壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

彼岸の世界

2008年05月07日 21時55分41秒 | Weblog
 絵画であれ、俳句であれ、音楽であれ、作品というものは、作者の手を離れたら、どのように解釈されても仕方がないのではなかろうか。
 奥深い作品ほど、いろいろな解釈を生む。一つの解釈しかできない作品は、底が浅い、という証明であろう。

 ということで、「色は空に異ならず、空は色に異ならず。色は即ちこれ空なり、空は即ちこれ色なり」を、変人なりに、変な解釈を試みる。
 簡単に言えば、「色」を「この世」、「空」を「彼岸、悟りの世界」と考えている、ということだ。
 中村博士の「物質的現象」を、「物質的現象のこの世」、「実体がないこと」を、「実体がない彼岸」と解釈したに過ぎない。

 では「実体がない彼岸」とは、具体的にどういうことか。
 一言で言えば、寝ているときに見る“夢”のようなもの、これが「彼岸」。
 したがって、彼岸には、時間や空間の概念はない。もちろん、実体もない。あるのは「意識」だけ、といってもこれまた実体はない。
 彼岸は、夢の世界と同じようなものだから、いつでも、どこへでも瞬時に行け、誰とでも会え、好きなものを食べることもできる。
 ただ、瞬間移動ができるといっても、同じ階層の中だけである。他の階層には勝手に行くことはできない。

 「般若心経の世界」を具現化したものが、般若寺の「石造 十三重塔」ではないか、ということは前述した。
 この塔の上へ行くほど、悟りが深まるということで、最上階へ達したときに、悟りが成就した、ということになる。
 十三重塔の、下から三層目までの“ひと”は、仏陀の命により、いわゆる「この世」に修行に出される。修行期間、修行の場などは、その“ひと”と、守護をしている上層階の“ひと”、いわゆる守護霊と相談の結果決まる。
 そうして、「この世に生まれる」わけだが、「意識」の中の記憶は、リセットされてしまうので、「彼岸の世界」も「前世」のことも覚えていないのだ。

 「色」と「空」は、表裏一体の関係なのだ。表があるから裏がある。裏があるから表がある。「表」「裏」は、便宜上つけたもので、「色」「空」も同じ。
 十三重塔の上層階から眺めれば、「彼岸」も「此岸」も表裏一体、なんら変わりはない。

 講釈師のように、いかにも見てきたように書いたが、般若心経を読誦して感じた一部を述べた次第である。
 結論を急ごう。
 「般若心経」は、彼岸の世界について述べた経で、彼岸の世界とは、実体のない“夢”と同様の世界であることを説いている。
 “夢”であるから、見えていても、聞こえていても実体はない。だから、たとえ殴られたとしても、痛くはない。
 すべて「意識」の問題であるが、その「意識」の実体がない。
 などなど、彼岸の世界について、繰り返し述べ、最後に、
 「達するぞ、達するぞ、悟りの高みに達するぞ。ともに高みに達し、目的の成就せんことを!」
 と、真言を高らかにうたいあげ、「般若心経」は終わる。


      ひらがなの般若心経 風薫る     季 己