にあって、昔も今も変わらぬ道の上で、文字通り足跡を合わせると、しばし時間が止まったような錯覚に陥ってしまった。

近くをトラックが行き交うが、この空間だけは時間が止まったよう。それだけに少し分かりにくい場所にある。


江戸時代後期のものとされる石の部分


↓ よろしかったら、クリックお願いします。


人気ブログランキングへ






大名の通勤ラッシュ

2009年10月09日 | 江戸の交通
江戸時代、江戸は武家の町だった。
江戸の人口は二百万人を超え、世界最大の都市だったと言われるが、実態はよく分からない。
これは、各地から江戸屋敷に詰めに来ている勤番武士の総数がはっきりしないからである。
武士は戦士である。その総数を発表するというのは兵力を公表することになるから公表されなかった。
江戸時代も後期になってくると、多分に見栄なども働いて尚更、発表を控えたのであろう。

江戸の人口については → こちらをクリック

土地の占有率から見ると、これは具体的に分かる。大雑把だが、
武家地70%  寺社地15%  町人地15%である。

大名の屋敷というのは、大体において上屋敷中屋敷下屋敷の三つに分かれる。
大体において、と言ったのは、中には中屋敷を持たない大名もいたし、複数の下屋敷を所持している大名も多かったからである。
屋敷というと殿様の江戸邸宅のように思われるかも知れないが、邸宅というよりは会社、あるいは役所に近い
国許と東京にそれぞれ本社を置いているような格好である。
殿様を議員に喩えると、江戸城は国会であろう。殿様の仕事としては江戸城へ行くのが一番重要な任務であったが、毎日登城した訳ではない。
定例としては大体月3回、その他、正月や八朔(8月1日)のようにあらかじめ決められた日取りと、子息生誕のような慶事、あるいは弔事のために臨時に登城する場合があった。

殿様は江戸城にほど近い上屋敷に住んでおり、登城ももちろん駕籠によるものであるから、通勤もさぞ楽かと思うと、さにあらず。

三百諸侯のうち、江戸詰めのある二百もの大名が何十人もの従者を引き連れて、一斉に登城するのである。
行列の人数は家格によって異なったが、外様の雄藩である広島藩の場合は八十人であったという。
この時代、武士が公式行事に遅れるのは厳禁である。
御城から歩いて何分も掛からないとことに住む大名も二時間前には屋敷を出て、城に向かったのである。
それこそ御城前は大層な混雑振りだったのであろう。

江戸時代は格式の時代であるから、大名が駕籠で乗り入れられる場所や伴ってよい従者の数も決められていた。
どんな大大名も城の奥に進むに伴って、駕籠を降ろされ徒歩で進むしかなく、従者の数も段々と減らされ、最後は一人で玄関を潜る。
心理的な圧力をかけると言う点では、効果的だ。
城の内部に入っても様々なしきたりがある。刀はどこまで持っていっていいか、着るものは何か。
儀礼ともなれば尚更で、忠臣蔵の浅野内匠守などはそのストレスに参っていたという説もある。
大名の登城もなかなかストレスの溜まるもので、楽ではなかったようだ。

「大名屋敷の謎」 安藤優一郎 集英社新書
 

↓ よろしかったら、クリックお願い致します。
人気ブログランキングへ



舟橋

2009年08月01日 | 江戸の交通
前回、佐屋路について述べたが、宮からは東海道と中山道を結ぶ美濃路という脇往還も通っていた。
土地勘がないと分かりにくいのだが、美濃路は宮から名古屋、清州、稲葉、萩原、起、墨俣、大垣を経て垂井に至る道である。
現代の土地名でいうと、名古屋から清州、稲沢、一宮を経て大垣、垂井に至る道のりである。
この宿の一つ、起は、舟橋で有名であった。
この橋は、起川(木曽川)上に架けられたものである。
270隻の舟の上を橋を渡し、全長は800mになった。
起川は通常は渡船によって渡ったが、将軍上洛時や朝鮮通信司が通行の際は、臨時の舟橋を設けた。
この橋を渡す労力はかなりのもので、撤収にも何ヶ月も掛かったという。

