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Lab通信

「勝手にドッグラン」のブログです。

わがふるさと

2020年08月04日 20時38分44秒 | 自分のこと
4日、ちょっとヤボ用があって江戸川区役所の葛西事務所に行ってきた。

実はこの葛西、昭和23年から20年間ほど住んでいた街なのだ!。
生まれは新宿区の大久保というとこだけど、1歳にもならないうちに江戸川区のこの葛西に転居した。
その当時は葛西という住所はなく小島町といったが・・・。
葛西という名称はこの辺り一帯を総称して言ってたらしい。

ここは幼少から20歳まですごした懐かしい街だけど、今は昔の面影はまったくない・・・

当時住んでいた都営住宅は50数年前に建て替えられ5階建ての団地になっている。
母が数年間一人で住んでいた団地だし、近隣の神社や街並みなど見てみたくなった。

木登りしたりしてよく遊んだ八幡神社。八幡様(はちまんさま)と呼んでいた・・・

この八幡様は中川放水路が海に合流するその頂点に位置していたが
今は埋め立てられて海岸線は遥か先になり見ることができなくなった。

鳥居をくぐった正面に本殿がある。


昭和27~28年ころの本殿

神社のノラ犬と私。ズボンが短くなってももひきが出ている。

本殿のうしろにある社(やしろ)


昭和34年ころの八幡様。写真は近所に住む友人

左奥に見える小さな社(やしろ)と鳥居、現在は位置関係からして上の写真の右側にある社だと思われる。

中川放水路。八幡様からすぐ右にある。歩いて一分もかからない・・・


神社の正面は海になる。その海側の土手。昭和29年ころ?。上が私、下は兄

小学生のころ夏はこの土手をこえて泳いだ

中川放水路が海に合流する場所。

この先、1Kmほど川と海は防波堤で隔てられていたが、いまは海側が埋め立てられて市街地に
変わっている

中川放水路を行き来するサッパ船


当時住んでいた都営住宅からも中川放水路の土手が見える。


昭和27年。住宅の周りはこんな風景・・・

兄、小学二年生の9月

住んでいた住宅は今は都営団地となっている


母が住んでいたころは階段の上がり降りに苦労していたが、いまはエレベーターが付いている


帰りに中学校と小学校にも寄ってみた。
当時、田んぼや畑の中にあった中学校も小学校も今は市街地の中にあり、車を止めてゆっくり
見ることが出来なかった。

また、機会があれば日をあらためて訪ねてみたい・・・


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10 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (憩いの森)
2020-08-07 12:36:22
こんにちは。 誰も投稿しないようなので僭越ながらコメントさせてください。

もうすっかり忘れていましたが、Lab通信さんが江戸川区葛西に永く住んでいたとは! 30年ほど前にIT系の企業に勤務していた頃に江戸川区役所とその近辺にコンピューターの売込み営業をして思い出があります。

Lab通信さんの幼少の頃の写真が可愛いです。(^^ゞ やはり幼少時代の思い出は特別なものがありますね。

わたしの生まれ故郷は北九州市八幡西区です。中学生半ばまでいましたが、その後は親父の転勤で三重県~東京都杉並区へ引っ越すことになりました。

計画していた古いフィルムのスキャンPC取り込みもやめにしたので残った白黒写真を整理しておこうと思っています。

自分の写真でなくてもその時代を反映した服装や景色が懐かしく感じられるのは不思議です。

どうもありがとうございました。
返信する
憩いの森さんへ (Lab通信)
2020-08-08 16:50:56
コメントありがとうございます。

ブログをやってたワンコ仲間のほとんどが休眠してしまい、いまは一人の方を残す
だけになってしまいました。

それに加え、自身の投稿頻度も極端に減って、かつてにぎやかだったブログコミュニケーションも
いまはご覧のように閑古鳥が鳴いています。

でも、一度始めたからには止めたくはありません。
だから、これからも細々と続けていきたいとおもっています・・・

さて、それはさて置き・・・

何十年ぶりだったでしょうか?子供時代を過ごしたふるさとを訪ねたのは???
何十年ぶりにたずねたふるさとは恐ろしいほどに変貌していました。

何もかも変わってしまい、むかしの街や道路が想像できませんでした。
八幡神社と葛西教習所そして都営団地の場所は変わってないばずなんだけど
周りが変わりすぎて初めて訪れた街の感覚でした。

ただ、八幡様の建物は変わっていたけど、中川放水路の堤防も立派になっていたけど、その位置関係は
昔のまま・・・なつかしかったです。

憩いの森さんのように転勤族の家庭ではなかったので、自分にとっては懐かしい生まれ故郷です。
産まれは大久保だけど・・・

母子家庭だったのでホントの貧困家庭でした。そんな家で写真なんて撮る余裕なんて
ないですよね~?

