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大江戸百花繚乱 花のお江戸は今日も大騒ぎ

スポーツ時代説家・木村忠啓のブログです。時代小説を書く際に知った江戸時代の「へえ~」を中心に書いています。

首尾の松

2010年01月28日 | 町人の暮らし
先週、両国から吉原まで歩いてみた。
両国から浅草までは川沿いを歩き、浅草寺を通って待乳山聖天宮を経て、山谷堀、日本堤、吉原大門という道程である。

歩いてみて印象的だったのは浅草寺の賑わい。
外国の人を含め、進むのも困難なくらいの混雑振りであった。

隅田川沿いは歩道が整備され、歩きやすい。
ちらほらと観光目的で歩いている人も見かける。
両国から浅草にかけての見所としては、国技館、安田庭園、首尾の松、といったところ。

首尾の松は隅田川沿いに張り出す見事な枝振りで、江戸時代、舟通いの客にとってもっとも目立つ存在であった。吉原の帰りに客が「首尾はどうだった」と確認を行う場所とも言われたのが、首尾の松の語源とされる。
実際に見に行くと、隅田川からは少しだけ離れた場所にある。この位置だと、安藤広重の絵のように隅田川まで張り出すのは難しいと思える。場所が移ったのだろか。
それに、いかにも小振りである。
現地にあった説明文を読むと、この松は昭和37年に植えた7代目だそうだ。
初代は、江戸初期に植えられたが、安永年間に風害で倒れ、代わりに植えられた二代目も安政年間に枯れたとされる。
松が百年の間にどれだけ大きくなるのか知らないが、少なくとも、安政年間には目印になるほど大きな松の木はなかったことになる。
安政以後はたびたび木は枯れ、明治には「湖畔の蒼松」に改名したというが、重厚すぎるネーミングである。
「首尾の松」の由来にも3種類あるらしいが、吉原通いの客が首尾を確認したという案が一番しっくり来る。



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日本最古の企業・金剛組

2009年11月25日 | 町人の暮らし
高知の司牡丹酒造㈱が坂本龍馬にちなんだ酒を発売するという。
江戸時代の製法で作られた日本酒と塩辛をぐい飲みとセットにして販売。価格は2万円ということで、随分と高価である。
この司牡丹酒造であるが、創業が1603年(慶長八年)。徳川家康が江戸に入京した年である。
酒造会社は、江戸時代に創業した会社が多いが、考えてみれば競争の激しい現代社会において、江戸期創業の会社が脈々と続いているのはすごいことだ。

そう思って、日本最古の会社を見てみると、大阪で寺社の設計施工を行っている金剛組という会社の創業年が578年
実に飛鳥時代。聖徳太子の時代にまで遡るので、抜群に古い。もとは宮大工の集団だったというが、現代に至るまで会社が存続しているのは、はなはだ凄い。

古くから存続している企業は、酒、味噌、醤油など、古来からあるものを作っている会社が多い。
他には旅館や運送業などといったところもある。
よく耳にするところでは、布団の西川産業(1566年・永禄9年)ヤマサ醤油(1645年・正保2年)、岡崎のまるや八丁味噌(1337年・延元2年)などが上げられる。
旅館では仙台のホテル佐勘が平安時代の創業、運送業では静岡県清水市のアオキトランス㈱が1615年(元和元年)に大坂夏の陣で徳川家康の兵器を運んだのを始まりとするという。

永らく存続している会社を見ると、意外なくらい小規模な会社が多いことに気づく。
中日新聞の調べだと、売上高が5億円未満の会社が全体の三分の二を占める。
資本金でみても、2000万円未満の会社が三分の二である。
先日、穴吹工務店の会社更生法のニュースが伝えられたが、負債額が1509億円。
穴吹工務店の創業は1905年。100年企業ではあるが、企業も巨大になりすぎると、人間のメタボリック症と同じように、動きが鈍くなり、身体のあちらこちらが早く病むようになってしまうのかも知れない。