この川は、吉宗が輸入した象も渡った。
その際は三方を囲んだ巨大な筏をつくり、その絵に象を乗せて運んだという。


模型は一宮市尾西歴史民族資料館にて見ることができる。
0586-62-9711 一宮市起字下町211番地 月曜休館

↓ よろしかったらクリックお願い致します。
人気ブログランキングへ

佐屋の渡し

2009年07月20日 | 江戸の交通
東海道中、唯一の海路である七里の渡しはよく知られている。
熱田宮から桑名まで舟で渡っていくのであるが、当然、風が強い時、波の高い時などは欠航となったし、欠航にならないまでも悪天候時には、揺れて船酔いになる旅人も少なくなかった。
東海道中において、この桑名の渡しは絶対に避けて通れなかったのか、というとそうではない。
佐屋の渡しというものが存在していたのである。
この渡しの海路は三里。桑名の渡しより半分以下である。
宮からは陸路で六里行かなければならないので、都合九里。
桑名の渡しよりは時間も金も掛かったが、その安全性ゆえ交通量も多かった。
この佐屋廻りが整備されたのは三代将軍家光の時。寛永十一年(1634年)に、家光が三回目の上洛を果たした帰路の際に、この佐屋を経由している。
この佐屋宿までは熱田から次のような行程であった。

熱田宿 →(二里・8km)→ 岩塚宿(名古屋市中村区岩塚町) →(十八町・2km)→ 万場宿(名古屋市中川区富田町万場)→(一里二十七町・7km)→ 神守宿(津島市神守町) →(一里二十七町・7km)→ 佐屋宿(海部郡佐屋町)
 
佐屋宿は本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠が三十一軒となかなか立派な宿であり、支配は尾張領、家数二百九十軒、人口1,260人であった。

このような規模の宿も今では存在すら忘れ去られ、ひっそりしている。

↓ よろしかったらクリックお願い致します。
人気ブログランキングへ




七里の渡し・桑名編

2009年02月18日 | 江戸の交通
東海道で宮から桑名へ行くには海上便が使われた。
この経緯については、以前にも書いたが、このルートだと関ヶ原を通らない。
参勤交代の外様大名が関ヶ原を通らないように、このようなルートにしたという説があるが、信憑性がある。

このルートで私が勘違いしていたことがある。
舟は名古屋港の岸からさほど遠くないところを通る。「渡し」という語感からは川を想像させるが、名古屋港を通るという先入観があるから、舟は港から港へ行ったのだと思っていた。今で言う「クルーズ」という趣き。
だが、現地に行ってみると、どちらも川から発着することが分かる。
宮の方は、堀川であり、桑名側は揖斐川である。
桑名の渡し跡に立っても、海は見えない。
今は大層のんびりした場所で、側を通る道路に車さえ通らなければ、まったく物音もしない不思議な空間である。
昭和34年の伊勢湾台風以来、七里の渡しと川の間には堤防ができたため、景観はすっかり変わってしまったと言う。
もちろん、今では港としての機能も全くない。
この場所に鳥居があるのは、伊勢神宮の一の鳥居である。桑名は、もう伊勢神宮の入り口であった。
旅人はこの鳥居を見て、旅情を高ぶらせたであろう。
同じく、この地にあったのが、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)である。
これは、交通安全の意味合いもあったのだろうが、七里の渡しのシンボル的存在であった。
今でも夜にライトアップされたこの櫓は見応えがある。
その後、この藩が、幕末に佐幕派として凄惨な目に遭うとは、江戸時代の旅人も誰も思わなかったに違いない。


