クレリー他著 ジャック・ブロス編 福武書店 1989年 1400円
第一部の、クレリーの手記を読み終えたところである。
活字の海(仕込み編)の本書のコラムでも触れたが、クレリーはルイ16世と
その家族へ使える従僕として、タンプル塔での幽閉生活を支えた人物である。
クレリーと王室との関わりは古く、母親が王家の一人の乳母だったことに始まる。
その後、様々な王家との関わりの末に、王太子(後のルイ17世。僅か10歳で
夭折したフランス革命で不幸を蒙った王家のメンバーの中でも、その最右翼に
位置する人である)付きの従僕となっている。
しかも、革命時の動乱の影響で、一時は王家から離れたクレリーであったが、
王家がタンプル塔に幽閉されたことや、それまで王家に付き従っていた者達が
みな逮捕されたことを知ると、いてもたってもいられなくなり、様々な手段を
講じて、再び王太子付きの従僕としてタンプル塔に舞い戻るのだ。
そんなクレリーの人生を考えると、生粋の王党派であったことは間違いなく、
この手記もそうしたクレリーの目線からのもののため、どこまで表現を鵜呑みに
してよいものか、という課題はある。
がしかし、タンプル塔におけるルイ王家の生活を知る便が他に無いこともあり、
ここは素直に、クレリーの著し出すルイ16世の最後の日々が、真実を追って
いく道標であると思いたい。
そうした時、まず驚かされるのは、そこにいるルイ16世という人物が、
本当に当人なのか?ということである。
ツヴァイクに影響を受けたとされる「ベルサイユのばら」の人物像のイメージが
強いせいか(笑)、どうしてもルイ16世に対して好人物ではあるが決断力に
乏しく、国王としても、男性としても、その魅力に欠けていたという先入観を
持っていたが、少なくともクレリーにとってルイ16世は神聖にして不可侵な
国王中の国王として捉えられており、またルイ16世もそれによく応えている。
しかも、そのルイ16世の毅然とした受け答えを見ていると、そうした
クレリーのルイ16世像が、別に痘痕も笑窪という訳でも無さそうなのである。
世情と自分たちを取り巻く状況を冷静に判断し、自分の運命には一片の過度の
期待も持たず、運命に抗うことなく定めとして粛々と受け止めつつ、残される
家族には最大限の思いを寄せる。そんな男が浮かび上がってくるのだ。
しかも彼(=ルイ16世)は、クレリーをはじめとする、自分に最後まで忠実に
接してくれた人々に対する感謝の念もきちんと持つとともに、そのものたちが
自分への忠誠心からかえって危険な目に合わないような気配りも十分している。
ベルサイユ宮殿での豪奢な生活の日々から、正に坂を転げ落ちるような生活の
激変。それは、タンプル塔に幽閉されてからも留まるどころか、むしろ加速して
ゆく。
ベルサイユから王家が移されたテュイルリー宮は、既に王家の管理を離れて
久しく、浮浪者や犯罪者の半ば巣窟になり、荒れ果てていたという。
悪臭を放ち、不潔。雨漏り、窓の立て付け不具合による風雨の侵入といった、
殆ど幽霊屋敷の様相を呈していたテュイルリー宮での軟禁。
更には、そんな宮での生活すら奪われ、とうとうタンプル塔へ幽閉されることに
なった日々。
そこでは、クレリーを除けばかつては自分たちに御目文字も適わなかった
庶民達(正確には国民公会から派遣された監視兵や役人達)に、一挙手一投足
まで看視され、かつ蔑まれるという屈辱を味わわされる。
やがて国民公会によって王制が否定されると、国王という署名も認められなく
なり、ルイ16世、やがてはルイ・カペーという自らのものでもない名前を
名乗らされることになってしまった彼。
#ルイ・カペーという名前が何処から来たのか不思議だったが、本書を読んで
裁判でルイ・カペーと呼ばれたルイ16世の反論(それは先祖の名前であり、
自分のものではない)を読んで、初めていきさつを理解できた。
ちなみに、マリーは、その裁判で名すら与えられず、カペー寡婦と称された。
#ルイ16世に死刑が宣告されてからは、自殺を防ぐために食事にナイフすら
与えられないようになっていた。
しかし、それらの境遇にも、ルイ16世は本当に黙々と耐えていく。
その忍従は、あまりにも違いすぎる革命前後の生活のギャップがもたらしたもの
なのかも知れない。
自分達を取り巻く境遇の差が大きすぎて、時代の流れが不可逆的なものである
ことを弥が上にも認識せざるを得なかったのではないかと思えるためであり、
