壺中日月

空っぽな頭で、感じたこと、気づいたことを、気ままに……

老鶯

2008年05月29日 21時33分51秒 | Weblog
 梅に鶯の喩えの通り、鶯は春の鳥と、相場が決まっている。
 しかし、初夏の山に分け入ってゆくと、足元の低い藪の中から、思いもかけぬ美しい音色の鶯の声を聞いて驚くことがある。
 夏になっても鳴いている鶯を、老鶯(おいうぐいす・ろうおう)といい、また夏鶯(なつうぐいす)ともいう。このほか、乱鶯、残鶯、狂鶯などとも呼ばれ、“鶯音を入る”、“鶯老いを啼く”なども夏の季語である。

 清少納言は、『枕草子』の中で、鶯を取り上げて、

 「夏から秋の終りまで、しゃがれ声で鳴いて、『虫食い』なんて、しもじもの者は、名をつけかえて呼ぶのがね、残念で、奇妙な気がする。
 それだって、ありきたりの雀なんかみたいに、しょっちゅういる鳥だったら、それほど気にもなるまい。
 春に鳴くものだからこそ、『年立ちかへる』なんて、しゃれた文句で、歌にも詩にも作るのでしょうよ。
 やはり、春の間だけ鳴くものだったら、どんなに結構なものだろう。
 人間も同じこと。一人前でなく、世間の評判も悪くなりはじめた人をば、誰がうるさく批判するものですか」(『枕草子』第三十八段)

 と、述べている。『腐っても鯛は鯛』というところであろうか。

 もともと鶯は、秋から春にかけて人里に近づき、夏には山地に移って、産卵・繁殖する漂鳥であるから、いつ・どこで鳴こうと、鶯の勝手なのだ。
 それを、春告げ鳥だの、虫食いだのと、上げたり下げたりするのは、鳥の心を知らぬ人間の無知そのもの。
 その鶯を生きながら捕らえて、窮屈な籠に閉じ込め、附子(つけご)だの押親(おしおや)だのと、鳴き声の管理教育をするとは、とんでもないことだ。
 在職中、受験教育にもたずさわった一人として、反省しきり?


      老鶯や女神は山の頂に     季 己