金剛組HP

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江戸時代の専制政治

2009年05月25日 | 町人の暮らし
東京のお茶の水にニコライ堂という教会がある。
設計は、ジョサイア・コンドル。
日本でも人気の高い設計家の手による教会は建物としての認知度が高く、冠となったニコライの名を知る人はあまりいない。
このニコライは幕末から明治にかけてキリスト教の布教のために来日したロシアの宗教家である。
ニコライが初来日したのは、1861年。まさに、幕末の混乱期である。
このニコライは、鋭い観察眼と正確な情報処理能力を持っていた。
日本人の宗教観などについても、正鵠を得た意見を述べているのだが、徳川政権下における一般市民についての考察も興味深い。

これが専制政治と言えるだろうか? 一切抗言できぬ服従と盲従はどこにあるのだろう? 試みにこの国のさまざまな階層の人々と話を交わしてみるがよい。片田舎の農民を訪ねてみるがよい。政府について民衆が持っている考えの健全かつ自主的であることに、諸君は一驚することだろう。

民衆について言うならば、日本の民衆は。ヨーロッパの多くの国民に比べてはるかに条件はよく、自分たちに市民的権利があることに気がついてよいはずだった。ところが、これらの諸々の事実にもかかわらず、民衆は、自分たちの間に行われていた秩序になおはなはだ不満だったと言うのだ! 商人はあれやこれやの税のことで不満を言い(実際にはそおの税は決して重くはないのだ)、農民は年貢の取り立てで愚痴を言う。また、誰もかれもが役人を軽蔑していて、「連中ときたら、どいつもこいつも袖の下を取る。やつらは禄でなしだ」と言っている。
 そして民衆はおしなべてこの国の貧しさの責任は政府にあるあると、口をそろえて非難している。そうしたことを聞くのはなかなか興味深いことであった。それでいて、この国には乞食の姿はほとんど見かけないし、どの都市でも、毎夜、歓楽街は楽と踊りとで賑わいにあふれているのである。


このニコライの論文は一八六九年(明治二年)に書かれたものである。ニコライが滞在していたのは、函館であったが、北の地にあって、日本を見る目は驚くほど正確である。
上に引用した文も、現在でも通用するような日本人論ではないだろうか。
いつの時代が住みやすいかなどとは言えないが、江戸時代もひどい圧政の時代ではなかったようである。


ニコライの見た幕末日本 ニコライ(中村健之助訳) 講談社学術文庫

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わらじの履き方って?

2008年09月11日 | 町人の暮らし
草鞋(わらじ)というと、雪駄の藁版のように思う人もいると思うが、雪駄がサンダルだとすると、草鞋は紐靴である。
しかも、草鞋の履き方がややこしい。
説明書を見ながら履かないと、履けないような代物である。
こんなにややこしいものだとは知らなかった。
草鞋の履き方の丁寧な写真解説が豊川市民族資料博物館に展示してあったので、下記にご紹介します。


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江戸の貨幣単位

2008年08月23日 | 町人の暮らし
北京オリンピック陸上400m、日本初のメダル獲得おめでとうございます。

先日、名古屋の伏見にある東京UFJ銀行貨幣資料館に行って来た。
無料の資料館ながら、さすがに銀行が運営している資料館であり、本物の小判、大判、藩札などが展示されていて興味深かった。
惜しむらくは、土日閉館である。
さて、この資料館で、江戸の貨幣についての分かりやすいリーフレットを入手した。
忘備録的な意味合いも含めてアップしておきます。



東京三菱UFJ銀行貨幣資料館UPL

江戸の貨幣Q&A

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坊ちゃんが、さぼっていたので吃驚(びっくり)!

2008年04月15日 | 町人の暮らし
坊ちゃんが、さぼっていたので吃驚(びっくり)!