今でも威風がある伊勢神宮の一の鳥居

カップルがまったりとした時間を過ごしていた。

蟠龍櫓。時間帯によっては、中に入ることができる。

櫓の二階に登り、揖斐川を眺めた。

よろしかったらクリックお願いします。


改め婆

2009年01月08日 | 江戸の交通


年明け早々から下世話な話題で恐縮です。

東海道新居の関は、現存する関所として遺構を今に残している。
この関所はかなり取り調べが厳しいことで知られていた。
特に出女と言われ、女性の出入りは厳しく調べられた。
出女とは、江戸から京都方面へ上る女性のことで、人質として江戸に住まわされていた大名の妻が逃亡するのを禁じていた幕府は、特に厳しく取り締まった。

女性から見ると、関所は主に4つに分類された。
①すべての女性の通行を禁止する。
②関所周辺の女性に限り、名主、庄屋の証文で通行させる。
③特定の役所の証文を持参する女性に限り通行させる。
④幕府留守居発行の証文を持つ女性に限り通行させる。

このうち、新居は④であった。
④であっても、江戸へ下る方向には、手形が必要なくなる箱根の関所のようなところもあったが、新居は、上り下りとも女性に関しては手形が必要であった。
男性については、関所手形はグループに一通あればよかった。これは、名主や大家が発行するのが普通であった。
ただ、旅行には、行き倒れたときの処置などを記した往来切手というものが必要で、これは菩提寺の住職に書いてもらった。身分証明書を兼ねたパスポートのようなもので、これは一人につき、一通が必要であった。

改め婆は、証文を持った者が本人に違いないか、女性を取り調べるのであるが、上にある絵のように、股ををめくらされるのは、男性のほうだった。もっとも、むつけき髭面などは、取り調べられないのだろうが、今時のイケメンなどは、みな股間に虫眼鏡を当てられるであろう。
改め婆は、男装した女性がいないか、服をまくらせ、股間をも調べたのである。改め爺では、同性同士とはいえ、調べるほうも、調べられるほうも、お互いに気詰まりに違いない。

婆にしろ、爺にしろ、取り調べを受けるのは、気持ちのいいものではないが、現代でもこれに近いことが行われている。
それは、オリンピックなど大きなスポーツ大会におけるドーピングチェックである。
友人にレスリングのオリンピック候補になった者がいるのだが、ドーピングチェックにおいては、検査員がトイレの個室の中まで入ってくると言っていた。
かつては、パンツの中に袋を隠し持ち、検査コップに偽の尿を入れたりする者もいたそうで、検査を徹底させるために、尿を絞り出すまで見ているらしい。
どの大会でもそうなのか、女性はどうなのか知らないが、これまた気持ちのいい話ではない。
尿を絞り出す気力も失せるなか、なかなか検査できない選手もいるのではないだろうか。

新居ものがたり 新居市教育委員会
東海道膝栗毛の旅 人文社

↓ よろしかったらクリックお願いします。


数字を見たら、時代が見えてきた→来なかった 宿場町編

2008年02月03日 | 江戸の交通
迂闊なことだが、私が旧東海道と、新幹線が走る今の東海道が別であると知ったのは、大学のときであった。旧東海道は、宮(熱田)から七里の渡しに乗って、海路で桑名に行く。
このため、「東街道」ではなく、「東海道」だと言う人もいる。
このルートだと不破の関(関が原)を避けることになる。
推理の域を出ないが、島津、長州、薩摩などの武将が参勤交代の際に、関ヶ原を通り、その度に合戦のことを思い出されてはかなわないと幕府が考えたためとも言われている。
旧東海道で、一番の宿場がどこかというと、冒頭にちらっと出たである。
天保14年の『東海道宿村大概帖』からの数字であるが、宮の旅籠数は248軒。
その後、桑名の120軒岡崎の112軒品川の93軒と続くのでダントツである。(五十三次の平均は、56.4軒)
人口も10,342人と賑わいを見せている。街道で一番人口が多いのは大津で14,892人、続いて現在の静岡市にあたる府中が14,071人。宮は第三位にあたる。
人口の割りに旅籠が多いのは、箱根と滋賀の坂下である。
数字から、何か読み取れるかと思ったのであるが、今回は単なる数字の羅列になってしまい、すみません。
写真は、下が御油の松並木、その下が七里の渡し