クレリー他著 ジャック・ブロス編 福武書店 1989年 1400円
昨日のクレリーの手記に続く第二部は、ルイ16世の最後に贖罪司祭として
立ち会ったフィルモン神父の手記である。
もっとも、第一部のクレリーが、日記に詳細に記載していたものを編集した
と思われるものに対して、フィルモンのものは後の王政復古の折に、ルイ18世に
ルイ16世の最後についてまとめるように依頼されて書き起こしたものであるが
ために、発行されたのは1815年と、ルイ16世の処刑から22年が経過して
いたこともあり、かなりページ数にしても短いものとなっている。
#もっとも、刊行されたのは1815年だか、フィルモンがこの手記を書き
起こしたのが何時かまでかは不明である。
また、既に刊行されていたクレリーの手記等、当時を思い出すための材料と
なる書物もあったとは思うが、当時の事情を考えれば十分詳細な手記と
言えるであろう。
ちなみに、クレリーの手記は121ページ。フィルモン神父のそれは22ページ
となっている。ちなみに第三部のマリー・テレーズの回想録は、58ページで
あった。
フィルモンの手記は、ルイ16世の弾劾裁判における弁護士であったマルゼルブ
から呼び出されところから始まる。
このマルゼルブは、裁判を始めるにあたって国民公会から弁護人を付ける権利を
宣告されたことを受け、ルイ16世が依頼した弁護士である。
もっとも、ルイ16世がもっとも依頼したかった人物であるタルシェ氏は、
健康状態を理由に弁護を断っている。
#この本の編者であるブロスの註によると、このタルシェの返信の署名は
共和主義者 タルシェとなっていたとのことである。
このことから、真に健康状態がどうであったのかはともかく、タルシェは
ルイ16世の弁護をすることで、国民公会から王党派と睨まれることを
恐れて、弁護人を忌諱したと考えるのが妥当であろう。
もっとも、あの時代において、この判断はやむを得ないと思われる。
むしろ、裁判が始まるや、かつての"忠臣"たちがルイ16世について
酷い中傷を証言し、それによって自己保身を図ったことと比べれば、
健康状態を理由にするだけ、精一杯ルイ16世を慮った発言と言える
だろう。
そうした中にあって、元パリ租税法院長であり、大臣も勤めていたマルゼルブを
はじめとする四氏が、国民公会に宛ててルイ16世の弁護を担当したい旨の
手紙を国民公会に向けてしたためている。
その手紙は、ルイ16世に対する敬愛の念に満ちたものであり、当時の時代を
考えれば恐ろしく身を危険に晒すことであった。
革命と言う非常時にあって、とりあえずは安全な生活にありながらもこうした
反体制と宣言するような手紙を出すこと自体、本当に勇気のいることであった
ろう。
また、その手紙を議員団により読み上げられたルイ16世は、どれほどに
勇気付けられたことだろう。
ただ、マルゼルブ自身は、実際には相当にリベラルな思想を持ち、明言はして
いないものの、まだフランス革命が始まる前、1788年に著した「出版自由論」
においても、自由主義が王権とは相容れないことや、時代の流れは確実に自由主義
に靡いており、早晩王権の土台を揺るがすことにあるであろうことも見抜いている
とされている。しかも、自由主義を理想とする政府高官として、自らの思想と
王家への忠誠の境目に合って、そのバランスを如何様に取っていくかについて
苦慮した節がある(おお、まるでオスカルではないか)。
結局、そのどちらをも見限ることを良しとしなかったマルゼルブは、その透徹した
思惟で持って自らの行動を選び、その結果それに殉じていったのである。
#マルゼルブは、国王処刑の翌年、反体制と看做されて処刑された…
閑話休題。
話をフィルモンの語らいに戻そう。
そんなマルゼルブから、ルイ16世の意向として贖罪司祭の要請を受けた
フィルモンは、心からの忠誠を持って要請を受け入れる。
これが通常の犯罪裁判の贖罪司祭の選出であれば、売名行為等の動機も十分
考えられたであろう。
