木村忠啓の大江戸百花繚乱

スポーツ時代小説を中心に書いている木村忠啓のブログです。

佐屋の渡し

2009年07月20日 | 江戸の交通
東海道中、唯一の海路である七里の渡しはよく知られている。
熱田宮から桑名まで舟で渡っていくのであるが、当然、風が強い時、波の高い時などは欠航となったし、欠航にならないまでも悪天候時には、揺れて船酔いになる旅人も少なくなかった。
東海道中において、この桑名の渡しは絶対に避けて通れなかったのか、というとそうではない。
佐屋の渡しというものが存在していたのである。
この渡しの海路は三里。桑名の渡しより半分以下である。
宮からは陸路で六里行かなければならないので、都合九里。
桑名の渡しよりは時間も金も掛かったが、その安全性ゆえ交通量も多かった。
この佐屋廻りが整備されたのは三代将軍家光の時。寛永十一年(1634年)に、家光が三回目の上洛を果たした帰路の際に、この佐屋を経由している。
この佐屋宿までは熱田から次のような行程であった。

熱田宿 →(二里・8km)→ 岩塚宿(名古屋市中村区岩塚町) →(十八町・2km)→ 万場宿(名古屋市中川区富田町万場)→(一里二十七町・7km)→ 神守宿(津島市神守町) →(一里二十七町・7km)→ 佐屋宿(海部郡佐屋町)
 
佐屋宿は本陣が二軒、脇本陣が一軒、旅籠が三十一軒となかなか立派な宿であり、支配は尾張領、家数二百九十軒、人口1,260人であった。

このような規模の宿も今では存在すら忘れ去られ、ひっそりしている。

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七里の渡し・桑名編

2009年02月18日 | 江戸の交通
東海道で宮から桑名へ行くには海上便が使われた。
この経緯については、以前にも書いたが、このルートだと関ヶ原を通らない。
参勤交代の外様大名が関ヶ原を通らないように、このようなルートにしたという説があるが、信憑性がある。

このルートで私が勘違いしていたことがある。
舟は名古屋港の岸からさほど遠くないところを通る。「渡し」という語感からは川を想像させるが、名古屋港を通るという先入観があるから、舟は港から港へ行ったのだと思っていた。今で言う「クルーズ」という趣き。
だが、現地に行ってみると、どちらも川から発着することが分かる。
宮の方は、堀川であり、桑名側は揖斐川である。
桑名の渡し跡に立っても、海は見えない。
今は大層のんびりした場所で、側を通る道路に車さえ通らなければ、まったく物音もしない不思議な空間である。
昭和34年の伊勢湾台風以来、七里の渡しと川の間には堤防ができたため、景観はすっかり変わってしまったと言う。
もちろん、今では港としての機能も全くない。
この場所に鳥居があるのは、伊勢神宮の一の鳥居である。桑名は、もう伊勢神宮の入り口であった。
旅人はこの鳥居を見て、旅情を高ぶらせたであろう。
同じく、この地にあったのが、蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)である。
これは、交通安全の意味合いもあったのだろうが、七里の渡しのシンボル的存在であった。
今でも夜にライトアップされたこの櫓は見応えがある。
その後、この藩が、幕末に佐幕派として凄惨な目に遭うとは、江戸時代の旅人も誰も思わなかったに違いない。


今でも威風がある伊勢神宮の一の鳥居

カップルがまったりとした時間を過ごしていた。

蟠龍櫓。時間帯によっては、中に入ることができる。

櫓の二階に登り、揖斐川を眺めた。

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改め婆

2009年01月08日 | 江戸の交通


年明け早々から下世話な話題で恐縮です。

東海道新居の関は、現存する関所として遺構を今に残している。
この関所はかなり取り調べが厳しいことで知られていた。
特に出女と言われ、女性の出入りは厳しく調べられた。
出女とは、江戸から京都方面へ上る女性のことで、人質として江戸に住まわされていた大名の妻が逃亡するのを禁じていた幕府は、特に厳しく取り締まった。

女性から見ると、関所は主に4つに分類された。
①すべての女性の通行を禁止する。
②関所周辺の女性に限り、名主、庄屋の証文で通行させる。
③特定の役所の証文を持参する女性に限り通行させる。
④幕府留守居発行の証文を持つ女性に限り通行させる。

このうち、新居は④であった。
④であっても、江戸へ下る方向には、手形が必要なくなる箱根の関所のようなところもあったが、新居は、上り下りとも女性に関しては手形が必要であった。
男性については、関所手形はグループに一通あればよかった。これは、名主や大家が発行するのが普通であった。
ただ、旅行には、行き倒れたときの処置などを記した往来切手というものが必要で、これは菩提寺の住職に書いてもらった。身分証明書を兼ねたパスポートのようなもので、これは一人につき、一通が必要であった。

改め婆は、証文を持った者が本人に違いないか、女性を取り調べるのであるが、上にある絵のように、股ををめくらされるのは、男性のほうだった。もっとも、むつけき髭面などは、取り調べられないのだろうが、今時のイケメンなどは、みな股間に虫眼鏡を当てられるであろう。
改め婆は、男装した女性がいないか、服をまくらせ、股間をも調べたのである。改め爺では、同性同士とはいえ、調べるほうも、調べられるほうも、お互いに気詰まりに違いない。

婆にしろ、爺にしろ、取り調べを受けるのは、気持ちのいいものではないが、現代でもこれに近いことが行われている。
それは、オリンピックなど大きなスポーツ大会におけるドーピングチェックである。
友人にレスリングのオリンピック候補になった者がいるのだが、ドーピングチェックにおいては、検査員がトイレの個室の中まで入ってくると言っていた。
かつては、パンツの中に袋を隠し持ち、検査コップに偽の尿を入れたりする者もいたそうで、検査を徹底させるために、尿を絞り出すまで見ているらしい。
どの大会でもそうなのか、女性はどうなのか知らないが、これまた気持ちのいい話ではない。
尿を絞り出す気力も失せるなか、なかなか検査できない選手もいるのではないだろうか。

新居ものがたり 新居市教育委員会
東海道膝栗毛の旅 人文社

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数字を見たら、時代が見えてきた→来なかった 宿場町編

2008年02月03日 | 江戸の交通
迂闊なことだが、私が旧東海道と、新幹線が走る今の東海道が別であると知ったのは、大学のときであった。旧東海道は、宮(熱田)から七里の渡しに乗って、海路で桑名に行く。
このため、「東街道」ではなく、「東海道」だと言う人もいる。
このルートだと不破の関(関が原)を避けることになる。
推理の域を出ないが、島津、長州、薩摩などの武将が参勤交代の際に、関ヶ原を通り、その度に合戦のことを思い出されてはかなわないと幕府が考えたためとも言われている。
旧東海道で、一番の宿場がどこかというと、冒頭にちらっと出たである。
天保14年の『東海道宿村大概帖』からの数字であるが、宮の旅籠数は248軒。
その後、桑名の120軒岡崎の112軒品川の93軒と続くのでダントツである。(五十三次の平均は、56.4軒)
人口も10,342人と賑わいを見せている。街道で一番人口が多いのは大津で14,892人、続いて現在の静岡市にあたる府中が14,071人。宮は第三位にあたる。
人口の割りに旅籠が多いのは、箱根と滋賀の坂下である。
数字から、何か読み取れるかと思ったのであるが、今回は単なる数字の羅列になってしまい、すみません。
写真は、下が御油の松並木、その下が七里の渡し