壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

般若心経の世界

2008年05月06日 21時34分45秒 | Weblog
 “ゆすり、たかり”ではなかった。
 ほっとすると同時に、疑念がわいた。いったい、「あの行者のことばは……?」

 小柄・白髪・丸顔、こんなおばあさんは、どこにでもいる。
 だが、“口八丁手八丁の姉御肌”が、気になる。これも、母方の祖母にそっくりなのだ。
 小学校の遠足のとき、母に代わって、引率してくれた、それもわざわざ茨城から出てきて。
 だから、祖母が、わたしを守護してくれている、ということは納得できる。

 この日、札所では一本も線香をあげていない。
 しかし、家では毎朝、線香を二本あげていた。これは、母が二本あげているのを見習ったまでのことで、深く考えてのことではない。
 だが、言われてみれば、確かにそうなのだ。
 線香を一本あげるのは、故人の供養のため。
 線香を二本あげるのは、故人と自分の供養のため。つまり、早く彼岸へ行きたいというサイン。
 線香を三本あげるのは、故人と、自分と、生きとし生ける物すべての供養のため。 
 このことは、知識として知ってはいたが、実践していなかった。この後、線香を三本ずつあげることにしたのは、言うまでもない。

 この日、行者はもちろん、誰とも職業の話はしていない。
 今日までのわたしは、“教育一筋”の人生を歩んできた。
 珠算教育50年、高校受験・大学受験指導30年、幼稚園長20年、このほかに俳句の指導、古典の講義は、現在でも……。

 ここまで全て、行者は言い当てている。
 そして最も悔しいのは、「人間の最大の修行」を、今もって、させてもらえないことだ。

 行者は、「あの世には、いくつもの段階があり、下の3段階は、この世とあの世を行ったり来たりする」と言っていたが、これも正しく思える。
 奈良市内に、般若寺という古い、小さな寺がある。ここに、石造の十三重塔があるが、これが、般若心経の世界、つまり、“悟りの世界”を具現化したものではないかと、最近つくづく思う。

 「般若心経」の本文は、三百字に満たないが、その注釈、解説書は数知れず。それほど内容は深い、ということだろう。
 「般若心経」でもっとも有名で、よく全体の趣旨を表すと共に、「般若の哲学」の正念場をも示している、と言われるのが次の一句である。
    「色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ちこれ空なり、
    空は即ちこれ色なり」

 この重要な一句は、多くの仏教学者が、その真意を汲んで現代語に移す努力をされている。
 代表的な、中村元博士の訳を見てみよう。
 「実体がないといっても、それは物質的現象を離れてはいない。また、物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのではない。(このようにして)およそ物質的現象というものは、すべて、実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである」
 この訳文で、「物質的現象」が「色」であり、「実体がないこと」が「空」であることは、分かるが、全体的に、何を言っているのか、私には理解できない。(つづく)


      筆塚の馬琴起きだす大南風(おおみなみ)     季 己