著者:佐々木淳子 東京三世社刊 1981年2月10日初版刊行
先日、ルーマンという社会学者に関する本の書評を読んだ。
その中で述べられていた社会システム理論から集団知という言葉を
連想し、更にそこから脳裏に浮かび上がってきたのがこの作品である。
主人公は、高校2年生の少女。
彼女は、ある日ひょんなことから自分の夢から彷徨い出て、夢の
世界の旅人となってしまう。
この世界観においては、全ての人の夢は同じ地平上に存在している。
その他人の夢同士が混同しないように設けられているものが、
表題にもある赤い壁であり、主人公は知らぬうちに自分の赤い壁を
越境してしまい、戻れなくなってしまった…という設定である。
自らの夢に帰るべく。
次々と赤い壁を乗り越えて様々な人の夢を訪れる中で、主人公は
他の生き物の夢の地平へと連れ去られそうになる。
その際に主人公は、夢とその持ち主は、互いに引き合う力を持つ、
という啓示を受け、異世界へ拉致される寸前にその身を人の夢の
地平へとダイブさせる。
異世界の入り口から、自分の夢が自分を引き寄せてくれることを
信じて飛んだ少女。
彼女が遥かな高みから見た人の夢の世界は、男性とも女性とも
つかぬ、人の顔の形をしていた…。
この後、主人公はめでたく自分の夢に受け止めてもらい、ようやく
夢から覚めることが出来たという落ちがついているこの作品であるが、
今回、このコラムを書くために数年、いや、或いは十数年ぶりに
再読してみたが、1980年に初出した本作品が全く色褪せず、
今なお生き生きと読者にその世界観を訴求してくることが、まず
嬉しかった。
これは、氏の創作スタイルとして、極力特定の日時や事件を挿入
しないということにも起因しようが、何よりもその作品の着想が
それだけの時間を越えても尚煌きを放つほどに普遍性、先見性を
保持している証左であろう。
この、夢という潜在意識のレベルでは人は皆繋がって、一つの
人類という塊をなすという発想と、それをこうして女子高生が
主人公の短編に着地させるストーリーの展開力は、生半なもの
ではない。
人は、通常個々人としての意識を持ち、独自に考え、動き、
そして死んでいく。
だが、実はその生が、例えて言えば人の体の細胞のようなもの
であり、一つの生き物の体を構成する一部に過ぎないとしたら。
僕たちが、個々人で自由に動き回っていると考えていることは、
実際にはお釈迦様の手の上を飛び回って悦に浸っていた孫悟空に
過ぎないのかも知れない。
主人公が見た、人の夢の集合体=巨大な人の顔は、何を意味するのか。
人を生み出した神か。
あるいは、人類という種がイドの世界で一つとなっている象徴なのか。
それでも。いや、それだからこそ。
全体の一部として、斯く在れと定められた生よりも、斯く在るべし
として生きることを是としたニーチェの思想に、僕は共感する。
人として生を受けた以上、その人としての枠を超越しようとする
ことは、至難の所作なのかもしれない。
だがそれが、抗おうとすればするほど内部に虚無を抱えるだけ
だとしても、抗い続けることが出来る意思を有している限り、
人は与えられた命を生かされるのではなく、自ら選んだ道を
生きていると言えるのではないだろうか?
全ての、赤い壁を越えて尚、命の限りを見極めようとする人に。
エールを。
(この稿、了)
先日、ルーマンという社会学者に関する本の書評を読んだ。
その中で述べられていた社会システム理論から集団知という言葉を
連想し、更にそこから脳裏に浮かび上がってきたのがこの作品である。
主人公は、高校2年生の少女。
彼女は、ある日ひょんなことから自分の夢から彷徨い出て、夢の
世界の旅人となってしまう。
この世界観においては、全ての人の夢は同じ地平上に存在している。
その他人の夢同士が混同しないように設けられているものが、
表題にもある赤い壁であり、主人公は知らぬうちに自分の赤い壁を
越境してしまい、戻れなくなってしまった…という設定である。
自らの夢に帰るべく。
次々と赤い壁を乗り越えて様々な人の夢を訪れる中で、主人公は
他の生き物の夢の地平へと連れ去られそうになる。
その際に主人公は、夢とその持ち主は、互いに引き合う力を持つ、
という啓示を受け、異世界へ拉致される寸前にその身を人の夢の
地平へとダイブさせる。
異世界の入り口から、自分の夢が自分を引き寄せてくれることを
信じて飛んだ少女。
彼女が遥かな高みから見た人の夢の世界は、男性とも女性とも
つかぬ、人の顔の形をしていた…。
この後、主人公はめでたく自分の夢に受け止めてもらい、ようやく
夢から覚めることが出来たという落ちがついているこの作品であるが、
今回、このコラムを書くために数年、いや、或いは十数年ぶりに
再読してみたが、1980年に初出した本作品が全く色褪せず、
今なお生き生きと読者にその世界観を訴求してくることが、まず
嬉しかった。
これは、氏の創作スタイルとして、極力特定の日時や事件を挿入
しないということにも起因しようが、何よりもその作品の着想が
それだけの時間を越えても尚煌きを放つほどに普遍性、先見性を
保持している証左であろう。
この、夢という潜在意識のレベルでは人は皆繋がって、一つの
人類という塊をなすという発想と、それをこうして女子高生が
主人公の短編に着地させるストーリーの展開力は、生半なもの
ではない。
人は、通常個々人としての意識を持ち、独自に考え、動き、
そして死んでいく。
だが、実はその生が、例えて言えば人の体の細胞のようなもの
であり、一つの生き物の体を構成する一部に過ぎないとしたら。
僕たちが、個々人で自由に動き回っていると考えていることは、
実際にはお釈迦様の手の上を飛び回って悦に浸っていた孫悟空に
過ぎないのかも知れない。
主人公が見た、人の夢の集合体=巨大な人の顔は、何を意味するのか。
人を生み出した神か。
あるいは、人類という種がイドの世界で一つとなっている象徴なのか。
それでも。いや、それだからこそ。
全体の一部として、斯く在れと定められた生よりも、斯く在るべし
として生きることを是としたニーチェの思想に、僕は共感する。
人として生を受けた以上、その人としての枠を超越しようとする
ことは、至難の所作なのかもしれない。
だがそれが、抗おうとすればするほど内部に虚無を抱えるだけ
だとしても、抗い続けることが出来る意思を有している限り、
人は与えられた命を生かされるのではなく、自ら選んだ道を
生きていると言えるのではないだろうか?
全ての、赤い壁を越えて尚、命の限りを見極めようとする人に。
エールを。
(この稿、了)
Who!―超幻想SF傑作集 (1983年) (シティコミックス)佐々木 淳子東京三世社このアイテムの詳細を見る |