冒頭から、一体なんのことだろう。
何かを覚えるための語呂合わせ?
何かのパロディ?
いえいえ、これは、全部、江戸時代には口にされなかった言葉なのである。
江戸において、坊や、坊主、坊などの言葉は使われたが、坊ちゃんという言葉は使われなかったようである。坊様という語が坊ちゃんに当たる語として使われており、坊ちゃんそのものは、明治以降の語である。
サボるは、フランス語の労働争議での怠業を意味するsabotageから来ており、びっくりは、ドイツ語Wirklichに語源があるとされる。これらも、江戸の時代においては、まだ登場していない。
「だぶる」なども英語のdoubleからきており、同様である。
では、次は、どうだろうか。

非常口から出た、かまととなおてんばが、群集の中に消えた。

勘のいい方ならお分かりであろうが、これは、全て江戸時代には既に使われていた言葉である。
どれも、江戸時代においては、あまり似つかわしくないような語感であるが、非常口は、江戸時代には既に使われていた。
かまととも、幕末には使われていた言葉である。ただし、江戸では一般的でなく、上方言葉であった。蛇足ながら、意味は「誰でも知っているようなことをわざと知らないような振りをして、無邪気を装うこと」である。一定の年代であれば「ブリっ子」という言葉が懐かしく思いだされるかも知れない。
おてんばは、オランダ語に語源があるという説もあるが、詳細は不明である。しかし、近松門左衛門も使用しており、軽はずみな女性を指した。
群集は、江戸時代には「くんじゅ」と読まれたのであるが、意味は現代で使う意味と変わらない。
当然であるが、江戸時代では、意外な言葉が使われていたり、意外な言葉が使われていなかったりする。

松村明 「江戸ことば 東京ことば辞典」 講談社学術文庫

洲崎の潮干狩り

2007年05月11日 | 町人の暮らし
 江戸時代、町民は四季折々の行事を楽しみにしていた。いつでも時期でない野菜が食べられる現代と違って、春には春の、夏には夏の、秋には秋の野菜や食べ物があり、さまざまな行事があった。3月3日には「汐干」といって各地で潮干狩りが行われた。『東京歳時記』によると「芝浦・高輪・品川沖・佃島沖・深川洲崎・中川の沖、早朝から船に乗り沖に出て、潮が引いた頃から海岸に降りてカキ・蛤を拾い、ヒラメや小魚を獲って宴を開く」とある。蛤・カキにヒラメとは何とも豪華で、江戸市民ならずとも是非行ってみたくなる。また、この辺りは風光明媚なところで、眺望のよさでも人気があった。元禄3年(1700年)頃、5代将軍徳川綱吉の発願という洲崎弁財天が建立され、江戸名所となる。現在のザル蕎麦、蕎麦をざるに盛って提供するスタイルはこのころはまだ定着していなかったが、「洲崎のザル蕎麦」というものが有名となる。しかし、寛政3年8月、9月に高波が発生し、三百軒の民家が流され、多くの死傷者を出した。この事件により、洲崎人気は陰りがさしたものの、江戸名所としての地位は揺るがなかった。
深川資料館~資料館ノート参考
 洲崎神社

時刻のはなし①

2006年06月23日 | 町人の暮らし
江戸時代の時間は、現代人と感覚があまりに違うので、現代では、一刻(イットキ)=2時間という説明が一般的である。
これは単純に24時間を12で割ったからに過ぎない。
大体、小説でも、
六ツ(夕方6時頃)
などと括弧書きで説明が入れられている。

一覧にしてみると、

(現代)  (江戸時代)     
 0時・・・九ツ       
 2時・・・八ツ
 4時・・・七ツ
 6時・・・明六ツ ・・・日の出
 8時・・・五ツ
10時・・・四ツ
12時・・・九ツ
14時・・・八ツ
16時・・・七ツ
18時・・・暮六ツ ・・・日の入り
20時・・・五ツ
22時・・・四ツ

と、なる。

昼と夜がそれぞれ6つに分割されていた。
明六ツから、暮六ツが昼の部で、暮六ツから明六ツまでが夜の部。
深夜0時と正午12時を九ツとし、夜の部は九ツから始まって四ツへと逆に数えていく。
四ツの次はまた九ツにもどって、逆算していく。
一~三までは時刻に存在しなかった。
実にへんてこりんであるが、そう決まっていた以上、現代人がいまさら文句を言うわけにもいくまい。

この時間の特徴は日照時間によって、昼と夜の一刻の長さが変化していく点である。
現代だって、
「夜って何時から?」
と、聞かれたら、
「夏と冬では違うからなあ」
と、思う。
その感覚である。