実は、叔父(母の弟)が結婚するまでわが家に居候していました。
国鉄に勤めるその叔父の趣味がなんと写真でした。二眼レフの上からのぞく弁当箱のようなカメラを愛用していました。
たしかリコーだったと記憶しています

それで、こんな写真がのこっているのです。ひどい服装をしているでしょう???

子どもながらも、貧乏はいやでした・・・

返信する
貧乏は皆おなじ (憩いの森)
2020-08-08 18:25:55
すみません、続けてだめおしコメントです。返事はいりません。

Lab通信さんが東京で戦後を母子家庭として暮らしたのであれば、お母様の苦労はわたしの九州時代よりはるかに生きてゆくのが大変だったと思います。

あの歴史写真書籍「千葉市の昭和」で昭和21年頃に東京からの人々が国鉄の買い出し列車に乗って八日市場辺りまで出かけて風景を思い出します。

それも貨車の屋根にまで乗っている危険な買い出しをせざるを得なかった当時の東京の方々は、今のわれわれからは想像もつかない毎日を送っていたんですね。

わが妻も江戸っ子で終戦直後は、粗末な貧乏下宿住まいを過ごしたそうで当時の東京の食糧事情を考えると両親の苦労がしのばれます。

実はわたしは7歳まで北九州のとなりの炭鉱町に疎開していましたが小学校低学年時代は服装はつぎはぎ貧乏、下駄ばきの生徒も多かったです。

親父は三菱化成だったので大きい会社でしたが家もボロボロ、おやつは砂糖をチリ紙に包んで一ひねりしたもの、たまに母親手作りのかりんとうがご馳走の時代でした。

戦後の10年間は親戚も含めて皆貧乏だったのを覚えています。

しかしわれわれ世代は、戦争も終わって高度成長の恩恵に預かれた時代に生きてきて年金も何とか逃げ切り世代と言われ贅沢はいえません。

残りの人生を悔いなく生きられるよう頑張りましょう。 (^-^;
返信する
憩いの森さんへ (Lab通信)
2020-08-09 11:28:12
何度もコメントありがとうございます。

>貧乏は皆おなじ
お言葉ですが・・・同じ貧乏でもレベルがちがいます。
わが家は父親が病気で満足に働けなかったですからね!
昭和25年に父親が死んでからは母親一人の稼ぎで一家5人が生活していたわけですから・・・
新潟から祖母がいっしょに住むようになり、家事をやってくれました。
0歳、2歳、5歳の子ども3人と母親、そしてその祖母を入れて5人です

だから父親が働いている家庭とは比較になりません。

なにしろ、小遣いなんてもらったことはなかったし、おやつなんて食べたことありません。

学校から帰ってからお腹が空いて空いて、ご飯に砂糖や味の素をかけて食べたりしました。
それも、隠れてです。祖母に見つかったらたいへんですから・・・。
いつもいつも「腹減らし」でした。飢えたノラ犬のように・・・

近所の友だちがおやつを食べ牛乳を飲んでか?唇の上の産毛が白くなっているのを見てそれが羨ましくて・・・
僕も牛乳飲みたい!!!って・・・旨いだろうな?
なにしろ飲んだことがなかったので・・・

そんなことが悔しくて、小学6年になってとき新聞配達のアルバイトを始めました。
それも朝刊夕刊ですよ・・・毎朝、起きるのは4時半そして販売店へ
配達を終えたら学校です。そして夕方下校後もすぐに販売店へ
配達区域は葛西の端、江戸川を挟んだ対岸は浦安でした。

家にもどり夕飯を食べ終えたら、もう寝なければなりません。

そして、日曜日になると今度は新規の勧誘です。テレトリー内の他社新聞をとっている
家に飛び込みの営業です。
運よく契約できると販売店から200円もらえます・・・

配達中は天敵のノラ犬に追いかけられたり、番犬に足を噛まれたり、
バックしてきたトラックに自転車を踏みつぶされたり、いろんなことがありました。

半年はがんばりましたが、つらくて辞めました。

いまは、そんな生活想像できませんね!



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Lab通信さん・憩いの森さんへ (はまなす)
2020-08-09 12:07:21
久し振りにコメントを投稿します。暑い毎日ですが体の方は大丈夫ですか?