しかしながら、王家憎しの怨嗟の声が充満しているパリにあって、ルイ16世に
贖罪と心の安らぎを与える司祭という仕事がどれほど危険なものかは、十分に
推察できる。
まして、聖職者も革命によりその地位が貶められ、第三市民からは貴族や王族と
並んで搾取階級としての視線を浴びせられていた頃なのだ。
そのことからも、フィルモンの申し出受諾は、真に忠誠からのものと考えて
間違いないだろう。
時は、1893年1月。
14日の国民公会での採決。更に18日に執行猶予についての採決を経て、
ルイ16世の死刑が確定した後、20日にフィルモンへ国民公会から呼び出しが
有り、明日処刑されるルイ16世の贖罪司祭を引き受けるかどうかの打診を
受ける。
申し入れを受諾したフィルモンは、司法大臣ガラら数人の議員団とともに
国王の幽閉先のタンプル塔へと赴くことになる。
#この道中で、フィルモンに対してガラは死刑宣告を告げにいく任務の陰鬱さを
嘆くとともに、法廷でのルイ16世の立ち振る舞いの立派さを賞賛した、という。
だが、革命最盛期にあって、本当に司法大臣ガラがそのような不用意な発言を
したのかは疑問である。
執筆依頼者であるルイ18世を喜ばせんと、フィルモンの筆が滑った可能性も
否定は出来ない。
ただ、記述が、「馬車の窓を閉めた後…」と具体的なことと、そうした話を
振られても、返事に窮し、結局胡乱な発言がルイ16世の望む最後の儀式
(おそらくは、臨終の間際に行われるとされる『終油の秘蹟』)
を自分が行うことを阻害する結果となってはならないとして、そうした話には
乗らなかった…としていることから、あながち誇張でも無いのかも知れない。
そうであれば、ガラにそうした感銘を与えたことによって、前回のクレリーの
手記にもあったように、ルイ16世が人生の末期になって、真の意味で王たり
得たのでは?とすることの、図らずも裏付けとなるであろう)
そして、フィルモンはタンプル塔によて、上記のガラにより明日の処刑執行を
告げられた直後のルイ16世とようやく対面する。
(その2へ続く)
昨日のクレリーの手記に続く第二部は、ルイ16世の最後に贖罪司祭として
立ち会ったフィルモン神父の手記である。
もっとも、第一部のクレリーが、日記に詳細に記載していたものを編集した
と思われるものに対して、フィルモンのものは後の王政復古の折に、ルイ18世に
ルイ16世の最後についてまとめるように依頼されて書き起こしたものであるが
ために、発行されたのは1815年と、ルイ16世の処刑から22年が経過して
いたこともあり、かなりページ数にしても短いものとなっている。
#もっとも、刊行されたのは1815年だか、フィルモンがこの手記を書き
起こしたのが何時かまでかは不明である。
また、既に刊行されていたクレリーの手記等、当時を思い出すための材料と
なる書物もあったとは思うが、当時の事情を考えれば十分詳細な手記と
言えるであろう。
ちなみに、クレリーの手記は121ページ。フィルモン神父のそれは22ページ
となっている。ちなみに第三部のマリー・テレーズの回想録は、58ページで
あった。
フィルモンの手記は、ルイ16世の弾劾裁判における弁護士であったマルゼルブ
から呼び出されところから始まる。
このマルゼルブは、裁判を始めるにあたって国民公会から弁護人を付ける権利を
宣告されたことを受け、ルイ16世が依頼した弁護士である。
もっとも、ルイ16世がもっとも依頼したかった人物であるタルシェ氏は、
健康状態を理由に弁護を断っている。
#この本の編者であるブロスの註によると、このタルシェの返信の署名は
共和主義者 タルシェとなっていたとのことである。
このことから、真に健康状態がどうであったのかはともかく、タルシェは
ルイ16世の弁護をすることで、国民公会から王党派と睨まれることを
恐れて、弁護人を忌諱したと考えるのが妥当であろう。
もっとも、あの時代において、この判断はやむを得ないと思われる。
むしろ、裁判が始まるや、かつての"忠臣"たちがルイ16世について