ある意味地上の栄華を極めた境遇にあったからこそ、諦観も出来たのでは?と
穿った考えも持ってしまう。
だが、例え何が彼の心にあったのかはともかく、この書物の中に示される
ルイ16世の立ち振る舞いは、例え身は幽囚されていようと王のそれである。
このようなルイ16世をして、この本の編者であるブロスはこのように称している。
「タンプル塔で過ごした日々のあいだに、優柔不断な見かけだおしの国王と
軽薄で悪意に満ちた王妃は、模範的な人物、悲劇の主人公となり、やがて
伝説の仲間入りを果たすことになる。
(中略)
その大塔では粗暴で無作法な連中に囲まれて、威厳と忍従に満ちた一家が
暮らしていた。」
このクレリーの手記を読む限りにおいて、まさしく上記の表現のとおりの
一家がそこにはあった。
夫は家族を常に庇い、子供に最大限の愛情を注ぐ。
妻は夫のことを一心に思いつつ、やはり子供に対して出来るだけの心配りを
している。
そして、ルイ16世の妹であるエリザベート内親王も、また然り。
処刑前日になって、ようやくルイ16世は家族と再び時間を過ごせるように
なった(裁判と同時に、国民公会はルイ16世を家族から引き離してしまった。
これは、裁判における口裏あわせやその他の陰謀を未然に防ぐためであろうが、
お互いが支えあってきた家族にとって、何よりも辛い仕打ちであった)。
最後に家族との面会を希望し、やっと聞き入れられたものの、それすら監視付き
での許可である。
#もっとも、そこについてはさすがに温情が働いたようで、家族水入らずの
時を過ごさせるために、食堂にて彼らを対面させ、ドアを閉める。
監視役は食堂のガラス窓越しに彼らを監視できるが声は聞こえないという
折衷案が考え出された。
ちなみに、タンプル塔では密談を防ぐために、夜寝るときでさえドアを
閉めることは許されなかった!
そこでのルイ16世と家族の別れの模様は、あまりにも切ない。
そして最後に。
翌朝8時に最後の別れをすることを語ったルイ16世に対して、マリーは
せめて7時にと、少しでも長く時間を取れるよう、時間の前倒しをお願いする。
それに応えて、「では、明日7時に。おやすみ」と、自分の居室に引き上げた
ルイ16世は、翌朝家族とは会わずにタンプル塔を去っていき、処刑される。
それは、これ以上悲しい思いを家族に味合わせたくないという、彼の心からの
愛情によるものであり、クレリーに泣きながら語った「私だって、家族の最後の
抱擁を受けずにでていくのは、まったく辛いのだ!…」という言葉に、その思いが
凝縮されている。
せめてもの彼に対する慰みは、世が世なら殆ど家族との時間なぞ持つことが
出来なかった彼が、タンプル塔においてはほんの半年足らずではあったものの、
家族の時間を持つことが出来たことであろう。
処刑の後、ルイ16世もマリー、エリザベートも、王家由来の墓所である
サン・ドニ大聖堂ではなく、マドレーヌ寺院の共同墓地に埋葬された(※)。
僅か10歳で亡くなった(というより殺された)ルイ17世は、上記とは
別のタンプル塔傍の無縁墓地に埋葬された。
※ ウィキペディアによると、彼らの遺体は酸化カルシウムで覆われたとあるが、
その意図が不明である。
もしご存知、もしくは推察できる方がいらっしゃれば、お教えください。
不運な時代の嵐に翻弄された家族は、その後の名誉回復を受けて、ようやく
サン・ドニ大聖堂に埋葬されなおされた。
もっとも、遺体の捜索はかなり厳しいものがあり、ルイ16世はともかく、
マリーの遺体が見つかり、きちんと埋葬されなおしたのかは、かなり不確かと
思われる。また、ルイ17世に至っては遺体発見に至らず、死後サンプル標本と
して取り出されていた心臓のみがサン・ドニに埋葬された。
だが、そうした物質的なレベルはどうあれ、今は真の意味で親子水入らずの
時間を彼らの魂が過ごせているであろうことを、同じく子を持つ親として、
切に願うのみである。
付記
クレリーは、ルイ16世の死とともにタンプル塔での従僕の職から解かれて
しまった。
当時の革命の狂気の中で、これだけ生粋の王党派であったクレリーが、
実際何度も疑いをかけられ、処刑リストに名前が挙がりながらも、からくも
その凶刃から逃れることが出来たことは、本当に幸いだった。
なお、クレリーはその後、マリー・テレーズ王女がテンプル塔から捕虜交換で
オーストリアへ送られると、即座に合流。ウイーンにてマリー・テレーズに
仕えていく。
