交通事故で病院に運び込まれた患者。手術中、心臓が停止する。医学的に死んだ状態になる。
家族が泣き叫ぶベッドの中、この患者は目を覚ます。生き返ることができた。
彼は、何を語ったのだろうか。
体かから離脱し、自分の姿を上空から見つめた。自己現場の詳しい描写をしたばかりではない。手術室での執刀医師、看護師の人数、手術の様子、会話までも詳しく描写した。手術にたちあった人しか知りえることのない情報を語ったのだ。
意識がない全身麻酔の状態で、なぜそのような証言が可能なのだろうか。
「かいまみた死後の世界」(評論社)を読み進むにつれた、体外離脱、死後の光の世界の存在に関する数々の証言に圧倒される。
興味深いことに、臨死体験をした人は、その後、人生がまったくかわってしまうという。
光は愛の世界。すべての人がその愛の一部である。
愛の一部であるだけでなく、その全体でもあった。
一粒の雨(自分の意識)が大海(愛)に流れ込むように…
死の恐怖の中で生きていく必要がないことを、自らの体験をとおして、知ってしまったからだ。
「かいまみた死後の世界」(評論社)を読んだ数ヶ月後、立花隆氏によるNHKスペシャル臨死体験が放送された。
最も印象深かったのは、脳神経学者ペンフィールド博士の実験とコメントである。
ペンフィールド博士は、てんかんの治療のために、局部麻酔で患者が意識を保ったまま頭蓋骨を開き、脳を直接刺激して、患者の反応を調べた。この時、「シルビウス裂」を刺激すると、患者が、様々の幻覚を見たり、自分の肉体から自分が離れる体験や、神を見たり、死んだ肉親に出会ったりする体験を持つ事を確認した。
すべての臨死体験が「シルビウス裂」で説明できるかという問に、モース博士は、次のように答える。
「体外離脱をしている時に周囲の様子を見ているのが、魂なのか、それとも脳の何らかの機能なのかは説明がつかない。また、どうして、脳は、死ぬ直前になって初めてこのような現象が起こるようにプログラムされているのか説明できない。」
体外離脱体験は、側頭葉の「シルビウス裂」が起こす幻覚だとも考えられるし、魂と肉体とをつないだり切ったりするスイッチのような場所だとも考えられるわけで、この論争に終止符を打つ決め手にはならないことになる。
この実験結果から、博士は次のような結論を導いた。
「死後を無の世界だとします。人は死んだ後、意識がなくなりすべてがなくなると仮定します。だとすると、死の瞬間、人はそのまま死んでいくはずです。
しかし、実験の結果はそれを否定するものでした。人は死の瞬間に、人間の意識、あるいは、何らかの意識体とよべる物体が、肉体から離れるというプロクラムが脳になされていることがわかりしました。
これは、死後の世界が無であるとすると、まったく意味のない脳の機能です。この世界には、意味のない生物学的なプログラムというものはありません。
つまり、この体外離脱の機能は、死後の世界が無なのではなく、何らかの世界が継続することを意味していて…」
「シルビウス裂」を刺激して、臨死体験に近い幻覚を起こす実験をしたペンフィールド博士は、自分の死を迎える2年前に「あらゆる精神現象をすべて脳で説明できない」と言う結論に達していた。
彼の別荘の庭の片隅の石に、彼自身による落書きが残されている。ギリシャ語で、精神活動を意味する「ヌース」=脳とした絵の=の記号に、死の2年前の彼は、×印をつけた。
(興味のある方はどうぞ。)
「臨死体験〈上〉」 (文春文庫)
「臨死体験〈下〉 」(文春文庫)
生まれて初めて、死の恐怖が消えた。
幼少からの死に対する疑問が氷解した。
無意識の死後の状況をイメージして、気分が悪くなることがなくなった。
この臨死体験は
「うそ、まやかし、でっちあげ」
と思う人もいるだろう。
そう考えて当然だ。それがふつうの反応だろう。
だから、この臨死体験を信じる必要はない。
ただ、この本を読んでみてほしい。
何の固定観念ももたず、数々の証言に耳をかたむけてほしい。
そして、自分の心で判断してほしい。
真実かどうかを。
多くの方に楽しい旅をしていただければと思います。