酷い中傷を証言し、それによって自己保身を図ったことと比べれば、
健康状態を理由にするだけ、精一杯ルイ16世を慮った発言と言える
だろう。
そうした中にあって、元パリ租税法院長であり、大臣も勤めていたマルゼルブを
はじめとする四氏が、国民公会に宛ててルイ16世の弁護を担当したい旨の
手紙を国民公会に向けてしたためている。
その手紙は、ルイ16世に対する敬愛の念に満ちたものであり、当時の時代を
考えれば恐ろしく身を危険に晒すことであった。
革命と言う非常時にあって、とりあえずは安全な生活にありながらもこうした
反体制と宣言するような手紙を出すこと自体、本当に勇気のいることであった
ろう。
また、その手紙を議員団により読み上げられたルイ16世は、どれほどに
勇気付けられたことだろう。
ただ、マルゼルブ自身は、実際には相当にリベラルな思想を持ち、明言はして
いないものの、まだフランス革命が始まる前、1788年に著した「出版自由論」
においても、自由主義が王権とは相容れないことや、時代の流れは確実に自由主義
に靡いており、早晩王権の土台を揺るがすことにあるであろうことも見抜いている
とされている。しかも、自由主義を理想とする政府高官として、自らの思想と
王家への忠誠の境目に合って、そのバランスを如何様に取っていくかについて
苦慮した節がある(おお、まるでオスカルではないか)。
結局、そのどちらをも見限ることを良しとしなかったマルゼルブは、その透徹した
思惟で持って自らの行動を選び、その結果それに殉じていったのである。
#マルゼルブは、国王処刑の翌年、反体制と看做されて処刑された…
閑話休題。
話をフィルモンの語らいに戻そう。
そんなマルゼルブから、ルイ16世の意向として贖罪司祭の要請を受けた
フィルモンは、心からの忠誠を持って要請を受け入れる。
これが通常の犯罪裁判の贖罪司祭の選出であれば、売名行為等の動機も十分
考えられたであろう。
しかしながら、王家憎しの怨嗟の声が充満しているパリにあって、ルイ16世に
贖罪と心の安らぎを与える司祭という仕事がどれほど危険なものかは、十分に
推察できる。
まして、聖職者も革命によりその地位が貶められ、第三市民からは貴族や王族と
並んで搾取階級としての視線を浴びせられていた頃なのだ。
そのことからも、フィルモンの申し出受諾は、真に忠誠からのものと考えて
間違いないだろう。
時は、1893年1月。
14日の国民公会での採決。更に18日に執行猶予についての採決を経て、
ルイ16世の死刑が確定した後、20日にフィルモンへ国民公会から呼び出しが
有り、明日処刑されるルイ16世の贖罪司祭を引き受けるかどうかの打診を
受ける。
申し入れを受諾したフィルモンは、司法大臣ガラら数人の議員団とともに
国王の幽閉先のタンプル塔へと赴くことになる。
#この道中で、フィルモンに対してガラは死刑宣告を告げにいく任務の陰鬱さを
嘆くとともに、法廷でのルイ16世の立ち振る舞いの立派さを賞賛した、という。
だが、革命最盛期にあって、本当に司法大臣ガラがそのような不用意な発言を
したのかは疑問である。
執筆依頼者であるルイ18世を喜ばせんと、フィルモンの筆が滑った可能性も
否定は出来ない。
ただ、記述が、「馬車の窓を閉めた後…」と具体的なことと、そうした話を
振られても、返事に窮し、結局胡乱な発言がルイ16世の望む最後の儀式
(おそらくは、臨終の間際に行われるとされる『終油の秘蹟』)
を自分が行うことを阻害する結果となってはならないとして、そうした話には
乗らなかった…としていることから、あながち誇張でも無いのかも知れない。
そうであれば、ガラにそうした感銘を与えたことによって、前回のクレリーの
手記にもあったように、ルイ16世が人生の末期になって、真の意味で王たり
得たのでは?とすることの、図らずも裏付けとなるであろう)
そして、フィルモンはタンプル塔によて、上記のガラにより明日の処刑執行を
告げられた直後のルイ16世とようやく対面する。
(その2へ続く)