その中で発表されたこの手記は、フランスでも評判となり、ルイ16世の
人気の再燃を恐れた革命推進派は、偽のクレリー手記まで出して、その
評判を貶めようと画策したらしい。
スケールの違いこそあれ、かつて理想に燃えた過激派が、疑心難儀から
「総括」の名の元にお互いを監視し、貶め合っていった日本赤軍を彷彿と
させるエピソードではある。
クレリーが、どういった思いで王室に仕え続けたのかは分からない。
その生涯を、生まれたときの体制の枠からはみ出ることも出来なかった
不器用で盲目的な服従者、と言うことは容易い。
だが、あの革命の中、文字通り体を張って王家に尽くし続けた彼の一途な
行動は、決して彼が金銭や名誉といったものに縛られていた訳ではなく、
あくまで自分が主人と決めたものへ殉じていったことを示している。
その後、クレリーは1809年に50歳でこの世を去った。
その墓碑銘には、「忠実なるクレリーここに眠る」と、刻まれているそうだ。
第一部の、クレリーの手記を読み終えたところである。
活字の海(仕込み編)の本書のコラムでも触れたが、クレリーはルイ16世と
その家族へ使える従僕として、タンプル塔での幽閉生活を支えた人物である。
クレリーと王室との関わりは古く、母親が王家の一人の乳母だったことに始まる。
その後、様々な王家との関わりの末に、王太子(後のルイ17世。僅か10歳で
夭折したフランス革命で不幸を蒙った王家のメンバーの中でも、その最右翼に
位置する人である)付きの従僕となっている。
しかも、革命時の動乱の影響で、一時は王家から離れたクレリーであったが、
王家がタンプル塔に幽閉されたことや、それまで王家に付き従っていた者達が
みな逮捕されたことを知ると、いてもたってもいられなくなり、様々な手段を
講じて、再び王太子付きの従僕としてタンプル塔に舞い戻るのだ。
そんなクレリーの人生を考えると、生粋の王党派であったことは間違いなく、
この手記もそうしたクレリーの目線からのもののため、どこまで表現を鵜呑みに
してよいものか、という課題はある。
がしかし、タンプル塔におけるルイ王家の生活を知る便が他に無いこともあり、
ここは素直に、クレリーの著し出すルイ16世の最後の日々が、真実を追って
いく道標であると思いたい。
そうした時、まず驚かされるのは、そこにいるルイ16世という人物が、
本当に当人なのか?ということである。
ツヴァイクに影響を受けたとされる「ベルサイユのばら」の人物像のイメージが
強いせいか(笑)、どうしてもルイ16世に対して好人物ではあるが決断力に
乏しく、国王としても、男性としても、その魅力に欠けていたという先入観を
持っていたが、少なくともクレリーにとってルイ16世は神聖にして不可侵な
国王中の国王として捉えられており、またルイ16世もそれによく応えている。
しかも、そのルイ16世の毅然とした受け答えを見ていると、そうした
クレリーのルイ16世像が、別に痘痕も笑窪という訳でも無さそうなのである。
世情と自分たちを取り巻く状況を冷静に判断し、自分の運命には一片の過度の
期待も持たず、運命に抗うことなく定めとして粛々と受け止めつつ、残される
家族には最大限の思いを寄せる。そんな男が浮かび上がってくるのだ。
しかも彼(=ルイ16世)は、クレリーをはじめとする、自分に最後まで忠実に
接してくれた人々に対する感謝の念もきちんと持つとともに、そのものたちが
自分への忠誠心からかえって危険な目に合わないような気配りも十分している。
ベルサイユ宮殿での豪奢な生活の日々から、正に坂を転げ落ちるような生活の
激変。それは、タンプル塔に幽閉されてからも留まるどころか、むしろ加速して
ゆく。
ベルサイユから王家が移されたテュイルリー宮は、既に王家の管理を離れて
久しく、浮浪者や犯罪者の半ば巣窟になり、荒れ果てていたという。
悪臭を放ち、不潔。雨漏り、窓の立て付け不具合による風雨の侵入といった、
殆ど幽霊屋敷の様相を呈していたテュイルリー宮での軟禁。
更には、そんな宮での生活すら奪われ、とうとうタンプル塔へ幽閉されることに
なった日々。
そこでは、クレリーを除けばかつては自分たちに御目文字も適わなかった
庶民達(正確には国民公会から派遣された監視兵や役人達)に、一挙手一投足
まで看視され、かつ蔑まれるという屈辱を味わわされる。
やがて国民公会によって王制が否定されると、国王という署名も認められなく
なり、ルイ16世、やがてはルイ・カペーという自らのものでもない名前を