コメントを読みまして子供の頃の状況がわかりました。
Lab通信さんが母子家庭とは思いませんでした、文面から苦労の状態が察しられます、今の様子からは信じられません。昔の写真を見ますと昭和のこの頃が違う状態ですが思い出します。

私は生まれは北海道の日本海側の戸数50位ので冬は孤立状態です。中学位までは片田舎での生活でしたが、子供の頃はそんな田舎でしたが雑貨屋をしていましたので食べるのには不自由はなかったのが幸いですが、小学生の頃は畑へ行くのがつらく感じましたし、冬は次の暖房用の木材の切り出しの手伝いで今思いますとよく出来たなと思います。何せ電気が入りましたのが小学になってからです。
その実家も解体し生まれ故郷が無くなりました。寂しく感じますが時代と共にこれから
頑張っていきましょう。
返信する
そうでしたか! (憩いの森)
2020-08-09 15:14:04
●コメントが適切でなくて申し訳ありませんでした。>Lab通信さん

たしかに我が家は親父も技術者ということで徴兵されず、わが兄弟は4人だったので母親の子育ては大変だったようです。

それでもLab通信さんのお父様が早くして亡くなられたことは残された母親の苦労はいかばかりか、想像がつきません。

以前に何度かLab通信さんのお母様にお会いしたことがあったのですが、昔の事情をお聞きしたことがなかったのでそのような苦労を重ねていたとは!

新聞配達までして母親を支えておられたとはりっぱです。Lab通信さんの人生談義はときどき力強さを感じることが多かったのですが、そのような辛い経験からきたものだったんですね。

それに比べるとわたしは、結婚後すぐに聖書活動の宗教に入り永く活躍していましたが、途中から挫折?して脱会しすでに干支も一回りしてしまいました。

島倉千代子の歌ではないですが、小泉元首相も引用した「人生いろいろ・・・」ですね。

すみません、コメントはこれで終わりにします。

---------------------------------

●北海道の出身!のはまなすさんへ

横レスですみません。子供時代の感想をありがとうございました。つづきはハッピーシルバーブログでよろしく。
返信する
Unknown (Unknown)
2020-08-09 20:38:47
先日、一番上の姉の家から出てきた昔の写真を
一部もらってきました。
父の趣味が写真でしたので、
折々の写真が残っていました。
昔の写真はやはり、その頃の生活を思い出しますね。
子供たちにも残してやりたいのですが、
自分が写るのは極端に嫌いだったので、一緒の写真はほとんどないですね。
撮っておくべきだったと今になって。
今年は久しぶりに墓参りに帰省と思っていたのですが、動けません。
松戸に済む同郷の家族は飛行機で行ってしまいましたが。。。
返信する
はまなすさんへ (Lab通信)
2020-08-10 11:50:19
コメントありがとうございます。
北海道の生まれは聞いていましたが、やはり生活は大変だったようですね

そして寒いでしょう?
でも、食べ物には困らなかったようで幸いでした。

この時代、東京でも冬は寒く雪がよく降りました・・・
池には氷が張り登校時に下駄スケートをやったりしました。
手足はしもやけやあかぎれだらけ・・・

電気が入っていなかったとのこと、ちょっと驚きです。
そんな時代があったんですね?いまは想像もできません。

東京はいくら貧乏人でも電気はありましたが、ガスはなかったので、
マキと炭が熱源でした。材木拾いやマキ割りなどやらされました。

水道は屋外で6軒ほどの共同でした。
洗濯や米とぎなどは手がちぎれるほどの寒さでした・・・家の手伝いはよくやらされました。

故郷がないのはいっしょです。
住んだ家もないし、街も変わってしまって・・・



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憩いの森さんへ (Lab通信)
2020-08-10 12:05:02
>コメントが適切でなくて申し訳ありませんでした。>Lab通信さん
いやいやとんでもないです・・・なんどもコメントありがとうございます。

>残された母親の苦労はいかばかりか
そう、近所の人にもよく言われました・・・だから親孝行しなくてはいけないよ!・・・って

母は父親の勤めていた信用金庫で働くことができましたが
そこは女で中途採用、安給料で夜遅くまで働いていました。
家に帰ればいつも親子喧嘩、なんども母親の涙を目にしました。

94歳まで長生きしたけど、結局は親孝行などできなかった

そんな人生を宗教に頼っていたのかもしれません

返信する
サラままへ (ウォル父)
2020-08-10 12:18:07
サラままですよね???
コメントありがとうございます・・・

むかしは写真は貴重でしたからね!今みたいに
簡単に安価に撮ることはできない。

第一カメラを持つことすら貧乏人にはできなかった。
お父様の趣味が写真だった。とのことですが、わが家も
叔父という居候がいなければ写真なんてのこっていなかった。
でも、せいぜい5歳くらいからのものしかありません。

>撮っておくべきだったと今になって。
そう、後悔しますよね?
だから、山に行ったりワンコ遠足の行ったりしたときにはあとで後悔しないように
たくさん撮ることにしています。
面倒なんですけどね・・・

いまは動画もあるので、あとでいい思い出になるにちがいありません。

でも、いまからではちょっと遅いかも?ね

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