壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

芭蕉のパトロン

2008年05月30日 23時27分30秒 | Weblog
       五月雨に蛙のおよぐ戸口哉     杉 風

 山間の町や村を通ると、道の両側に溝があり、そこには澄んだ水が音を立てて流れ、鍋や釜、野菜などを洗っている光景を、以前はよく見かけたが、今はどうであろう。
 そうした溝が、折から降り続く五月雨で水があふれ、道にまで流れ込んでいる。ふと見ると、流されてきた蛙が、家の戸口のあたりを泳いでいる、という情景である。

 作者の杉山杉風(さんぷう)は、江戸日本橋小田原町で、幕府に魚類を納入するお納屋を営み、「鯉屋」といった。
 はじめ談林俳諧に親しんだが、芭蕉が江戸へ来るとすぐに入門し、深川のいわゆる芭蕉庵も、杉風の提供によるものであった。
 去来と並んで、芭蕉の最も篤実な門人であり、芭蕉のパトロンとして尽くした役割は大きい。
 芭蕉も、「去来は西三十三国、杉風は東三十三国の俳諧奉行」と言ったという。
 また杉風は、狩野派の画をよくし、彼の描く芭蕉像は許六のそれとともに、芭蕉の風貌を最も忠実に伝えるものとして定評がある。
 杉風の俳風には、鋭い感覚や斬新警抜な着想は期待できないが、平明にして温雅なところに特徴を認めることができる。

 さて、“五月雨に”の句。そのころは江戸の下町でも側溝があって、きれいな水が流れていたであろうから、雨季に入るとこのような場面は、しばしば見かけることがあったであろう。
 下町住まいの杉風であったから、これは実際に目にふれた光景を詠んだ句であろうと思われる。実景そのままを何の技巧もなく、そのままにうたっているところに、杉風の作風の一端を知ることができる。
 平明の一言に尽きるが、それでいてやはり、一つの詩的世界をつくりあげているといえよう。
 さして特徴らしきものがないところに特徴がある、と言ったら失礼であろうか。


      みづうみに映る魁夷の月涼し     季 己