名乗らされることになってしまった彼。
#ルイ・カペーという名前が何処から来たのか不思議だったが、本書を読んで
裁判でルイ・カペーと呼ばれたルイ16世の反論(それは先祖の名前であり、
自分のものではない)を読んで、初めていきさつを理解できた。
ちなみに、マリーは、その裁判で名すら与えられず、カペー寡婦と称された。
#ルイ16世に死刑が宣告されてからは、自殺を防ぐために食事にナイフすら
与えられないようになっていた。
しかし、それらの境遇にも、ルイ16世は本当に黙々と耐えていく。
その忍従は、あまりにも違いすぎる革命前後の生活のギャップがもたらしたもの
なのかも知れない。
自分達を取り巻く境遇の差が大きすぎて、時代の流れが不可逆的なものである
ことを弥が上にも認識せざるを得なかったのではないかと思えるためであり、
ある意味地上の栄華を極めた境遇にあったからこそ、諦観も出来たのでは?と
穿った考えも持ってしまう。
だが、例え何が彼の心にあったのかはともかく、この書物の中に示される
ルイ16世の立ち振る舞いは、例え身は幽囚されていようと王のそれである。
このようなルイ16世をして、この本の編者であるブロスはこのように称している。
「タンプル塔で過ごした日々のあいだに、優柔不断な見かけだおしの国王と
軽薄で悪意に満ちた王妃は、模範的な人物、悲劇の主人公となり、やがて
伝説の仲間入りを果たすことになる。
(中略)
その大塔では粗暴で無作法な連中に囲まれて、威厳と忍従に満ちた一家が
暮らしていた。」
このクレリーの手記を読む限りにおいて、まさしく上記の表現のとおりの
一家がそこにはあった。
夫は家族を常に庇い、子供に最大限の愛情を注ぐ。
妻は夫のことを一心に思いつつ、やはり子供に対して出来るだけの心配りを
している。
そして、ルイ16世の妹であるエリザベート内親王も、また然り。
処刑前日になって、ようやくルイ16世は家族と再び時間を過ごせるように
なった(裁判と同時に、国民公会はルイ16世を家族から引き離してしまった。
これは、裁判における口裏あわせやその他の陰謀を未然に防ぐためであろうが、
お互いが支えあってきた家族にとって、何よりも辛い仕打ちであった)。
最後に家族との面会を希望し、やっと聞き入れられたものの、それすら監視付き
での許可である。
#もっとも、そこについてはさすがに温情が働いたようで、家族水入らずの
時を過ごさせるために、食堂にて彼らを対面させ、ドアを閉める。
監視役は食堂のガラス窓越しに彼らを監視できるが声は聞こえないという
折衷案が考え出された。
ちなみに、タンプル塔では密談を防ぐために、夜寝るときでさえドアを
閉めることは許されなかった!
そこでのルイ16世と家族の別れの模様は、あまりにも切ない。
そして最後に。
翌朝8時に最後の別れをすることを語ったルイ16世に対して、マリーは
せめて7時にと、少しでも長く時間を取れるよう、時間の前倒しをお願いする。
それに応えて、「では、明日7時に。おやすみ」と、自分の居室に引き上げた
ルイ16世は、翌朝家族とは会わずにタンプル塔を去っていき、処刑される。
それは、これ以上悲しい思いを家族に味合わせたくないという、彼の心からの
愛情によるものであり、クレリーに泣きながら語った「私だって、家族の最後の
抱擁を受けずにでていくのは、まったく辛いのだ!…」という言葉に、その思いが
凝縮されている。
せめてもの彼に対する慰みは、世が世なら殆ど家族との時間なぞ持つことが
出来なかった彼が、タンプル塔においてはほんの半年足らずではあったものの、
家族の時間を持つことが出来たことであろう。
処刑の後、ルイ16世もマリー、エリザベートも、王家由来の墓所である
サン・ドニ大聖堂ではなく、マドレーヌ寺院の共同墓地に埋葬された(※)。
僅か10歳で亡くなった(というより殺された)ルイ17世は、上記とは
別のタンプル塔傍の無縁墓地に埋葬された。
※ ウィキペディアによると、彼らの遺体は酸化カルシウムで覆われたとあるが、
その意図が不明である。
もしご存知、もしくは推察できる方がいらっしゃれば、お教えください。
不運な時代の嵐に翻弄された家族は、その後の名誉回復を受けて、ようやく
サン・ドニ大聖堂に埋葬されなおされた。
もっとも、遺体の捜索はかなり厳しいものがあり、ルイ16世はともかく、
マリーの遺体が見つかり、きちんと埋葬されなおしたのかは、かなり不確かと