ここで、東京の夏至と冬至の時間を見てみる。

夏至 昼14時間35分  夜  9時間25分
冬至 昼 9時間45分  夜 14時間15分

これをそれぞれ6で割ってみると、江戸時代の一刻と近似した時間が得られる。

夏至 昼2時間25分 夜1時間34分   
冬至 昼1時間38分 夜2時間23分   

実際には、江戸時代では下記のようになっていた。

夏至 昼2時間40分  夜1時間20分
冬至 昼1時間50分  夜2時間10分


夏と冬では昼間の一刻が50分も違う。
これによると、夏至は暮六ツが19時38分であるのに対し、冬至では17時7分になる。
同じ暮六ツでも、かなり違うと思いませんか?
暮六ツ=18時頃
という説明に無理があることがお分かり頂けたかと思います。

このややこしい不定時法であるが、江戸の人も多くの利点があったから採用していた。

第一にこの方法だと太陽の位置で大体の時間が分かる。
江戸の人はよほどでない限り時計など持っていなかったので、お日様の位置で時間が分かるのは大層便利だったのである。
時の鐘もあったし、分刻みのスケジュールを余儀なくされる現代人とは違うから、それで十分だったのである。
第二に、照明器具の乏しいこの時代は、太陽の明るさを利用しないと生活できなかった。日照時間により、昼間の長さを変化させることは非常に大事だったのである。
現代では24時間、昼間と変わらない光を持ち得たが、その代償として、24時間仕事をなし得る環境となってしまった。
どちらが、いいのだろうか・・・・。

大江戸生活体験事情 石川英輔・田中優子 講談社文庫
時代小説が書きたい  鈴木輝一郎 河出書房新書
江戸深川資料館 パンフレット
 

上水

2006年05月26日 | 町人の暮らし
今では蛇口をひねると、簡単に水が出る。あまりにも当たり前な話だが、ひと昔前までは水を汲むというのは面倒な作業だった。特に江戸中期(享保以降)になって井戸の掘削技術が進むまでは、海が近く水質の悪かった江戸では、水の手配には相当苦労した。
水道、という言葉も歴史は古く、この頃は文字通り水の道であった。
飲料水には、上水という言葉が当てられ、全盛期には江戸には六つの上水があった。
神田上水(?~明治) 水源・井の頭池 小川町、神田、柳原、両国、大手前、神田橋、鍛冶橋、京橋川、小網町
玉川上水(承応二年~明治) 水源・多摩川 四谷、麹町、赤坂、愛宕、金杉橋、桜田門、虎ノ門、数寄屋橋、八丁堀、築地 
亀有上水(万治二年~享保七年) 水源・元荒川(越谷) 本所、深川
青山上水(万治三年~享保七年) 水源・玉川上水分水 青山、三田、芝、白金
三田上水(寛文四年~享保七年) 水源・玉川上水分水 同上
千川上水(元禄九年~享保七年) 水源・玉川上水分水 小石川御殿、湯島聖堂、東叡山、浅草御殿の給水が目的だが、神田上水が給水できなかった本郷、湯島、外神田、下谷、浅草などへ給水
上水は最初、江戸城への水路確保の意味で着手され、それが町方にも供給されるようになった。
玉川上水が承応二年(1653年)であり、最も遅い千川上水が約40年遅れの元禄九年であるが、前述の通り井戸の掘削技術の進歩とともに上水は井戸水へと代わっていく。
上水廃止後は用水になったり、舟路になったりした。
千川上水は享保七年に一旦廃止後、天明元年に再開、わずか五年後の天明六年に廃止になるのであるが、水路が具体的にどのような流れだったのか詳細に見てみるのも面白い。千川上水は、保谷で玉川上水を分かれ、巣鴨から江戸に入り、最初に小石川御殿に入る。ついで、板橋から、王子、本郷、湯島と南下。湯島天神あたりを通りながら、上野広小路、浅草、蔵前という水道路を形成していた。上水廃止後は、明治期以降も用水として使われていたので、今も一部は暗渠としてその足跡を残している。
また、玉川上水は今も昔の面影を残していて、興味深い。

江戸上水道の歴史 伊藤吉一 吉川弘文館
東京都水道歴史館 http://www.waterworks.metro.tokyo.jp/pp/rekisi/index.html