応援のクリックをどうもありがとうございます。
家族が泣き叫ぶベッドの中、この患者は目を覚ます。生き返ることができた。
彼は、何を語ったのだろうか。
体かから離脱し、自分の姿を上空から見つめた。自己現場の詳しい描写をしたばかりではない。手術室での執刀医師、看護師の人数、手術の様子、会話までも詳しく描写した。手術にたちあった人しか知りえることのない情報を語ったのだ。
意識がない全身麻酔の状態で、なぜそのような証言が可能なのだろうか。
「かいまみた死後の世界」(評論社)を読み進むにつれた、体外離脱、死後の光の世界の存在に関する数々の証言に圧倒される。
興味深いことに、臨死体験をした人は、その後、人生がまったくかわってしまうという。
光は愛の世界。すべての人がその愛の一部である。
愛の一部であるだけでなく、その全体でもあった。
一粒の雨(自分の意識)が大海(愛)に流れ込むように…
死の恐怖の中で生きていく必要がないことを、自らの体験をとおして、知ってしまったからだ。
「かいまみた死後の世界」(評論社)を読んだ数ヶ月後、立花隆氏によるNHKスペシャル臨死体験が放送された。
最も印象深かったのは、脳神経学者ペンフィールド博士の実験とコメントである。
ペンフィールド博士は、てんかんの治療のために、局部麻酔で患者が意識を保ったまま頭蓋骨を開き、脳を直接刺激して、患者の反応を調べた。この時、「シルビウス裂」を刺激すると、患者が、様々の幻覚を見たり、自分の肉体から自分が離れる体験や、神を見たり、死んだ肉親に出会ったりする体験を持つ事を確認した。
すべての臨死体験が「シルビウス裂」で説明できるかという問に、モース博士は、次のように答える。
「体外離脱をしている時に周囲の様子を見ているのが、魂なのか、それとも脳の何らかの機能なのかは説明がつかない。また、どうして、脳は、死ぬ直前になって初めてこのような現象が起こるようにプログラムされているのか説明できない。」
体外離脱体験は、側頭葉の「シルビウス裂」が起こす幻覚だとも考えられるし、魂と肉体とをつないだり切ったりするスイッチのような場所だとも考えられるわけで、この論争に終止符を打つ決め手にはならないことになる。
この実験結果から、博士は次のような結論を導いた。
「死後を無の世界だとします。人は死んだ後、意識がなくなりすべてがなくなると仮定します。だとすると、死の瞬間、人はそのまま死んでいくはずです。
しかし、実験の結果はそれを否定するものでした。人は死の瞬間に、人間の意識、あるいは、何らかの意識体とよべる物体が、肉体から離れるというプロクラムが脳になされていることがわかりしました。
これは、死後の世界が無であるとすると、まったく意味のない脳の機能です。この世界には、意味のない生物学的なプログラムというものはありません。
つまり、この体外離脱の機能は、死後の世界が無なのではなく、何らかの世界が継続することを意味していて…」
「シルビウス裂」を刺激して、臨死体験に近い幻覚を起こす実験をしたペンフィールド博士は、自分の死を迎える2年前に「あらゆる精神現象をすべて脳で説明できない」と言う結論に達していた。
彼の別荘の庭の片隅の石に、彼自身による落書きが残されている。ギリシャ語で、精神活動を意味する「ヌース」=脳とした絵の=の記号に、死の2年前の彼は、×印をつけた。
(興味のある方はどうぞ。)
「臨死体験〈上〉」 (文春文庫)
「臨死体験〈下〉 」(文春文庫)
生まれて初めて、死の恐怖が消えた。
幼少からの死に対する疑問が氷解した。
無意識の死後の状況をイメージして、気分が悪くなることがなくなった。
この臨死体験は
「うそ、まやかし、でっちあげ」
と思う人もいるだろう。
そう考えて当然だ。それがふつうの反応だろう。
だから、この臨死体験を信じる必要はない。
ただ、この本を読んでみてほしい。
何の固定観念ももたず、数々の証言に耳をかたむけてほしい。
そして、自分の心で判断してほしい。
真実かどうかを。
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