思われる。また、ルイ17世に至っては遺体発見に至らず、死後サンプル標本と
して取り出されていた心臓のみがサン・ドニに埋葬された。
だが、そうした物質的なレベルはどうあれ、今は真の意味で親子水入らずの
時間を彼らの魂が過ごせているであろうことを、同じく子を持つ親として、
切に願うのみである。
付記
クレリーは、ルイ16世の死とともにタンプル塔での従僕の職から解かれて
しまった。
当時の革命の狂気の中で、これだけ生粋の王党派であったクレリーが、
実際何度も疑いをかけられ、処刑リストに名前が挙がりながらも、からくも
その凶刃から逃れることが出来たことは、本当に幸いだった。
なお、クレリーはその後、マリー・テレーズ王女がテンプル塔から捕虜交換で
オーストリアへ送られると、即座に合流。ウイーンにてマリー・テレーズに
仕えていく。
その中で発表されたこの手記は、フランスでも評判となり、ルイ16世の
人気の再燃を恐れた革命推進派は、偽のクレリー手記まで出して、その
評判を貶めようと画策したらしい。
スケールの違いこそあれ、かつて理想に燃えた過激派が、疑心難儀から
「総括」の名の元にお互いを監視し、貶め合っていった日本赤軍を彷彿と
させるエピソードではある。
クレリーが、どういった思いで王室に仕え続けたのかは分からない。
その生涯を、生まれたときの体制の枠からはみ出ることも出来なかった
不器用で盲目的な服従者、と言うことは容易い。
だが、あの革命の中、文字通り体を張って王家に尽くし続けた彼の一途な
行動は、決して彼が金銭や名誉といったものに縛られていた訳ではなく、
あくまで自分が主人と決めたものへ殉じていったことを示している。
その後、クレリーは1809年に50歳でこの世を去った。
その墓碑銘には、「忠実なるクレリーここに眠る」と、刻まれているそうだ。
土に遺体を埋める時、かなりの深さにしないと腐敗臭がし野生動物が掘り起こしてしまいます。
墓を荒らされないよう石灰をまきます。
(Yahoo知恵袋 アマデウスの遺体に石灰が放り込まれていたのはなぜより)
僕の質問への回答、ありがとうございます!
なるほど!ですね~。
よく理由が分かりました。
が、そのことは彼らの遺体が棺にすら入れられず、共同坑のようなところに放り込まれたのかも?と思わせますね。
もっとも、バスティーユ襲撃や9月2日暴動の時でもなければ、それほど死体がパリ市内に溢れかえるという状況でも無かったのでしょうから、やはりこうした措置は、王家に対するパリ市民の怒りがもたらしたものなのかもしれませんね。
ともあれ、ひとつ疑問が解消しました。
ありがとうございました。
私は、なんだかクレリの気持ちが分かります。私の父親は、第二次世界大戦の時、近衛騎兵でした。
天皇陛下を守るための、選りすぐられた騎兵で、名誉職です。その父の血を受け継ぐ私は、フランスの王政やクレリの行動は、しごく理解出来ます。
私でも、そうしたでしょう。
この本のすばらしいところは、(王党派のクレリの目を通してでも)陛下の、ベルバラで植え付けられた、愚鈍なイメージを払拭できたことだと思います。
もっとも最後の夜、眠る事が出来た陛下の心情は、はかりかねますが・・・
王妃マリーアントワネットと違い、日本ではルイ16世陛下に関する書物が少なく思います。
何かお勧めがありましたら、教えて下さい。
ルイ16世陛下を尊ぶ方が他にもいらっしゃって、嬉しい限りです。
残念ながら、陛下に照準を当てた本は、本書以外に見たことがありません。
AMAZONでは、裁判の証言集があるようですが、数十万の値がついていて、とても手が出ません。
#でも、読んでみたい…
最後の晩、陛下が眠れたかどうかは神のみぞ知る、かと。
本書は図書館で借りたので、もう手元にないのですが、最後の夜を一緒に過ごしたいとマリーが申し出たのを、心落ち着かせる時間が欲しいからとやんわりと断られた、というエピソードがあります。
本心では、愛するマリーといたかったとしても、死への恐怖を克服し、それと向き合い、フランス国王としてどう対峙するか、そのことを真剣に考え、腹を括る時間が欲しかったのでは、と僕は思っています。
その中で、やはり恐怖におののくこともあったでしょう。
そして、その姿を遠からず自分の後を追う可能性が高いマリーには見せたくなかったのでは。
そうしたことを考えると、眠れたというのは、クレリーへのリップサービスなのでは、という気もしています。